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進化する自衛隊で
成長する。
キャリア パス インタビュー
自衛官とはどんな経験ができ、どんなキャリアを歩んでいけるのか。
国防、災害派遣、国際貢献。3つの使命について先輩自衛官に聞いてみました。
陸上自衛隊第1空挺団
小田一幾 3等陸曹
人を助けたい。
その思いで体力最低
ランクから
陸自トップの
精強部隊へ。
自衛官の父の影響もありましたが、一番の入隊理由は、せっかく働くなら自分のためではなく「人を助けたい」「国を守りたい」という気持ちでした。高校は通信制で野球部に所属していましたが、実は入隊当初の体力検定は最低ランク。腕立て、腹筋、3000メートル走、すべて苦手でした。正直ついていけるか不安でしたが、体力がなくても心配いりません。入隊後の継続的なトレーニングで必ず向上します。自分でも休憩時間などを活用してひたすら腕立てや腹筋をやりました。腕立ては最初は40回がやっとでしたが、今では100回は普通で、最高は120回くらいです。
台風、新型コロナで災害派遣
「一刻も早く皆さまに普通の生活を」
災害派遣は、令和元年の台風15号と新型コロナで経験しました。台風15号では、暴風と豪雨で倒れた木が電線を巻き込み、長期間の停電が起こりました。陸上自衛隊は、電線を復旧する企業を現地に前進させるための倒木の除去、道路啓開などを行いました。出動が決まった時は、「持てる力をフルに発揮し、一刻も早く皆さまに普通の生活をしてもらえるよう頑張ろう」と思いました。
![陸上自衛隊第1空挺団<br>小田一幾 3等陸曹](common/img/member_modal_beginner02_a01.png)
新型コロナでの災害派遣は、海外から到着し、ホテルで隔離に入る人たちの生活支援でした。自身の感染症対策を万全にして、食事の配膳やごみの回収などを行いました。ウイルスという見えない敵との闘いでしたが、厚生労働省と連携し、防護服にゴーグルや手袋を着用して任務にあたりました。陸自としても初めての経験で、準備期間は2日ほどしかなかったのですが、万全の対策の下、任務を完遂できました。
初めての空挺降下
「地上がジオラマみたい」
現在は第1空挺団(陸自唯一の落下傘部隊)に所属しています。実は入隊当初から第1空挺団で勤務したいと思ってましたが、最初は体力が足りなくて選抜試験に受からず配属されず...。でも、空挺団の方に「お前ならできる」と励まされ、体力をつけて合格しました。「自分が国を守るんだ」という気概を持って入隊したので、陸自トップの精強部隊に入れて、うれしかったです。
初降下は鮮明に覚えています。340メートル上空からの降下で、恐怖感があったのは航空機から飛び出すまで。飛び出してみると地上がジオラマみたいに見え、「きれいな景色だな」と思いました。本当に空の上にいるのか分からず、飛んでみたら「やっぱり空だ」と。実際の降下時間は60秒ほどでしたが、上下左右を気にしながら降下するので、体感的にはもっと短く感じました。
米軍との訓練にも参加し、コミュニケーションの重要性も感じました。これからのキャリア形成では、英語の勉強も必要だと思ってます。当面の目標は空挺レンジャー課程に挑戦すること。希望しても、一定以上のレベルに達していないとなかなか挑戦できないので、目の前の訓練や課題をこなしながら、一歩一歩近づきたいと思います。
自衛隊での経験は
社会でも活用できる
体力の向上について話しましたが、一番成長できたと思うのは精神力です。訓練でも「あと少し頑張ろう」という粘り強さというか、メンタル面での強さが出てきたなと。
![陸上自衛隊第1空挺団<br>小田一幾 3等陸曹](common/img/member_modal_beginner04_a02.png)
自衛隊では、日ごろの勤務や生活を通じて同期はもちろん、先輩でも後輩でも、本当の兄弟かと思うような人間関係が築けます。集団生活は、経験がないと慣れるまで大変ですが、いろいろな価値観の人と出会い、大切な仲間との絆を育めるというメリットもあります。
民間企業では経験ではきないようなこともたくさん経験できます。自分は定年まで頑張ろうと考えていますが、任期制でも、自衛隊で心身を鍛え、いろいろなスキルを身に付ければ、社会で活用できることも多いと思います。
- 主な経歴
-
第1普通科連隊
第1空挺団
- 出身校
-
N高等学校
航空自衛隊第2輸送航空隊第402飛行隊
外山裕太 2等空曹
念願の空中輸送員に。
国際社会に貢献できる
実感と誇り。
宮崎の実家の近くに空自の新田原基地があり、子供の頃から航空祭を楽しみにしていました。そんなこともあり、中3の時の進路面談で、担任の先生に「航空自衛隊生徒」(現在は制度終了)を教えてもらったのが入隊のきっかけです。
戦闘機整備員としてスタート
選抜試験を受け空中輸送員に
初任地は石川県の小松基地。F15戦闘機の整備員として7年勤務しました。その後、空中輸送員(ロードマスター)の選抜試験を受けて、入間基地に来て8年目になります。空中輸送員は入隊後すぐにはなることができないんです。ずっと希望していたんですが。
![航空自衛隊第2輸送航空隊第402飛行隊<br>外山裕太 2等空曹](common/img/member_modal_intermediate02_a01.png)
現在、第402飛行隊でC-2輸送機とU-4多用途支援機の航空輸送業務を行っています。分かりやすく言うと、操縦ではなく、キャビンに搭載する貨物、搭乗する乗客の取り扱い任務です。貨物の重さなどにより、飛行機のバランスが変わるため、さまざまな条件下でいかに安全に飛行できるかを事前に計算するのも重要な任務です。
PKOでの国際貢献を経験
航空輸送の任務に誇り
ロードマスターは職種柄、訓練や被災地への物資輸送などで外国に行く機会はたくさんあります。私自身もアメリカ(アラスカとグアム)、タイなどに行った経験があります。グアムの時は「コープ・ノース」という日米豪共同訓練に参加した自衛隊員を輸送するという任務で、日帰りで帰ってきました。
我々の仕事は運ぶ物があって初めて成り立つ仕事であり、それが届くのを待っている人がいます。また、乗せた人を無事送り届けることができた時、「ありがとう」のひと言をいただく時にやりがいや達成感を感じます。
C-2が入間基地に配備されたのは2021年。C-1に比べ搭載できる貨物量、乗員数、燃料などが大幅にアップし、「より多く、よく速く、より遠くへ」運べるようになりました。長時間の連続運行も可能になり、輸送能力が飛躍的に向上しました。
PKO(国連平和維持活動)での外国への物資輸送も経験しました。荷物を載せたり下ろしたり、何時にもってくるといった調整を現地の人とやらなければいけないので、コミュニケーションには語学力が必要なことを実感。ロードマスター試験でも最後に英語の質問に答える課題があったのですが、今後はますます英語力が重要になると思います。
近年、難民支援の物資輸送や在外邦人の輸送など、航空自衛隊の国際貢献活動が増えており、自分も経験を通じて海外の情勢を以前に比べて気にするようになりましたね。自分たちがやったミッションが現地の人のためになっていると思うと、誇りを感じるし、微力でも国際社会に貢献できているのかなと思います。
入隊1カ月で大きく成長
若い人たちに憧れられる自衛官に
私自身、空自生徒時代にC-1輸送機の体験搭乗を経験して空中輸送員に憧れを抱きましたので、今後、すでに入隊している若い隊員やこれから自衛官を目指す人たちに、「自分も空中輸送員になりたいな」と思ってもらえるような自衛官になることが目標です。
![航空自衛隊第2輸送航空隊第402飛行隊<br>外山裕太 2等空曹](common/img/member_modal_intermediate04_a02.png)
自衛官になってうれしかったのは、空自生徒になって1カ月ちょっと経って、ゴールデンウイークに帰省した時、中学の担任の先生に「この1カ月で何があったんだ?」と驚かれたこと。自覚はなかったのですが、所作や顔つきなどがガラッと変わっていたそうです。それを聞いて、自分が成長できていることを実感しました。
教育制度が充実
世界を舞台に活躍できる
入隊すると、教育隊で一人前の自衛官として活躍できるレベルに引き上げてくれますし、個々の希望や適性を見極めて職種を振り分けてくれます。職種が決まった後も、術科学校という専門の学校がありますので、心配はいりません。教育制度が整っていますし、何よりも自衛隊の仕事は世界中に開かれています。
- 主な経歴
-
第6航空団飛行群第303飛行隊
第2輸送航空隊第402飛行隊
- 出身校
-
航空自衛隊生徒
海上自衛隊第1護衛隊護衛艦「むらさめ」
渋川 隆 海曹長
公務員希望で入隊し、
インド洋派遣で国防を意識。
緊張の高まりを感じたIPD21。
入隊前、自衛隊に詳しかったわけでも、国防について深く考えていたわけでもありません。漠然と公務員が安定していていいかなと。学生時代、剣道に打ち込んでいたので、それを生かし警察官か自衛官になろうと考え、最終的に自衛隊を選びました。海自を選んだのは、弟がすでに陸上自衛官で、階級で下になるといやだったからです(笑)。
インド洋で補給艦護衛を経験
VLS員での経験を全国の搭載艦に共有
入隊して8年目、9.11が起こり、その2年後に初めてインド洋に派遣されました。アメリカの艦艇に燃料を補給する海自艦艇を護衛する任務で、機銃員として機関銃の整備などを担任しました。想像以上の酷暑で、甲板はフライパン状態。目玉焼きが作れます。計4度のインド洋派遣では、米海軍がテロに遭ったことも。国防への意識が強くなったのはその頃からです。
![海上自衛隊第1護衛隊護衛艦「むらさめ」<br>渋川 隆 海曹長](common/img/member_modal_advanced02_a01.png)
平成10年にアメリカに留学し、VLS(ヴァーティカル・ローンチング・システム)というミサイル発射システムの要員に。護衛艦や潜水艦から垂直に発射できるミサイルで、目標を探知したら短時間で発射できるのが大きな特徴です。誘導武器教育訓練隊で指導官をしていた時、自分の経験を全国の搭載艦に共有することができたことは、自分の中で大きな仕事でした。
海賊対処支援でジブチへ
昨年のIPD21は過去一番の緊張感
海賊対処には上級海曹として参加しました。警戒員の割り振りや装備品の管理など、マネージングが主でした。海自に入らなければ、アフリカの大地を踏むこともなかったと思います。
今までで一番緊張感を感じたのは、昨年参加したインド太平洋方面派遣訓練(IPD 21)。「自由で開かれたインド太平洋」の価値観を共有する国々との連携を強化する訓練です。中国に近い機微な海域を通りますし、私だけでなく乗組員みんな、いつも以上にピリピリした雰囲気で、緊張の高まりを感じました。
上司に育てられ先任伍長に
今後は教育隊で部下を育てたい
1年ほど前、護衛艦「むらさめ」の先任伍長になりました。海曹士と呼ばれる下士官たちのまとめ役です。部下は120人に増え、責任の重さを感じています。
![海上自衛隊第1護衛隊護衛艦「むらさめ」<br>渋川 隆 海曹長](common/img/member_modal_advanced04_a02.png)
指導方針は「O・K・A・B・C・D・E」。「思いやり・感謝を忘れず・当たり前のことを・バカにせず・ちゃんとやる・どこまでも・笑顔で」の頭文字です。船乗りとして、仲間への思いやりと感謝を大切にしてきましたし、厳しい任務では笑顔を忘れがちになるので、前向きに楽しくやろうという思いを込めました。
すばらしい上司に出会い、いろいろな教育によって成長させていただいた思いが強いので、将来は教える立場になって自衛隊に恩返ししたいと思っています。教育隊の班長として、若い隊員の育成に携われるといいですね。
艦艇から見上げる星空は感動的
家族や仲間に迎えられた時の達成感は格別
海自の魅力は、まず食事がおいしいところ。任務は厳しいですが、艦艇で一緒に生活するので仲間との絆も深まります。任務を終えて岸壁で家族や仲間の出迎えを受ける時に感じる達成感、充実感は何度味わってもいいもの。洋上で見る星空の美しさはきっと驚きますよ。手を伸ばせば届くんじゃないかと思うくらい、きれいです。
世界中のいろんな場所にいけることも魅力。自分はドバイのキラキラした夜景が一番印象に残っています。砂漠もモスクも見るものすべて新鮮でした。自衛官になっていなかったら、一生行けなかった場所だと思います。
普段の任務で、とりわけ「国防」ということを考えているわけではありませんが、一つひとつのことがそこにつながっているんだということを意識して任務にあたっています。
- 主な経歴
-
護衛艦「あさかぜ」
護衛艦「いかづち」
誘導武器教育訓練隊
護衛艦「むらさめ」
- 出身校
-
神奈川県立岩戸高等学校
航空自衛隊第1高射群指揮所運用隊
長船拓郎 1等空尉
高射は防空の砦。
日々緊張感を持って訓練、
部下の成長が一番の喜び。
中学の時に通っていた塾の先生がたまたま防衛大学校について話していたのを聞いて興味を持ち、いろいろ調べるようになりました。高校に入った時には、もう将来は防大に入って幹部自衛官になろうと決めていました。
防大では1~4年の各学年2人ずつ、計8人の相部屋生活。同学年だけではなく、上級生・下級生とも交流し、多くの学びがありました。厳しいと思うこともありましたが、おかげで成長できた実感もあります。生活のこともすべて自分でやるので、親のありがたみを改めて知りました。
幹部として高射部隊を統制
日々緊張感を持って訓練に臨む
幹部候補生学校を卒業して高射運用職種となり、第1高射群第4高射隊(入間)に配置されました。その後、第1高射隊(習志野)、第6高射群第21高射隊(車力)を経て、また入間へ。戦闘機パイロットが第1希望でしたが、他の作戦運用に関わる仕事も希望していたので、やりがいを感じています。
![航空自衛隊第1高射群指揮所運用隊<br>長船拓郎 1等空尉](common/img/cadre_modal_beginner02_a01.png)
高射部隊とは、簡単に言うと地対空誘導弾ペトリオット(PAC3)により敵航空機・ミサイルを迎撃する部隊です。ペトリオットは、地対空誘導弾のなかで最も優れたシステムといわれており、コンピュータの大幅な活用により各種機能の自動化、迅速化、高精度化が図られています。超低高度から高高度にいたる複数目標に対し、同時に対処可能であり、高い撃墜能力をもっています。
私は高射管制官として、組織戦闘における高射部隊の作戦統制を担っています。運用幹部として指揮官を補佐するほか、訓練計画を作成。訓練では部下隊員を指揮します。我が国近隣で頻発するミサイル発射に対しても常に即応態勢を維持し、緊張感を持って準備しています。
高射部隊は防空の「最後の砦」
米国で実弾射撃を経験
国内では、実弾を使わないシミュレーターによる防空戦闘訓練、機動展開のための陣地変換訓練などを重ね、練度の維持・向上を図っています。シミュレーターでは、例えば向かってくるミサイルの軌道を想定し、撃墜する訓練を行いますが、やはり実弾での訓練も必要になります。そのため、空自では定期的に米国で実弾射撃訓練を行っています。私は2度、現場指揮官として参加しました。初めて実際にミサイルが飛んでいくのを見た時は素直に感動しました。
部隊で働き出してからは、国防に関する意識も自ずと高まりました。我々は敵航空機やミサイルへの最後の砦であり、担っている役割は大きいと思っています。これからもアンテナを張って情勢を捉え、しっかり備えていきたいと思います。
部下の成長が一番の喜び
今後は上級部隊で指揮官を目指す
小隊長として部下に要望しているのは、「常にやるべきことをしっかり認識する」こと。そして自分は「率先垂範」をモットーにしています。幹部として、現場で部下と行動を共にして彼らの成長を感じられることは一番の喜びです。また、部下の成長はそのまま部隊の任務遂行能力の向上につながるので、そこにやりがいを感じます。
![航空自衛隊第1高射群指揮所運用隊<br>長船拓郎 1等空尉](common/img/cadre_modal_beginner04_a02.png)
今後は、司令部などの上級部隊での幕僚勤務により指揮官の考え方などを吸収し、見識を深めて、将来は実際に部隊の指揮を執るようになれたらと思います。
休日は家族と過ごしリフレッシュ
「国を守る」という崇高な仕事を一緒に
休日の楽しみは、家族と過ごす時間。子供はまだ小さいのですが、近くの公園や食事に出掛けるのがリフレッシュになります。まだ私の職業は理解していないようですが、自衛官の制服を着ている人を見ると「お仕事の人がいるよ」と教えてくれます。
自衛隊は、「国の安全を守る」という崇高な任務を持っています。それゆえの厳しさはありますが、人間として成長できる職場だと思います。不安に思うこともあるかも知れませんが、指導体制も整っています。近年は航空自衛隊全体でも、高射部隊においても女性の活躍の場が増えています。
- 主な経歴
-
第1高射群第4高射隊
第1高射群第1高射隊
第6高射群第21高射隊
第1高射群指揮所運用隊
- 出身校
-
防衛大学校
陸上総隊司令部 運用部防衛課
野呂瀬敬子 3等陸佐
配属すぐに東日本大震災。
災派で知った「現場の重要性」。
父が元海上自衛官で、自衛隊についていろいろ話を聞かせてくれて興味を持ちました。防大受験の決め手は、姉が先に入校していて受験を勧められたから。運動部に入ってなかったので体力面の不安はありましたが、「何も心配いらない」と背中を押してくれて。
防大では陸上要員で100キロ行軍などもありキツかった部分もありますが、同期と乗り切ることができました。一方で良かった面もあります。元々引っ込み思案な性格だったのですが、防大の4年間で意見をはっきり言えるようにもなり、自信を持てるようになりました。
部隊勤務4日目に東日本大震災
不安よりも「人を助けたい
幹部候補生学校を卒業し、北熊本の補給隊(部隊等の食事や燃料等の補給支援を担当)に配置されたのが3月7日の月曜日。その週の金曜日に東日本大震災が起こりました。後方支援業務(部隊等が活動するために必要な補給、輸送等の物的支援全般を行う)について充分な知識も経験もなかったのですが、不安よりは「人を助けたい」という気持ちの方が強かったです。
![陸上総隊司令部 運用部防衛課<br>野呂瀬敬子 3等陸佐](common/img/cadre_modal_intermediate02_a01.png)
私たちの部隊が出動したのは発災から約3週間後。熊本から大阪と群馬の駐屯地で1泊し、3日目の昼に宮城の南三陸町に着きました。倒壊した家屋や津波にさらわれて瓦礫の山となった町を見て、大きな喪失感を覚えました。
任務は入浴と給水の支援。私は入浴班長として、主に被災者への入浴支援を指揮しました。近くの川から取水し、浄水してお湯を沸かし、住民の皆さんを案内しました。お湯の温度を一定に保ち、入浴所の衛生管理や自治体との調整も行いました。
入浴は1回20人、1日200人くらいでした。皆さんが「いいお風呂だった」「ありがとう」と喜んでくれたのが何よりです。中には「1カ月ぶりにやっと入れた」と話されていた方もいました。皆さん大変な思いをされていたので、少しでも癒しを与えられるよう、明るく元気に接するのを心がけていました。
災害派遣で学んだ「現場の重要性」
幹部としての自覚も芽生えた
被災地での部隊生活は、普段の演習時と同じです。困窮している被災者の方々に配慮し、人目に付かない場所に天幕を張って、食事や睡眠をとりました。部隊配置後すぐ、未曽有の大災害で災派を経験して強く感じたのは、「現場の重要性」でした。机上で計画は練りますが、やはり現場で自分で状況を見てみないと判断できないことも多いと思いました。幹部としての自覚や職務の重要性を強く意識できたことも、今につながっています。
いずれは師団の後方支援連隊を指揮したい
部隊勤務と交互に、開発実験団での落下傘の実用試験や評価基準の作成など、新規装備品等の研究・開発も行ってきました。部隊でゼネラリストとして経験を積みながら、研究開発にも生かしてきた感じです。
沖縄では補給中隊長をしていました。離島の部隊に、九州から調達した部品や糧食、燃料などを補給する際、台風など天候に左右される場合もあり、安定した補給の課題も感じました。こうした現場経験は、需品学校研究部(需品科職種の運用・教育要領等を研究)で陸自の補給体制を検討する際にも役に立ちました。
![陸上総隊司令部 運用部防衛課<br>野呂瀬敬子 3等陸佐](common/img/cadre_modal_intermediate04_a02.png)
自衛官になって一番うれしかったのは、補給中隊長を離任する時、部下に「いい中隊長だった」と言ってもらえたことです。隊員には「明るく前向きに、全力を尽くせ」を要望していましたが、共に一生懸命やってきて報われた気がしました。
幹部としてやりたいことはいくつかありますが、一番は部隊の指揮官。研究開発も面白いですが、いずれは師団の兵站を担う後方支援連隊の連隊長として指揮を執ってみたいです。
戦闘職種でも女性の登用が拡大
ぜひ世界で活躍できる幹部自衛官に
いま、自衛隊では女性の活躍を推進していて、戦闘職種(普通科、特科、機甲科)でも登用が拡大しています。女性自衛官の仕事の幅は、私が入隊した頃と比べても広がってきていると感じます。幹部として世界でも活躍している方もたくさんいます。苦しいこともあるかも知れませんが、日本や世界の平和のために働くやりがいは大きいと思います。
- 主な経歴
-
第8後方支援連隊補給隊
第9後方支援連隊補給隊
第15後方支援隊補給中隊
- 出身校
-
防衛大学校
海上幕僚監部補任班長
濱野寛美 1等海佐
日本は海賊対処で
大きな役割を担っている。
海を守るのは意義ある仕事。
教師になろうと大学で社会福祉を研究しているうちに、国の仕事や公共サービスに興味がわいて、公務員試験の勉強をしている中で幹部自衛官の道を知りました。周囲に自衛官はいませんでしたが、広報官が詳しく説明してくれたことが背中を押しました。いろんな所で勤務でき、船や飛行機に乗るチャンスもある。山育ちだったので、海への憧れがあり、海自に一番魅力を感じました。
海賊対処は大きな抑止力に
他国の隊員とはスポーツで交流
海は、輸出入を支える交通路だったり、他国から攻め込まれないための壁だったり、食生活を支える漁場だったりします。この海を守る仕事はとても意義のあるものだと思います。
![海上幕僚監部補任班長<br>濱野寛美 1等海佐](common/img/cadre_modal_advanced02_a01.png)
海賊対処部隊では、飛行隊長兼副司令としてジブチに駐在しました。P3C哨戒機でアデン湾をパトロールするのが主な任務です。この活動は2009年に始まり、当初は年200件以上あった海賊行為は、今では年10件未満まで減っています。しかし、これは日の丸を付けた哨戒機がパトロールしていることが抑止力になっているためで、周辺諸国の貧困問題や政府のガバナンスが改善されなければ根本的解決にはなりません。発生件数は減ってますが、任務の必要性は変わっていないと思います。
私が行った頃は、アデン湾の海賊対処の7、8割は海上自衛隊が担っていると言われ、商船や近傍の海軍艦艇などへの情報提供はすでに累計で1万5千回を超えています。海賊船と疑われる船舶の武装解除などにも寄与し、国際社会から高い評価を得ています。
他の国々(米、仏、西、独など)とは相互にP3Cのオペレーションを確認し合い、教訓事項をシェアしました。関係を深める共同訓練やスポーツ交流も行いました。駐在していた時はスペインの部隊が派遣されていて、サッカーを通じて打ち解けました。スポーツは言語の壁を超えられますし、その後の円滑な任務につながりました。
国際的な仕事に興味を持ったきっかけは、幹部候補生時代の遠洋練習航海で練習艦「かしま」に乗り、世界各地の港に寄港したことでした。その時、英語をほめられたことも少し自信になりました。ただ、海賊対処でジブチに行く1年前、フィリピンで捜索救難の共同訓練をして英語で取材を受けたのですが、その時はあまりうまくいかず、もっと勉強しないとまずいなと(笑)。
![海上幕僚監部補任班長<br>濱野寛美 1等海佐](common/img/cadre_modal_advanced0302.png)
人事を通し自衛官の成長を促す
海自を魅力ある職場に
現在は海上幕僚監部で補任班長を務めています。昇任・昇給・異動など人事の仕事です。海自では、人事異動は隊員個人の成長を意識して行います。いろんな上司に出会い、複数の職務を覚え、評価を得て成長できるように、部隊要請とのバランスを見定め、慎重に行っています。
当面の目標は、より上位の部隊で指揮官としてやっていきたいと思っています。少し先の目標は、海自のブランディングをやってみたい。職務をもっと広く知ってもらい、「海自に入るといろいろ経験して人間的に成長できる」「海自は進んだ人事管理をしている」と思われる組織をつくりたいです。
世界で活躍したい人に最適
海を守る意義とは
海には危険もある一方、そこでしか経験できない、見ることのできない世界があります。360度水平線しか見えない海を航行している時は、すごく気持ちがいい。「船乗りになって良かった」と思う瞬間です。また、外国との共同訓練、国際貢献の機会や海外勤務の配置も増えていますので、国際的に活躍したい人に適した職場です。洋上生活の不安もあるでしょうが、他の人が体験できないことをやってみたいという好奇心で、ぜひ飛び込んできてください。
- 主な経歴
-
第5航空隊(那覇)
航空プログラム開発隊(厚木)
海上幕僚監部防衛部防衛課
第1航空隊第12飛行隊長
派遣航空隊飛行隊長(ジブチ駐在)
海上幕僚監部人事教育部補任課
- 出身校
-
東京都立大学
幕僚長の
モチベーションは
何ですか?
陸上、海上、航空3自衛隊のトップが、幕僚長であり、さらに3自衛隊のトップに統合幕僚長がいます。
かつての新人は、何をモチベーションとし、どんなやりがいを感じながらここまで来たのか。
お話を聞いてみました。
吉田統合幕僚長
部下に育てられて
きた37年。
人こそ防衛力の源泉
隊員との信頼関係こそ、
心の支え。
![吉田統合幕僚長](common/img/topInterview_img_modal_ground.png)
就職活動の際、私は待遇やネームバリューではなく、「生涯かけてやりたいことは何か」を一番の基準にしました。東京大学受験の時、自分は理系向きだと思って進学したら、後から文系の方が向いていたことに気づいた苦い経験があり、就職で同じ失敗をしたくなかったのです。それで、「自分がやりたいのは国の安全保障に関わる仕事だ。それも事務仕事ではなく、現場がある職場がよい」と決め、自衛隊を選びました
幹部候補生学校を出て初めて赴任したのは、北海道の留萌でした。小隊長として30人の部下を持ちました。中には自分の父親ほどの年齢の隊員もいました。今でもよく思い出すのが、冬の小隊検閲のことです。それまでスキーの経験がなかった私は、小隊で一番下手でした。検閲2日目、スキーを履いて雪の野山を行進し、谷を登ろうとした時、足を滑らせて倒れ、這い上がろうとしましたが、疲労の蓄積もあって気を失ってしまいました。班長が必死に頬を叩いて起こそうとしてくれたらしいのですが、気がついたら医務室にいました。小隊長としての検閲が、自分が倒れたことで中止になる。こんな恥ずかしいことはありません。
翌冬、再び私の小隊検閲が行われました。去年と同じ谷に差し掛かった時、私はまた足を滑らせました。去年のことが頭をよぎったその時、目の前にスキーのストックが差し出されていました。「二度と同じ失敗をこの小隊長にさせまい」と班長がずっと見守ってくれていて、とっさにストックを差し出したのです。私はそれをつかみ、何とか検閲を乗り切れました。これはほんの一例ですが、自衛隊には、若い小隊長を育ててくれる組織文化があります。あんなふうに支え合える人間関係が、この職場以外にあるのだろうか。これは、お金にも、名声にも代えられないものだと思っています。今でも、37年間続けてこられたのは、最初の3年半の留萌での経験があったからだと思います。
東日本大震災の時も、胸まで汚水に浸かり懸命に救難や捜索を行う隊員たちの姿を見て、「彼らはなぜここまで黙々と使命感を持ってやるのだろう」、そう思い涙が止まらなくなりました。「育てられる」一辺倒の小隊長から始まり、経験とともに「育てる」ウェイトが増えてきましたが、すでに入隊から30年以上が経っても、今でも現場のひたむきな隊員から学ぶことがよくあります。
「やりがい」を第一に飛び込んだ自衛隊でしたが、選択は間違ってなかったと思っています。
森下陸上幕僚長
「職業」の選択ではなく、
「生き方」の選択。
![森下陸上幕僚長](common/img/topInterview_img_modal_ground_02.png)
なぜ、私は自衛官になったのか。
防衛大学校に入ったばかりの頃は、当時の大半の学生も同じですが、自衛官になって日本の国防に尽くそうという崇高な志は持っていませんでした。むしろその頃は、小さい頃からモノ作りが好きで大工になりたいと思っており、大学は地元九州圏内の建築科への進学を目指していました。
しかし、高校3年にクラブ活動も終了して本格的に受験勉強を始めたころ、普通の大学生活を想像したものの興味を持てず、当時の生活に変化を求めて迷っていました。その時、ある友人から『防衛大学校はどうか』と誘いを受け、辛うじて合格することができました。
防衛大学校進学後も明確な国防意識はありませんでしたが、大きな転機は3年時の硫黄島研修でした。陣地跡や錆びて朽ち果てた火砲、戦車がまだ残る戦場跡を見て、先人は命を賭けてこの国を守ろうと戦ってくれたんだと実感し、眼前の事実に衝撃を受けました。
「今、自分達が平和に生活できているのは先人の努力があってこそなんだ。これは誰かが受け継がなくてはならないことなんだ。誰かは自分なんだ。これは自分の役目なんだ。」と硫黄島からの復路の輸送艦の中で思い込んだのを鮮明に覚えています。陸上幕僚長となった今では、先人の誰かがそう語りかけてくれたのではないかとも思っています。
私が防衛大学校卒業の頃はちょうどバブル経済真っ盛りであり、一流企業への就職を決めていく同期たちもいました。しかし、高給で華やかな民間企業の会社員か、それとも国防に従事する特別職国家公務員の自衛官かの2つを並べた時、私はその選択に迷いはありませんでした。硫黄島研修での体験を思い返し、これは私にとって「職業」の選択ではなく、「生き方」の選択であり、自衛官こそ人生を賭けるに相応しい生き方であると信じました。
陸上自衛隊は今、災害等のあらゆる事態に速やかに対応することはもちろん、3自衛隊での統合作戦において確実に行動できる防衛体制や、日米共同対処態勢の強化、さらには同盟国・同志国等との安全保障における連携強化を通じて国民の皆さまが平和に暮らせるような安全保障環境の創出に取組んでいる最中です。
私自身、陸上自衛隊が日本の安全を将来にわたって担保し、常に国民の皆様の期待に応えられるような強靭な組織になるよう、今一度初心を思い返し全力を注いで行きたいと思います。
酒井海上幕僚長
人も組織も変わり続けるもの。
変化を恐れず、
柔軟な姿勢で成長を。
![酒井海上幕僚長](common/img/topInterview_img_modal_maritime.png)
艦(ふね)を動かすのは簡単なことではなく、隊員それぞれがしっかり任務を遂行して初めて可能になります。若い頃は、まず自分が属している班や課、分隊などで目の前の任務を確実にこなすことが最大のモチベーションでした。階級が上がっていくと、今度はいかに部下が動きやすい環境をつくり、士気を高められるかがモチベーションになっていきました。
海上自衛隊に入り、3つの大きな転機がありました。1つ目は、4年目に初めて航海長を務めた時。その時の艦長は、若かった私にかなりの部分を任せてくれました。指示を待つのではなく自分で考え、時には失敗から学び、自身の成長を感じることができました。2つ目は、2等海佐となり初めて艦長に就任した時。ひとつの艦を任されることは大きな経験になりました。そして、自分が若い頃に艦長に見守られながら成長できたように、隊員のやる気を引き出すことを意識しました。3つ目は、護衛隊群司令になった時。海将補として8隻の護衛艦を指揮しました。緊張感も責任も大きかったのですが、これだけの部隊を自分の判断で動かすというのは自衛官冥利に尽きると思いました。
私は国防に燃えて入隊したわけではありません。高校生の時、たまたま学校に貼り出されていた防大のポスターに先輩が出ているのを見て、憧れを抱いたのがきっかけでした。しかし、防大の4年間で多くのことを学び、入隊後も多くの上司、同僚、部下と出会い、自衛官として、人として成長することができました。入隊に不安を抱いている人もいるかも知れませんが、「案ずるより産むが易し」です。壁にぶつかっても、必ず誰かが手を差し伸べ、フォローしてくれます。35年の自衛官生活を振り返って、自衛隊の最大の魅力は、やはり「人と人との関係性」にあるのではないかと実感しているところです。
海上自衛隊には古き良き伝統もたくさん残っていますが、いま一番大切なのは柔軟性ではないかと思っています。安全保障環境や諸外国との関係性、技術や装備でも日々変化があり、人も組織も変わっていかなければいけない時代になっています。私の役割は、そうした変わり目にあって新しいビジョンを示していくことだと思っています。少し逆説的な言い方になりますが、私は「変わることを恐れないこと」を変わらず大切にしてきました。皆さんと共に5年後、10年後に向け、変化を恐れず新しい海上自衛隊を築いていきたいと思います。
内倉航空幕僚長
空を超えて宇宙へ。
やりたいことが見つかる場所、
やりがいが見つけられる場所。
![内倉航空幕僚長](common/img/topInterview_img_modal_air_02.png)
私にとって、入隊当初のモチベーションは、「パイロットになる」という自分がやりたいことを仕事にできたことでした。特に、生来の乗り物酔いを大変ユニークな指導で克服させてくださった教官や、困難に直面した時に支えてくれた同期生への感謝は大きいものでした。また、周辺国の戦闘機等にスクランブル発進し、無事に任務を終え帰還した際に飛行隊長、同僚パイロット、整備員等に笑顔で迎えてもらった時の感動、そして帰宅し家族の顔を見た時の安堵感は、日々の原動力だったと改めて思います。
大きな転機は、任官7年目に米空軍F-15戦技教官課程(米空軍で戦闘機の戦闘技術と指導法を学ぶ課程)を履修したことです。1991年の湾岸戦争を経験した教官から教授された「平時に汗を流せば流すほど、戦時の犠牲を減らすことができる。」という金言を胸に刻み、「一飛入魂」で連日真剣に戦闘技術と指導法を磨きました。また、妊娠した配偶者の定期検診に付き添う等、家族を大切にしながら厳しい任務や訓練に励む米軍人を目の当たりにして、人生観、価値観が変わりました。
その後、自分の任務が操縦に留まらず、厳しさと複雑さが増していく安全保障環境下での航空防衛力の造成や弾道ミサイル防衛等の指揮へと変化・拡大するに伴って、防衛省・自衛隊という大きなチームの一員として国の守りに貢献する、その責任感がモチベーションになりました。
航空自衛隊には、空の守りや宇宙・サイバー空間の安定的利用に貢献できる多種多様な職種があり、各教育体系も整備されていますので、皆さんの「やりたいこと」、「自分に合ったこと」を発見できる場所であり、かつて自分がそうであったように「好きなこと」を「出来ること」に変えてくれる場所でもあり、何よりも一体感とやり甲斐を感じさせてくれる素晴らしい職場です。
故郷である鹿児島県垂水市の、今は廃校になった中学校で、3年間担任してくださった理科の先生は当時、屋外授業で、紺碧の空に純白のコントレイルを曳く旅客機を見上げながら、かつての夢であったパイロットへの憧れを熱く語ってくださいました。そして、同じ鹿児島にある海上自衛隊鹿屋基地の航空機の離発着を間近に見ながら過ごした高校時代には、その恩師の夢がいつしか自分の夢に変わっていきました。
その後、航空大学校の受験に失敗し夢は潰えたかのように思えましたが、防衛大学校に進み航空自衛隊のパイロットを目指すよう目標を変更し、今に至ります。このように国防に燃えて入隊したわけではない私が「空と宇宙の守りにおける代えのきかない日本代表」である航空自衛隊を率いていることは甚だ僭越ですが、中学時代に見た美しい故郷の空に思い馳せながら、感謝と謙虚さを忘れず、職責を果たしていきたいと思います。
あの時、自衛隊はこう動いた。
レジェンドエピソード
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EPISODE.01
72時間が生死の分かれ目
東日本大震災で多くの命を救った
幕僚長の決断
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EPISODE.02
自衛隊の国際貢献を切り拓いた
湾岸の夜明け作戦
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EPISODE.03
空を守る気持ちに、男女差はない
女性初の戦闘機パイロット
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EPISODE.04
幸せを復興してくれた
宝となったイラク市民の言葉
- 戦車に
運転免許はいるの? - ん? アナタ、
ひょっとして自衛官? - 5分で発進。世界に誇る、
空自のスクランブル。 - それを彼らは
「傘の絆」と呼ぶ。 - 南極に行きたいなら、
海上自衛官。 - あの政府専用機も、
運航してるのは航空自衛官。
戦車に
運転免許はいるの?
自衛隊では、職種ごとに各種資格・免許を取得する隊員が多い。例えば陸自の機甲科では、戦車や偵察用オートバイの操縦のための免許が必須となる。最近では車の免許を取らない若者が増えているが、世間一般ではデリバリーサービスが盛んになるなど、免許のニーズが再び高まっており、「バイクの免許が取れる」という理由で機甲科を希望する人も多い。ちなみに施設科も大型免許や大型特殊免許、けん引免許など、転職後に活用できる様々な免許が取れるということで、任期制隊員に人気がある。
ん? アナタ、
ひょっとして自衛官?
身のこなしや話し方などで、職業が分かってしまうことがある。自衛官の場合は、数字やアルファベットの表現。自衛隊では、数字の1は「ひと」、2は「ふた」と言う。聞き間違いを防ぐためで、1(いち)と7(しち)を混同しないよう、1は「ひと」、7は「なな」で統一している。
時間の表現も同様で、12時40分なら「ひとふたよんまる」という。これが自衛隊以外の人の会話でも出てしまうと、通じないことがあるばかりか、自衛官であることがばれて(?)しまうこともあるというわけだ。
5分で発進。
世界に誇る、
空自のスクランブル。
近年、スクランブル(緊急発進)が増えている。
領空侵犯は、領海侵犯と異なり、1分半ほどで領土に達してしまう。
そのため、隊員たちは常に5分以内に飛び立てる体制を保ち、
滑走路や機体も常に完璧に整備されている。
このパフォーマンスは、日本が世界に誇れるものだ。
一人ひとりの緻密で必死の作業が、日本の専守防衛を支えている。
それを彼らは
「傘の絆」と呼ぶ。
千葉、習志野、第1空挺団。陸自の精鋭空挺員が集まる。
地上300メートル。凄まじい風と轟音の中、合図とともに空に飛び込む。
タイミングは瞬時も逃せない。目的地点も変わり、続く仲間を危険にさらす。
その瞬間から4秒数え、開傘。もし開かなければ9秒で大地に激突する。
誰が畳んだかわからない落下傘に、命を預ける。「人を信じられなければやってけない」。
1ミリの傷も許されない。整備する技官が、その命を支えている。
彼らはそれを「傘の絆」と呼ぶ。
南極に行きたいなら、海上自衛官。
南極地域観測隊は、政府機関の研究員や職員、企業からの派遣員で構成されるが、南極観測船すなわち砕氷艦しらせは、海上自衛隊が運航している。例年11月半ばに出港し、約2週間ほどでオーストラリアへ。空路で到着していた観測隊をピックアップし、南極圏の観測を行いながら、ひと月ほどかけて昭和基地沖へ到着。前年と新年の越冬隊員がバトンタッチする約一ヵ月間、自衛隊員も観測や基地設営などの支援を行う。南極観測に携わりたい。その一つのルートが、自衛官になることなのだ。
あの政府専用機も、
運航してるのは
航空自衛官。
ニュースなどで見かける、政府専用機。天皇陛下や総理、国賓などを乗せて空を飛ぶこの特別輸送機も、実は航空自衛隊千歳基地の特別航空輸送隊が運航している。パイロットや客室乗務員など、スタッフはすべて航空自衛官。通常は任務機と副務機の2機で飛行し、整備担当の自衛官も同行するなど、自衛官の誇りにかけて要人の空の旅を守っている。一度は乗ってみたい?