潜水艦史料室

史料室見聞録 ~第7回~

海軍潜水艦部隊の終焉、そして新たな黎明

伊53

  
 明治38年に発足した第一潜水艇隊を端緒とする日本の潜水艦部隊は、終戦と共に完全に解体されます。海軍が保有していた残存潜水艦50隻以上にも、処分の命令が下りました。海没処分となるまでの数か月間、それらは保管船として各港に留め置かれていました。そしてそれぞれの定められた日に処分海域まで回航され、淡々と沈められていったのです。
 次々と海に消えゆくそれらの艦と共に長年戦ってきた乗員たちは、一体どのような思いでその日を迎えたのでしょうか。
伊号第53潜水艦の保管員長が元乗員たちへ送った爆沈処分の状況報告が、当史料室には残されています。


     

1 本艦の冥福を祈りつゝ

       報告書       

 
 『昨年八月十五日大詔一度降りて終戦に相成候よりこの方半歳有 我等が憧憬の的伊號第五十三潜水艦は米軍の指令に依り佐世保港外にて撃沈せられ候間左にその槪要を御知らせ申すべく候
 昨年十一月呉より佐世保回航在佐世保約四か月その間我等保管員一同は船體機關兵器に關しその整備に萬全を期し本艦傳統の「美しさ」を最後迄飾り居り候
 昭和二十一年四月一日佐世保出港運命の日を待つ二十四隻は米軍艦艇に取り囲まれ大蟇島西方二十浬の點に向い候處は昭和十九年夏本艦が在佐世保修理後公試に又訓練にと毎日出動せし處にして戰破れ武運拙くその墓を又同所に選ばれたる又深き因縁と言ふべきかと存じ候 發射管と機械室に米製火薬を充填し我等は同日最後の敬礼を以て甲板上人なき懐しの艦と帽振れの訣別を行ひ米軍上陸用大型艦に収容され候 本艦の最後は吾人の目にて見る事出来ざりしも他艦の乗員に聞く所に依れば仰角を以て後部より沈みしとか 時に午後二時四十分嘗て太平洋上にその猛威を轟し活躍せし伊號第五十三潜水艦は爛漫と咲く一輪の櫻花を檣に餞けられ水深一五〇米の海底に儚くも沈み候
 同日附保管員一同は轉勤又は解員歸郷致し候
 さらば我等が御艦は嘗ての乗員の幸福と發展を祈りつゝ西の海に鎮まり居る事と存じ候 解員時の艦長の御訓示を旨に國家多難の今日御國再建の為に随時随所に於て眞骨頭大本領を発揮せられん事を
 右本艦最後の模様御知らせ迄 共に本艦の冥福を祈りつゝ』(原文ママ)

 当時どのように潜水艦が処分されていったのか、またそれを元乗員がどのように受け止めていたのかが克明にわかる資料です。
 また、同艦乗り組みだった元上等機関兵曹成林四郎氏が寄贈して下さったものとして、伊53潜の潜望鏡レンズがあります。このレンズに関しては、以前Nikonの技師の方に見て頂いた際、現代の技術をもってしてもこのように研磨することは極めて困難であるとのコメントを頂いたこともあり、当時の技術力の高さが伺えます。


     

2 遺したものたち ~伊号第202潜水艦~

  伊202潜乗員        伊202潜士官室  

 
  さて、これらの保管船が処分されてしまうまでの間、元乗員たちは多くの写真を撮り残しました。
上記は伊号第202潜水艦が海没処分されるにあたって舞鶴から佐世保へ入港した時の写真です。昭和20年10月、佐世保港にて撮られたこれらの写真には、多くの乗員が笑顔で写されています。
 2枚目は士官室での写真です。中央に座っているのが伊202潜の艦長、その左隣は水雷長です。2人はそれぞれのちに海上自衛官となりました。艦長は第1潜水隊群司令から自衛艦隊幕僚長、水雷長は海上幕僚長まで務め上げました。
その元艦長である今井賢二海将補は伊202潜に搭載されていた物品を幾つか持ち帰っており、それらが今史料室のケース内に展示されています。双眼鏡、甲板時計、移動電鍵(モールス信号)、潜望鏡写真機、指揮官旗などです。

        伊202潜双眼鏡      伊202潜士官室     伊202潜移動電鍵        

 
 



3 遺したものたち ~伊号第58潜水艦~

   茶碗    茶碗    秒時計

 
 伊53潜と同じく長崎沖に海没処分となった伊号第58潜水艦の遺物も、同じケースに展示されています。この伊58潜は1941年月、米重巡洋艦インディアナポリスを撃沈した艦として有名です。当時この艦の先任将校(水雷長)を務めていたのが、潜水艦教育訓練隊の初代司令田中俊雄氏です。田中氏は伊58潜で使用していた双眼鏡や秒時計、食器等を寄贈してくれました。
 この双眼鏡本体には分画が刻まれており、現行潜水艦で使用されている7倍双眼鏡に比べても何ら遜色はありません。また食器に関しては、士官室では陶器製のものが使われていたようで、現在の潜水艦でも同様に士官室では陶器の茶碗が使用され海曹士はプラスチックの皿を使用しています。
 秒時計について田中氏は、以下のような説明書きも添付しています。
『この秒時計は私が伊五八潜水艦水雷長在任中使用したものです。当時士官全員及び水雷科機関科及び航海科の先任士官は持っていました。他も持っていたかも知れませんが記憶していません。
 なお裏蓋の○水(注:○の中に水)は、水雷科の意味です。したがって○航(注:○の中に航)とあれば航海科を意味します。貸与品なれど終戦で記念に持ち帰ったものです。』
 昭和44年の潜訓開隊からおよそ25年後の平成5年、大切に保管していたこれら伊53潜の記念の品を、田中氏は後輩たちの為に史料室へと譲ってくれたのでした。

                           伊58潜写真         


 

4 遺したものたち ~伊号第402潜水艦~

       伊402接眼レンズ     恩賜の短刀      

 
 同じ海域で沈められた他の艦としては、伊号第402潜水艦があります。同艦砲術長であった佃慶夫氏(海兵73期)は、潜望鏡レンズを寄贈してくださっています。この伊402潜は終戦間際呉港内に停泊中、米軍機から攻撃を受けました。そしてその際そのうちの1機を機銃にて撃墜するという戦果をあげたのです。潜水艦が上空の戦闘機を機銃で撃墜するのは稀有なことで、佃氏はこれにより第6艦隊司令長官より恩賜の短刀が与えられています。その一連の詳細について佃氏が書き残してくれたものを、まとめて以下に紹介します。

『昭和20年8月11日1000頃呉軍港は米空軍ムスタングP51 14機の空襲を受けた。大層速力の早い戦闘機で警報の鳴る暇もない奇襲攻撃であった。海軍工廠潜水艦桟橋に繋留中の4隻の伊号潜水艦(伊47潜、伊36潜、伊159潜、伊402潜)は順次離岸し、沖出し潜航避退を行ったが、大型で最も内側に繋留中の伊402潜は避退の暇なく25粍機銃10基に依る対空戦闘に依り1機撃墜し得た。
 然し隣接の伊159潜が離した直後、後方に至近爆弾を受け艦尾左舷外殻に破口を生じ、機銃給弾員2名が爆弾々片に依り軽傷を受けた。伊159潜には右推進器落下の被害あり。
 抑々潜水艦乗組の兵員は何れも潜水学校練習生(普通科、高等科、特習科)卒業者であるが伊402潜の場合、14粍砲の他、25粍機銃、3連装3基、単装1基計10基を装備して居り、艤装員選定時戦艦大和、伊勢及び日向より1名ずつ歴戦の機銃射手の引き抜きを行った為、潜水艦としては前例の無い敵機撃墜の戦果を挙げ得たものと思う。
 第6艦隊規定の功績等級に依れば航空機撃墜は戦艦又は空母撃沈と同様、功績等級1即ち殊勲甲とされ感状が授与されることとなって居た。終戦となった為感状は授与されなかったが司令長官侯爵醍醐忠重中将よりその代りとして恩賜の短刀が授けられた。この短刀は回天特別攻撃隊出撃に際し各隊員宛に司令長官より授与される短刀と同一のものである。』

 この短刀について、当初は完全な状態でありましたが、美術品として認められなかった為刀身のみを警察へ提出することとなりました。よって残念ながら現在当隊には鞘しか残っておらず、鞘のみを保管庫の中で大切に保管しています。


        

5 そして海上自衛隊潜水艦隊へ

       

 
 こうして多くの物が海没処分される潜水艦から持ち出され、現在も当時の姿のまま残されています。
今井元群司令、田中元潜訓司令、皆海軍潜水艦乗りから海自潜水艦乗りへと肩書を変え、かつての経験を、彼らが実際に歩いてきた歴史をこの史料室に残していきました。

 さて当然の大前提として、我々海上自衛隊と海軍は全く別の組織です。組織として何ら繋がりはないものの、海自が潜水艦運用を開始するにあたって、海軍の元潜水艦乗りたちがその力を集結させ礎を築いていったことは間違いのない事実です。彼らの卓越した技量は、終戦後10年ものブランクを経てもなお、米軍からの貸与潜水艦をサンディエゴから日本へ、潜航しながら難なく回航してきた程でした。

 熾烈な戦争を生き抜いて、海自潜水艦乗りとして再び海に潜る道を選んだ先達たち。彼らが何故再び潜水艦に乗ろうと思ったのか、後輩に何を伝えたかったのか、史料室に並ぶ資料を前に、現役サブマリナーたちは様々なことを考えます。
 海軍潜水戦隊の時代は終わり、潜水艦隊が創設されて間もなく70年。先輩たちの経験を、思いを、史料室に見る潜水艦乗りたちは、きっと誰よりも平和であることを願っています。
しかし、いやだからこそ……

『我ら戦闘の用にあり』

                   パネル       

 当隊入り口に掲げるこのパネルに込められた海自潜水艦乗りたちの決意が、今日も静かに日本の海を守り続けているのです。(本文:藤江)



資料一覧


0 伊号第53潜水艦絵画:元海軍上等兵曹鶏内〆一氏が描いた伊号第53潜水艦の絵画。昭和61年6月本人より寄贈。
1 爆沈処分状況報告書:伊号第53潜水艦の保管員長が昭和21年4月5日に元乗員に送った手紙の複製。寄贈者不明。
2 伊号第202潜水艦スナップ写真:昭和51年2月、元伊202潜艦長今井賢治二氏寄贈。
  伊号第202潜水艦スナップ写真(士官室):同上。
  伊号第202潜水艦双眼鏡:同上。
  伊号第202潜水艦甲板時計:同上。
  伊号第202潜水艦移動電鍵:同上。
3 伊号第58潜水艦士官用茶碗:昭和61年4月、初代潜訓司令田中俊雄氏寄贈。
  伊号第58潜水艦士官用小皿:同上。
  伊号第58潜水艦士官用秒時計:同上。
  伊号第58潜水艦スナップ写真:同上。昭和20年8月28日呉港で撮影されたもの。
4 伊号第402潜水艦潜望鏡レンズ:平成元年12月、元伊402潜砲術長佃慶夫氏寄贈。
  第6艦隊司令長官より拝領の刀:平成7年10月、佃氏より寄贈。
5 潜訓庁舎入り口のパネル:昭和61年3月に設置されたパネル。潜水艦部隊のメッカにふさわしいものとして、初代くろしお型潜航訓練装置のほぼ実物大の写真を使用して作られた。よく質問されるのでここに追記しておくが、パネル上部に掲げる標語「我ら戦闘の用にあり」は、当時の潜訓職員にアンケートを行った結果採用されたものであり(当時の現役隊員談)、今となっては詠み人知らずとなっている。が、典拠としては『海戦要務令』の綱領冒頭「軍隊ノ用ハ戦闘ニ在リ」から来ているのではないかと言われている。