潜水艦史料室

史料室見聞録 ~第6回~

伊号第14潜水艦 幸福の鏡

外套

  
 その昔、海軍下士官の外套は、便利なように改造していたといいます。(上写真は大尉のもの)
敬礼する右手はそのままに、しかし反対の左手には少しの細工が…。袖口をしっかりと糸で閉じたその中に、一升瓶を仕込めるよう工夫がしてあったのだそうです。そうして上陸時には酒一本を、威容を崩すことなく持ち出せる仕組みになっていたのです。


     

1 神龍特別攻撃隊編成

       伊14潜       

 
 1945(昭和20)年7月、ウルシー攻撃の為トラック諸島に進出することを命ぜられた伊号第14潜水艦は、その途上大湊に錨泊しました。出撃までの数日間、乗員らは上陸が許可され、最後になるかもしれない祖国の名残を惜しんでいました。
 この行動は「嵐作戦」と呼ばれ、「晴嵐」という航空機を搭載できる格納庫を持つ伊14潜が、神龍特別攻撃隊に組み込まれたのです。当初は伊14潜も晴嵐を搭載する予定でしたが、当の晴嵐の数が不足していた為、「彩雲」という偵察機をトラック諸島に輸送するという任務に振り替えられました。(「光作戦」)大湊での錨泊は、その作戦の途中だったのです。


     

2 浅虫温泉 東奥館

  幸運の鏡  

 
  さてその出撃を控えた伊14潜の乗員のうち、岡田梅吉兵曹という方が浅虫温泉にある立派な旅館『東奥館』に宿を取ります。そして先輩と2人、持ち出した一升瓶の酒2本を痛飲し、翌朝帰艦時刻を迎えます。宿を出る時岡田氏は、玄関に掛かる一つの鏡を見つけました。それは幅18センチ、長さ65センチほどのものだったのですが、格納庫に置くのにちょうど良いと思った同氏が、旅館の女将に譲ってくれるよう頼みます。女将は、「死なないで必ず帰ってきて、持ってきて下さいね」と言い譲ってくれたのでした。
 岡田氏はその鏡を、一升瓶も入る仕掛けの外套の片袖の中に入れてみました。するとまあぴたり、うまいこと収まったのでそのまま持ち帰ったのだそうです。その後それを後部兵員室内に下げ、朝な夕な乗員で愛用していたとのことです。
 その後戦争は終結、伊14潜はトラックにて8月15日を迎えました。そのまま相模湾まで回航してきた同艦は、翌年5月28日にハワイ近海にて沈められます。1945(昭和20)年3月に竣工して以来、わずか1年余りの短い命でした。

 



3 鏡との邂逅

   由来    由来  

 
 さてこの東奥館の女将が渡してくれた鏡、旅館より持ち帰った当の本人は戦後すっかり忘れてしまっていたそうです。が、ある時横須賀に住む伊14潜の元乗員宅を訪れた際、それが置かれているのを見つけました。敗戦による退艦のばたばたで鏡のことをすっかり失念していた岡田氏は、電機員の同僚が持ち出してくれていたことに驚き、そして喜んだのだといいます。艦を降りて三十年、鏡はその元兵曹宅の玄関に大切に掲げられていたのです。
 あの時女将と取り交わしたあの約束。
「必ず帰ってきて、持ってきて下さいね」
全乗員が奇跡的に無事生還することができた伊14潜。南太平洋を、赤道を共に越え、帰還出来た縁起の良いこの鏡を、東奥館にお返しせねばと、元乗員らは懐かしの浅虫温泉へ集いました。
 1980(昭和55)年5月、彼らは実に35年ぶりに東奥館を訪れることになりました。が、鏡を渡してくれた女将は残念ながら既に鬼籍の人となっていた為、当時の社長に感謝と共に鏡をお返ししたとのことです。こうして古びた鏡は長い年月を経て、浅虫の地に無事帰ることになったのです。
 その後2002(平成14)年2月、どういう因果か伊14潜の元乗員である工藤氏が、この鏡を当隊に寄贈して下さいました。現在東奥館を見ることはもう出来ませんが、巡り巡ってやってきたこの鏡を、伊14潜の縁起の良い鏡として大切に保管し続けています。


 

4 これからも幸運を

       伊十四潜水艦の絆     伊十三潜と伊十四      

 
 ではこの鏡、なぜ「幸運の鏡」と呼ばれているのでしょうか。それはただ一言簡単に、「全員が無事トラックより帰還出来たため」と言ってしまえるほど平穏なものではありませんでした。女将に鏡を貰ってからトラックまで、伊14潜は数々の危険を辛くもしのいできていたのです。
 一路トラックへと南下中、レーダーに敵飛行機を探知、急速潜航を始めたところ、深度計の針がおそろしい速さで深さを刻んでいったことがあったといいます。気付かぬ間にネガチブタンクが満水になっており、沈降が異常なスピードで行われてしまったのです。この時経験豊富な航海長の適切な判断と発令とで事なきを得たのだそうですが、一気に深さ140まで沈降した艦内の皆はすっかり肝を冷やしたといいます。
 またある時は浮上しようとした際高圧ポンプを発動したところ、海水が逆流、大傾斜となってダウン三十度で沈下してしまいました。
 またある時は前方に敵飛行機を発見、続いて敵空母に遭遇。寸前のところで気付かれずに回避したと思えば、再び迫りくる航空機。伊14潜は全没するまでに時間のかかる型だった為、乗員は早く沈めと必死に祈っていたそうです。
 また別の会敵後、潜航して一時間後に浮上しましたが、敵機を捉えて再び潜航。更に一時間半後に浮上して、しかし敵空母と駆逐艦を発見。仕方なく急速潜航したのち、長時間潜航に入ります。駆逐艦のシュッシュというスクリュー音を頭上に聞き、シャガタンシャガタンという何の音かもわからないものを不気味に聞いて、連続二十五時間になる頃には、炭酸ガスが充満、頭が朦朧とし手足が痺れ呼吸困難になっていたといいます。そして空気も電池も限界にきて、浮上用の高圧空気もなくなり、万事休すの状態にまで陥ってしまいました。その後水中充電装置が発令されて充電を始められたことによって持ち直し、四十四時間の長時間潜航を経て、何とか危険な海域から離脱したのでした。
 しかしその後トラック島に入港してからも、毎日のように敵機の襲来を受け、毎日のように鎮座を行ったといいます。
 こうした危機を全て乗り越え、伊14潜は鏡と共に無事日本へ帰ってくることが出来たのです。(参考:『伊13潜と伊14』高松道雄)
 
 この伊14潜唯一の艦長は、清水鶴造氏といいました。彼は戦後、海上自衛官に任官します。海将補として定年まで勤め上げた同氏は、戦時中通算7隻の潜水艦を渡り歩いた中で、この伊14潜が「古今東西第一等の水中戦斗艦」であると言っていました。

 数々の危険な場面や不慮の事故を乗り越えて、奇跡的に生き残った伊14潜。その幸運の鍵であるこの鏡は、すべての潜水艦乗りのふるさとであるここに、今後もずっと在り続けます。現在、もちろん運ではなく乗員たちの高い技量によって運用している潜水艦ですが、これからも艦が除籍されるその日まで、無事にその勤めを果たせるよう、鏡はひっそりと見守り続けているのです。
  (本文:藤江)


 



資料一覧


0 海軍大尉外套:徳富元海軍少佐の外套。大尉時代のもの。平成10年10月、奥様より寄贈。
1 伊号第14潜水艦写真:平成14年2月、工藤豊秀氏より寄贈。
2 幸運の鏡:同上。
3 古鏡の由来:同上。
4 『伊十四潜水艦の絆』:「伊十四潜会」の会誌。伊14潜元艦長、清水鶴造氏より寄贈。
 『伊13潜と伊14』:平成17年、田島氏より寄贈。元は「なにわ会」の会誌より。「なにわ会」は、海兵72期有志の会。(前々回見聞録の伊33潜で生き残った2人のうちの一人、小西氏も同会員)伊14潜に乗り組んでいた高松氏が寄稿したもの。
 
 ※外套細工のエピソードは、『伊十四潜水艦の絆』内の岡田氏の記述より。ちなみに、1945年7月の青森県内の最低気温は一桁の日もありました。それであれば外套を着用していても、おかしくはなかったようです。