潜水艦史料室

史料室見聞録 ~第5回~

ドイツと日本ー潜水艦を通してー

UB125号

  
 日本とドイツ。第一次大戦中は相対する国として、第二次大戦中は共に戦う国として、それぞれの立ち位置にあった二つの国。
そのそれぞれの時、潜水艦を通してどのような関わりがあったのか、またその関係を日本人とドイツ人はどのように捉えていたのか、当隊史料室に残された資料から、それらについて見ていこうと思います。


     

1 戦利ドイツ潜水艦

   没収舊独逸潜水艦梗概    没収舊独逸潜水艦梗概       

 
 欧州における暗殺事件を契機に、1914(大正3)年7月、第一次世界大戦が始まりました。日本はこれに協商国側として参加し、1918(大正7)年11月に休戦条約を締結、協商国側が接収したドイツ潜水艦のうちの7隻を戦利潜水艦として譲り受けました。
 当隊には1922(大正11)年に海軍艦政本部が発行した『没収舊獨逸潜水艦梗概』という本が残されています。この本には、その7隻の潜水艦が譲渡され解体処分を受けるまでの詳細な経緯が記されています。


     

2 手に入れた潜水艦の末路

  没収ドイツ潜水艦   没収ドイツ潜水艦

 
  実に400頁にも渡るこの『没収舊獨逸潜水艦梗概』には、写真や図表を交えて事細かに戦利潜水艦のことが記載されています。ハーリッチ軍港からポートランド軍港への回航、そこでの大改修、そして本邦回航までの曳航の子細な様子を伺い知ることが出来ます。
 そして1919(大正8)年4月、マルタ港を出港し2か月以上かけてはるばる曳航してきたこの戦利潜水艦を、1920(大正9)年1月には解体処分するようにとの決議がなされてしまいます。英米日仏伊合わせて177隻が破壊されることとなり、その作業の完了期限は1年と定められました。引き渡しを受けてからたったの2年6か月、あまりにもあっけない戦利潜水艦の末期でした。
 



3 潜水艦の凱旋と日本

   戦利潜水艦    野邉田中将額  

 
 ではこの戦利潜水艦が日本へ凱旋することとなった時、わが国では一体どのような反応が示されたのでしょうか。
上記は、戦利潜水艦がマルタ島へ集結した際の写真です。この写真は元海軍中将野邉田重興氏が所有していたもので、野邉田氏が有志士官一同より贈られたものでした。35cm×85cmの大きな額縁に入れられたこの写真の裏面には、当時回航指揮官附を務めた野邉田氏直筆の書付が残されています。

『額ノ説明
 第一次世界大戦終ルヤ、聯合国ハ、獨乙艦艇ノ殆ンド全部ヲ英本国ヘ回航セシメ、之ヲ没収セリ。
帝国ハ其ノ内潜水艦七隻ヲ戦勝表彰用トシテ分配セラル。即チ大正七年十二月ナリ。之ガ回航ハ英本国ヨリ地中海馬太島マデハ折柄地中海方面ヘ出動大戦ニ参加セシ第二特務艦隊ノ乗員ニ依リ行ハレ、馬太、内地間ハ潜水艦乗員中ヨリ選抜セラレ特務艦関東(母艦)ニテ内地ヨリ急航セル回航員ニ依リ遂行セラル。
 本写真ハ馬太ニテ回航員受領後、回航準備ニ忙殺中ヲ撮影セルモノニシテ関東ニ横付セル潜水艦ハ七隻中ノ四隻ニシテ外端ヨリ〇六、〇四、〇三、〇二ノ順ナリ。旗艦出雲、日進駆逐艦五隻、亦其ノ右方ニ散見スルヲ観ル。
 蓋シ我旭日旗ガ真ノ武威ヲ地中海ニマデ遠ク進展セシメタルハ曠古ノ盛観ニシテ又此ノ回航ハ我潜水艦史上特筆スベキ大事業ナリ。
 写真ハ大正八年三月下旬頃我工作部員ノ撮影セルモノ。昭和十三年海軍潜水学校ニテ複写寄贈セラレタルモノナリ。
 昭和十五年十二月、回航指揮官附(参謀)タリシ重興、二十二年前ノ往時ヲ追想シツゝ、此ノ由来ヲ誌ス。』

 地中海に旭日旗が翻る輝かしい武勲、戦利潜水艦を手にした誇らしさ、実際に回航に携わった野邉田氏の胸中が伝わってくるような文章です。
 
 そして当隊には、「戦利獨逸潜水艦廻航記念 大正八年大阪八月下旬」というスタンプが押された絵葉書7枚の写真が残されています。1987(昭和62)年に三菱重工神戸造船所が寄贈して下さったこれらの葉書の写真の下部には「邪は正に勝たず 兇暴を逞ふせる独逸潜水艦の末路」という言葉が書かれており、当時日本がドイツをどのように見ていたのかがわかる資料となっています。


 

4 そしてドイツと同盟へー遣独潜水艦作戦ー

       レーダー   レーダー説明書      

 
 こうして凱旋に沸いた日本。しかしその後、再び戦争へと突入していくことになるのです。第二次世界大戦が始まり、今回はドイツと同盟を結んだ日本は1942(昭和17)年4月、伊号第30潜水艦を密かにドイツへと派遣します。この派遣は遣独作戦と呼ばれ、その目的は日独間における海上・航空共に経路が寸断されつつあった中での連絡手段の確保というものでした。伊30潜は同年8月にロリアンへ入港、必要な物資を積んで出港し、シンガポールまでたどり着きます。しかし10月13日、触雷し沈没してしまいました。
 こうして第1回の遣独作戦は失敗に終わりました。続く第2回は伊号第8潜水艦が担うことになり、こちらは見事往復に成功、56件の物品を持ち帰ってきます。上記写真は、伊8潜が実際にドイツより持ち帰ったレーダーの説明書です。伊8潜に同乗してきたGEMA社のドイツ人技師ブリンカー氏の助手兼通訳を務めていた北小路氏が当隊に寄贈して下さったもので、これは終戦後、海軍技術研究所にあったすべての武器、装備品、文書等を中禅寺湖に沈めようとする中、その一部を持ち帰っていたものでした。が、これらを個人として永久に持ち続けることが困難であると考え、当隊に寄せて下さったのです。
 結局遣独作戦は合計5回行われましたが、成功したのはこの一度きりで、第3回から第5回までは全て途中で撃沈される結果となってしまいました。



5 秘密指令 マルコポーロ

特潜会資料

 
 またこの時期、ドイツはインド洋での通商破壊戦を行う為、日本に700トンクラスの潜水艦を2隻譲渡することを決定しました。この2隻中の1隻、U-511はドイツ乗員によって1943(昭和18)年8月無事日本に回航され、呂号第500潜水艦(さつき1号)と名付けられました。
 そしてもう1隻、U-1224は日本の乗員によって回航されることとなり、呂号第501潜水艦(さつき2号)と命名されキールにて譲り渡されました。この回航の指令に関しては、ドイツでは「マルコポーロⅡ」と呼称されていたようです。
 しかしこれら2隻の潜水艦に関して、ドイツは詳細な記録を残していません。ドイツには「ラーボエ海軍記念碑」と「モルタノート潜水艦記念碑」という潜水艦に特化した記念碑もあります。が、このどちらにも上記2隻に関する記録がないというのです。このことを知ったとあるドイツ人が1995年、呂501潜の乗員たちのことを決して忘れてはならないと、U-1224のかつての乗員を探し回り、当時の状況を可能な限り再現しようとしてくれたのです。上記写真が、その一連の調査をとりまとめた冊子です。以下、内容を見ていきたいと思います。


   

6 ニッポンゴ トモダチ       

 
 
  潜水艦乗員休養所    ガーミッシュにて    ドイツリーダー達

 
 1943(昭和18)年9月6日、U-1224回航要員として伊号第8潜水艦に乗艦してきた乗田貞敏少佐(当時)らは、ドイツ海軍とハンブルグの造船所において共同任務を開始します。建造中の潜水艦建造研修を行った後にバルト海で演習を行い、それから引き渡しをすることとなったのです。
 以下は、U-1224のとある中尉と、烹炊員であった兵の証言及び日記からの引用です。

 「私は国旗掲揚のとき、初めて日本人を間近に見ました。全体的にきびきびとして特に軍隊調でした。(略)乗組員達は昇る陽(国旗のこと)に向かい号令で頭を垂れていました。この光景には強い印象を受け、また考えさせられました。これに比べて我々はなんといい加減な集団だろう。(略)日が経つにつれて我々は日本の仲間達と徐々に親しくなっていきました。(略)既にかなり親密に共同作業をしていた両艦長も相互理解のためにそろそろ何かをやるべきと考えたらしく、大水泳競技が行われました。(略)結果は想像した通りで日本人のアンカーがゴールした時にはドイツ側のアンカーが飛び込んでいました。(略)勝った側では歓呼が起こり、負けた我々の側は大笑いをしました。(略)そして帰路の面白かったこと!皆が気楽になり、遠慮したり内気な様子はなくなっていました。この行事がきっかけで我々は本当の仲間同士になりました。
 そして1943年11月以降、海での訓練が始まりました。急速潜航ではいつも日本人の方がドイツ海軍よりも3秒速かったのです。時間の経過と共に言葉と文化の障害を越えて、日独乗員同士の中に深い絆が芽生えました。(略)
 ドイツ乗組員の中には今でも艦上の指令を日本語ではっきり覚えている者もおり、「軍艦マーチ」や「春が来た」を間違いなく歌っています。(略)
 1943年12月末、ドイツ側の乗組員は解散して他の艦へ振り分けられ、大部分はブレーメンへU-875の建造研修へと転属していきました。そして少数のドイツ乗員だけが残され、日本人が指揮を執るようになりました。」
 その後1944年2月15日、キールにおいて日本側への潜水艦譲渡式が行われました。そして2月28日、U-1224はその勤務を解かれます。キール第5潜水艦隊のゲストブックには、日本人乗員の最後の記帳が残されています。2月29日のことでした。
 そして3月30日、呂501潜(U-1224)はキールを出港します。しかし5月13日、アメリカの護衛駆逐艦フランシス・M・ロビンソンによってアフリカ大陸西海岸のベルデ岬北西付近で撃沈されてしまうのです。
 「多くのドイツ人乗員が転属していったU-875も、1945年5月8日にノルウェーで降伏しイギリス軍の捕虜となります。そんな折、艦内でイギリス軍医が将校室にあった日本の乗員が贈ってくれた神棚を見て「子供のおもちゃにちょうどよい」と言うのを聞きました。そのことに衝撃を受け、皆で相談しすぐさま先任将校に「調理のごみをデッキから廃棄して良いでしょうか」と許可をもらい、生ごみと共に神棚を木片にばらして海に沈めたのです。その木片が乗田艦長やわが友久保田やその仲間たちの沈んだ太平洋に消えてゆくのを、怒りと、ああ良かったと2つの思いで眺めたものでした。」
 「時々話題がこの悲惨な戦争のことになったり、当時の写真を見たりしていると、心の目にアオキやヤマモトやシミズといった仲間の顔が浮かんできます。名前は多く忘れてしまったけれど、顔を見れば全部の仲間が今でもわかるでしょう。」
 
 日本の仲間を大切に思ってくれていたドイツ人たちの絆は、戦後50年経った1995年当時も確かにそこに存在していたのでした。彼らは日本の仲間たちを『ニッポンゴ トモダチ』と呼んでおり、半世紀経ってもそれは、変わることはなかったのです。
 


 

7 皇国に 今ぞ帰らむ

       ゲストブック記帳     独中尉と日大尉    ハンブルグの造船所     

 
 第一次世界大戦後、我々日本人が「邪」としていたドイツから第二次世界大戦以後はこんなにも親しみを持って接せられた日本。日本の神道において神を祀るために設ける神棚を英軍のおもちゃにさせてなるものかと、急いで海中投棄してくれる程日本の精神を、尊厳を、重んじてくれたドイツ国民がいたことを、私たちはもっと知っておいてもいいのではないでしょうか。
 ニッポンゴ トモダチ。
 たった半年間一緒に寝食・訓練を共にしただけで深く結びついたその絆は、当事者らが亡くなられたその後も確かに存在したものとして、ここ潜訓に記録として残ってゆくのです。
 潜水艦というビークルに共に乗る同志として協力し合った日本とドイツ。笑顔溢れる日独乗員の写真の数々が、まもなく海に散る運命などとは露知らず、痛々しい程に輝いています。

 「盟邦獨逸の戦友が 心をこめしお別れの 言葉を後に勇み立ち 皇国に今ぞ帰らむ」

 上記は1943年12月にシュテッティンの第4潜水艦隊のゲストブックに記帳された、乗田艦長ら乗員の言葉です。
 乗員たちがドイツに残していったこの言葉を、戦後50年も経った時、ドイツの心ある友人が日本の潜水艦乗りにこうして確かに届けてくれたことに、日本とドイツの関係が質朴と表れている気がします。

                             50年の時を経て  

 
U-1224の乗員が50年持っていた1943年当時の写真。それに1993年現在の姿を添えて贈ってくれたこの一枚。写真中央に写る名もわからぬ日本人兵士のことを変わらず「KAMERAD(仲間)」と呼んでくれる彼らの心が、遠くセネガル北西の海に眠る呂501潜乗員の元に届きその魂が慰められんことを、切に願ってやまないのです。
  (本文:藤江)

 



資料一覧


0 独潜UB125号写真:昭和63年8月、元海軍中将野邉田重興氏のご子息より寄贈。
1 没収舊獨逸潜水艦梗概:平成3年8月、元幹部学校長築土龍男氏が荷物整理をしていた際に出てきたものとのこと。実用価値はないが捨てるには勿体ないと、当隊へ寄贈。
2 没収舊獨逸潜水艦梗概:同上。中身。
3 マルタ港内戦利潜水艦写真:平成3年2月、元海軍中将野邉田重興氏のご子息より寄贈。
4 『Vorlaufige Beschreibung der Wasaermann-Anlage』:平成11年3月、北小路矗氏より寄贈。
5 遣独潜水艦関係資料:平成10年3月、特潜会より寄贈。特潜会とは、旧海軍における特殊潜航艇関係の業績を後世に正しく伝えるために結成された会のこと。全国各地に10の特潜会があった。会員の高齢化のため、平成10年春に解散。その時会が保有していた資料の一部を当隊に寄贈してくれた内の、一つ。
 潜水艦乗員休養所写真等:同上内写真。
7 ドイツ第4潜水艦隊ゲストブック写真等:同上内写真。
 



追記:集う縁者の資料たち


 呂501潜艦長の乗田貞敏中佐(海兵57期)の奥様は、高木武雄元海軍大将(海兵39期)のご息女でした。第6艦隊司令長官であった高木大将は昭和19年7月、サイパン島にて戦死されています。その高木大将が着用していた士官制服を、物品窮乏の戦後、お孫さんが学生服として使用していたそうです。その際、中将の階級章及び袖章は取り外していました。その階級章が外された跡の残る制服が、当隊には保管されています。これは戦後散逸していく貴重な資料を収集するためとある方が新聞にて呼びかけたところ、高木大将の奥様が呼応し寄贈して下さったものだとのことです。後になってその品を当隊が譲り受けることとなり、現在に至っています。
 転々と、人の手を伝い集まってきた資料たち。それぞれにエピソードを抱えたままひっそりと保管され眠り続けるこの資料たちは、元の所有者同士の縁に引かれるように当隊史料室に集い、これからも末永く時を刻んでゆくのです。