潜水艦史料室

史料室見聞録 ~第4回~

二度沈没した伊号第33潜水艦

浅野光一氏

  
 穏やかに微笑む一人の青年の写真。この写真の彼は名を、浅野光一といいました。
1944(昭和19)年6月13日、伊号第33潜水艦と共に瀬戸内海に没した浅野氏は、大正7年生まれの27歳でした。
最終的な階級は海軍機関兵曹長。没後24年経った1968年に、勲七等旭日章を叙勲されています。
浅野氏が乗り組んでいたこの伊号第33潜水艦は、2度沈没事故を起こした艦として有名です。
 一度目は1942(昭和17)年9月16日。ソロモン諸島方面の作戦に従事していた同艦が、補給のためにトラック泊地に入港した際、後部ハッチを閉鎖せずに注水を開始したため艦尾から沈降し、水中に没してしまったというものです。この事故で、33名の尊い命が失われてしまいました。
 その後伊33潜は引き揚げられ呉に回航し、大修理の後に完工します。そして第11潜水戦隊編入のために単独訓練を行っている最中、伊予灘の由利島付近で再び事故を起こしてしまったのです。


     

1 きれいに残されたご遺体と遺書

   残務処理部  

 
 この事故は、急速潜航の訓練中に発生しました。
6月13日0840。機械室給気筒から浸水した伊33潜は、そのまま深さ約60メートルの海底に沈んでしまいます。司令塔にいた者のうち10名が脱出しましたが、救助されたのはたったの3名だけ(うち1名死亡)でした。
 伊33潜は1953(昭和28)年7月に民間会社によって苦心して引き揚げられ、沈没より9年の時を経て、ようやくそのハッチが開けられます。すると前部にある密閉された発射管室から、亡くなった当時の状態のまま、腐敗することなく残されたご遺体が13体も発見されたのです。そして後部の電動機室からは、27名分の遺書が見つかりました。(前部発射管室内のご遺体の胸ポケットにも1通)
これらの遺書は、2つの水嚢に入れられてテープでぐるぐる巻きにされていました。軍医であった少尉が書いた遺書の中に、「1530消失を恐れてテープにて包く(本文ママ)」とあり、乗員が書き残した遺書が遺族の元へ届くことを願って、防水処置がなされていたことがわかります。そのおかげで、こうして無事多くの遺書がその原型を留めたまま回収されることになったのです。
 当隊では、その遺書の全てを集録した冊子を展示室に展示しています。それは呉地方復員残務処理部が作成したもので、他にもご遺族に宛てた「旧伊號第三十三潜水艦殉職者の御遺骨遺書、遺品について」という文書も保管しています。ここには、収容された13名のご遺体の身元や遺品の内訳などが詳細に記されています。復員業務課長の職印が押されたこの文書は、伊33潜から奇跡の生還を果たした一人、岡田賢一氏の戦友である成林四郎氏が寄贈して下さいました。どういった経緯で成林氏が、このご遺族だけに宛てられた文書(複写ではなく現物)を入手して当隊へ寄贈して下さったのかは不明ですが、大変貴重な資料であるそれを、当隊はずっと展示し続けています。


     

2 閉鎖不十分、標示灯点灯

  遺書集

 
  さて、これらの残された遺書を読んでいくと、浸水の原因は頭部弁の配員が弁の閉鎖不十分なのに閉鎖完了の報告を挙げ、標示灯を点灯したこと(※注)にあるのだとわかります。訓練中、潜航秒時を短縮させようと焦る気持ちもある中で、確実に弁が閉鎖されていないことに気付かないまま実施してしまった潜航。この弁には、直径2センチほどの木片が挟まっていたといいます。
 通風筒に挟まっていたこの木片。これは、呉海軍工廠内で修理をした際、取り除かれることなく残されたままになっていた物だと、後になって判明しました。
 思いもよらない要因での事故。
ここで注目しておきたいのは、浸水し沈没した状況下でこの世の最後の言葉として書き留めたこれらの遺書の中に、この事故の原因は自分にあったのだと記した者が、複数名いたという事実です。遺書の多くは、郷里に残してきたご家族等を想い、感謝や思慕を伝えるような内容でした。しかしそのうちの幾名かは、自分のミスで国の大事な艦を沈めてしまって申し訳ないという内容を書き残していたのです。
 
 



3 乗員たちの思い

   遺書    

 
 不運と、訓練の成果を上げようとする焦りのような勇み足も重なって起きたのかもしれない不幸な事故。しかしそれを自分のせいだと反省し、皆に深く謝罪する責任感の強い人たちが何人もいたということを、ここでは伝えておきたいと思います。
 以前、第六潜水艇の沈没について取り上げた際、艇長の佐久間大尉が事故に関して立派な態度で最期を迎えられたことを紹介しました。佐久間大尉は艇の長として、全責任を負う者として、そのような遺書を書き残して亡くなられたのだということはよく理解出来ます。しかし今回の伊33潜の事故に関して、自分の責任で艦を沈めてしまったと記していたのは、一番下の階級の者はまだ兵長という身分だったのです。
 この世に最後に残す言葉として、己の責任への言及を選んだ彼ら。
「急速潜航時荒天通風筒ヨリ浸水シテ来タ時自分ノ應急處置ノ不十分ニヨリ艦ヲ沈メタ誠ニ申訳ナシ」
「本日ヲ以テ第一期訓練ヲ終るト云フ時一機兵長ノ確実ヲ欫イダ報告ニヨリ不慮ノ過ニ墜ツ」
「沈みし原因 三直配置にて潜航訓練中急速潜航の際左舷給気筒頭部弁を間違って開いた為なり 自己の不注意に依り沈めし事をお詫びする(中略)私は一番悪い人間でした 共に死する皆さんにお詫びす」
「呉工廠の皆様に対し申しわけございません 此の為に潜水艦乗員を信用せない事のなき様に一その造船に努力して下さい」
 浮上の叶わない艦内で、脱出する手立てもなく気圧が高まり浸水量が増す中、想像を絶する精神状態でのこれらの言葉。そして艦を修理してくれた呉海軍工廠の人たちへ向けた、艦を沈めてしまったことに対する謝罪の言葉。
 責任感が強く潔い、我々の先輩方のその精神が、これらの遺書には痛々しい程に表れているのです。


 

4 ダブルチェック

       標語        

 
 まさか木片が挟まって全閉出来ていないとは露思わず、自分が頭部弁を閉めていなかったせいでと、自分たちの確認が不十分だったせいでと、悔恨を滲ませていた彼ら。残された遺書の中には、もっと区画の長が状況を見ておくべきであるとか、当直将校が監視をしておくべきであるとか、確認するということの重要性に言及しているものがいくつも見受けられました。
 木片が噛んでおり、開閉用ハンドルがそれ以上回らなかったのかもしれない状況での今回の事故。上位者である区画の長が再確認をすることで事故が防げたのかどうかはわかりませんが、この、別の人間が再チェックを行うという安全管理の精神は、戦後日本が再び潜水艦を保有することになった1955(昭和30)年にアメリカ海軍よりもたらされてきます。
 「Double Check」。必ず幹部が最後にチェックを行う(Officers Check)という、今では当然のようにあるこの考え方。これはアメリカから「くろしお」が貸与された時に学んできた安全管理の概念の一つです。確実な作業が重要であると叫ばれる現在のこの精神が、もしも1944年当時にもあったなら…。ダブルチェックの精神で、作業を指揮する人間が開閉用ハンドルの回転数まで確認する等徹底した安全管理の意識を持っていれば…。全閉と誤認したまま潜航を開始することなく、100名を超える尊い命が失われることは、なかったのでしょうか。
 



5 遺族の思い、それぞれ

手紙

 
 そして1986(昭和61)年、当隊は歴史を正しく継承し、潜水艦乗員たちの精神的基盤を作るべく、かつての潜水艦に関する資料を広く収集することに力を入れ始めました。その中で、この伊33潜の事故に関して、とある兵長のご遺族とコンタクトを取ることに成功しました。
今後活躍していく若い潜水艦学生の為、また、戦没者の功績への顕彰の為、遺書現物の複写をお願いできませんかと打診したところ、しかしそれは出来ませんとの回答を得ました。亡くなられた兵長の御母堂は、自分がこの世を旅立つ際、この遺書を共に埋めてほしいとおっしゃっていました。ご子息の形見ともいうべきこの遺書を、あの世までしっかりと抱いていき、この悲しい事故の記憶をそれでおしまいにしてしまいたいのだとおっしゃっていたのです。
 後世に遺す、もしくは身内だけでそっと仕舞い込む、どういった形であれご遺族の心のままに我々は、しかし大切な記録として遺すべきものは今後もきちんと、遺していかなければならないのです。


   

6 「一言遺ス」       

 
 では事故当時、艦内は一体どのような様子だったのでしょうか。それを詳細に書き残してくれていたのが、冒頭で紹介した浅野氏でした。彼の遺書と経過概要の紙片は、24枚にも渡っていました。艦の引き揚げ後、この遺書はご遺族の手に渡され、それを複写したものを当隊では大切に保管してきました。
 沈没した艦内で書き殴るように記されたこれらの紙片。この内容自体は多くの本やメディアで紹介されていますが、魂のこもった浅野氏の肉筆を目にすることは、あまりないのではないでしょうか。そこで、成林氏が寄贈して下さった浅野氏最期の生の声を、ここに全て掲載しておきたいと思います。

  遺書    遺書    遺書

  遺書    遺書   遺書

  遺書    遺書    経歴表

  遺書    遺書   遺書   遺書

  遺書    遺書   遺書  

 昭和19年6月13日 午前八時四十分 急速潜航一直ヨリ始マル
 此ノ時機械左舷給気筒頭部弁閉鎖確実ナラズ 之ヨリ急速ニ浸水 電動機室ハッチ閉鎖スルモ
 後部兵員室伝聲管ヨリ浸水多シ アラユル努力ヲスルモ刻々浸水スル 応急電線ニテ30頓ヲ起動スルモ ツイ浸水量多ク刻々電
 動機室浸水増ス 総員電動機室及補機室ニ集ル 前部ヨリ後部ニ至ル伝聲管圧縮前接平パッキン不良ノ為之ヨリ漏水
 多シ 刻々浸水量ハ増スノミ 浅野光一(後ノ方モ見ラレ度)
 我此ノ時管制盤ニおる 全進強速ヨリテラフラフワコヌモ電流ハ一杯出スモ急速ニ64米迄着底スル 浅野光一
 只急速潜航ヲ主トナサズ 現在ノ乗員ハ其ノケイケン少ナキモノ多シ 故ニ先ヅ確実ヲ第一トシテ
 区長ハ其ノ状況ヲ良ク見テ整備灯ヲ点ズルモノトスベシ
 訓練ニテ死スルハ誠ニ残念ナリ シカシ今ハアラユル努力ヲナシタレドモ刻々浸水スルノミ 最後迄頑張る
 帝国海軍ノ発展ヲ祈る 大東亜戦の花トナサン 努力セシモ天運来ル
 我死ストモクユル事ナシ 最後ノ努力スルモ気圧ハ刻々高クナル 気ガ遠クナル 午後13時20分
 電動機室及補機室へノ浸水箇所 アラユル努力ヲナシ少ナキ様ニ努メシモ 浸水ハ刻々増水ス
 大久保分隊士以下軍医長機械長電キ長各士官ノ方々ノ指揮ハ至リ盡セリナレドモ 艤装不良箇所多キ為之ヨリ漏水
 ヲナシ 如何ニ努力セシモ其ノ甲斐ナシ 只帝国海軍潜水艦ノ発展ヲ祈る
 君ノ為最後ニ掛かる事故ニテ御奉公出来ナイ事ハ我々上級下士官トシテ誠ニ残念ナリ
 帝国海軍潜水艦萬歳
 上機曹 浅野光一
 一言遺ス 大君ノ為戦ノ庭デ死スハ男子ノ本懐ナリシガ 今不慮ノ事故デ死スルヲ皆残念ガル 海軍上機曹 浅野光一
 午後4時45分 大久保分隊士号令ノ元ニ皇居遥拝君ガ代奉唱 萬歳三唱
 午後17時30分 大久保中尉以下31名元気旺盛前部遮水ニ従事セリ 午後18時00總員元気旺盛ナリ
 午後6時總員元気ナリ 総テヲ盡シテ今ハ皆ハ只々時機ノ至ルヲ待ツ 唯一人トシテ淋シキ顔ヲスルモノナクお互ヒニ最後ヲ語リ続ケル 上機曹 浅野光一 (原文ママ)
 


 

7 後世に繋ぐもの

       造水装置      プリズム  

 
 そして現在、当隊では引き揚げられた伊33潜に搭載してあった造水装置とプリズムも共に展示しています。約80年の時を経て、今なお残るこの二つ。そして伊33潜と共に沈んだ乗員たちの魂の叫びも、展示室の展示台の上で、静かに、激しくこだまし続けます。

 最後に。遺書に残された、とある機兵長の言葉を彼らの後進である我々へ、自戒として。

「後継諸君 確実第一ヲ銘セヨ」

 (本文:藤江)

 



(※注)戦時中の潜水艦での区画部署作業について


 旧海軍において、区画部署の確認作業(潜航前に弁を閉鎖したか等の確認)は、その区画の長が伝令を使って区画整備にかかり、完了した段階で発令所に届けさせるという形で行っていました。この伝令が発令所と伝声管を使って交話する声で、区画の長はその整備が完了したのだと認識するのです。区画の長となるのは、下士官の先任者だったそうです。
 その際伝令は、区画伝声管の通話口にぶら下げられた木片に書かれた作業項目を確認し、発令所と交話。交話完了の証拠として標示灯を点灯していました。発令所には艦内各部からの標示灯の集合板があり、各部の標示灯が点灯された際に一斉に消灯出来るようになっていました。その際もし一区画でも点灯していなければ、逆にスイッチを消灯することによって点灯する形となっており、各部の作業完了の把握が行えたのでした。
(『潜水艦「くろしお」第九回有馬大会記念号』より)


     

資料一覧


0 浅野光一氏写真:昭和62年4月、元海軍上等兵曹成林四郎氏より寄贈。
1 旧伊號第三十三潜水艦殉職者の御遺骨遺書、遺品について:平成3年9月、成林四郎氏より寄贈。
2 旧伊號第三十三潜水艦殉職者遺書(集):同上。表紙。
3 遺書一部:同上。海軍中尉大久保太郎氏のもの。
4 『こころの潜水艦』内写真:昭和53年4月、丘村文星氏著作。元潜水艦教育訓練隊司令。
5 兵長ご遺族への手紙:昭和61年8月、当隊教務科長よりご遺族へ送った手紙。この約3週間後に返信を受領。
 浅野光一氏遺書:昭和62年4月、成林四郎氏より寄贈。
7 伊号第33潜水艦造水装置:昭和28年に引き揚げられ、株式会社笹倉機械製作所に払い下げられたものが第2術科学校へ寄贈されたのち、当隊に監理換えされたもの。
  伊号第33潜水艦プリズム:昭和45年8月、元海軍大尉香月常市氏より寄贈。