潜水艦史料室

史料室見聞録 ~第3回~

伊号第29潜水艦唯一の生還者

『深海の使者』

  
 伊号第29潜水艦。
かつて海軍が保有していた240隻を超える潜水艦の中で、たった5隻だけドイツへ派遣されたうちの1隻であるこの艦のことを、みなさんはご存知でしょうか。吉村昭氏の手によって、『深海の使者』という作品の中で描かれたこの伊29潜。フィリピン沖バリンタン海峡で魚雷攻撃により壮絶な最期を遂げた同艦ですが、その行動歴や戦績が記録として残されてはいても、そこに生きた乗員たちの様子が見えてくることはあまりありません。
1942(昭和17)年2月27日に就役したこの艦の、艤装からその沈没の瞬間までを共にした人物が戦後もこの呉の地でご存命でいらした事実は、それほど知られていないことでしょう。
 海軍兵曹長、恩田耕輔氏。
恩田氏は、その凄絶な戦場からただ一人だけ生還し、伊29潜の最後の様子を伝え残してくれた貴重な証言者です。艤装から乗り組んでいた艦の、撃沈の憂き目にまで立ち会った恩田氏は、後に当隊へ伊29潜の日常を伝えるものを寄贈して下さいました。
 今回はこの伊号第29潜水艦について、恩田氏と共に見ていきたいと思います。


     

1 艦内新聞

       艦内新聞  

 
  1941(昭和16)年9月11日、恩田氏は、伊号第33潜水艦の艤装員に任じられました。その翌々月の11月1日、伊号第33潜水艦は伊号第29潜水艦へと改称されます。その後無事竣工した伊29潜は、1942(昭和17)年4月15日に呉を出航、トラック諸島へと進出していきました。4月30日にトラック諸島を出た伊29潜は、ガダルカナルへ向け南下します。順調に航行する同艦内では、艦内新聞なるものが発行され始めました。それが、上記写真です。
 恩田氏が寄贈して下さったこの貴重な艦内新聞、第1号の日付は昭和17年5月1日となっています。戦線へと赴く艦内にあって、当該新聞を見るに、戦意高揚・意気揚々とした雰囲気に満ちている様子が見受けられます。
 


     

2 赤道祭

赤道祭

 
 時は5月1日、場所は北緯0°56´、東経153°44´。
海軍大佐勝田治夫司令の巻頭の辞を皮切りに、B4サイズ1枚の新聞が発行されました。この新聞によると、北緯0°、つまりは赤道直下のその場所で、「赤道祭」なるものが挙行されたそうです。
赤道祭。現在の海上自衛隊でも行われているそれは、船乗りが赤道を越える際に安航を祈願して行う催しのことで、この時は艦長がビールを1瓶、海中へ奉納したとのことでした。その時の写真も残されています。
この写真は、海軍上等兵曹であった鶏内〆一氏が寄贈して下さいました。鶏内氏も、かつて伊29潜に乗り組んでいた一人です。しかし同艦が撃沈された際、すでに違う艦へと転出していた為、事なきを得たのです。
戦後、恩田氏と鶏内氏は書簡のやり取りをしていました。彼らは二人とも魚雷を専門特技とする者であり、3年離れた先輩と後輩でした。この旧知の戦友同士やりとりされた手紙の一部もまた、当隊で大切に保管させて頂いています。

 



3 紙面に現れる日々の様子

艦内新聞      

  
  さて、一見和やかにも見えるこの南進。しかし紙面には勇ましい言葉も記されていました。
「一艦一家の実を挙げて、一致和合敵にぶつかり之を粉砕して行こうではありませんか」
気概に満ちたその言葉に続く文言は、
「諸子の所感、詩歌、俳句、漫画、漫文等をどしどしご投稿下さい」。
作戦に従事する艦内で、乗員たちはしかし時には娯楽にも興じながら、日々過ごしていた様が伺えます。
 この新聞は、毎日発行されていました。が、所々日付が飛んでいる部分があります。
たとえば5月31日。この日は伊29潜と同海面に進出していた僚艦搭載の特殊潜航艇が3隻、シドニー湾へ向けて出撃していきました。出撃した3隻中1隻は自爆、もう1隻は撃沈されてしまいます。味方を失ってしまった悲痛な日とその次の日、伊29潜艦内で新聞が発行されることはありませんでした。



4 現場の空気感をそのままに

 新聞   新聞  

 
 一方これを遡ること8日前、5月23日に伊29潜はシドニーへ偵察飛行を実施しています。この任務は無事成功、その日は紙面の半分を割いてシドニー偵察の詳細を報じていました。
「万才!!シドニー偵察に成功す!!」
かなり読みにくい状態ですが、「シドニー偵察、美事任務達成」の記事はその時の状況が鮮明に描き出されているので、写真を掲載しておきたいと思います。
『午前六時五分、突然「見えたッ!!」と叫ぶ一乗員の声に指さす方を視れば、折からの日の出に燦然たる金色の東雲の中、一粒の黒点が雲を縫って隠顯するではないか』
任務を終えて無事帰還する偵察機の様子を描く乗員の興奮と熱気が感じられる、臨場感あふれる記事となっています。
 戦果を挙げた日と作戦に失敗した日、艦内新聞は日々の空気感を如実に示しており、大変興味深く当時の様子を伝えてくれるのです。


 

5 艦内誌『不朽』

      不朽        

 
 伊29潜では、この新聞の他にも艦内誌を作成していました。
「不朽」。そう題されたこの冊子名の由来は、伊29潜の29の文字を読み替えたところから来ています。「ふきゅう」、朽ちることがないという縁起の良いこの言葉、その縁起にあやかろうとした乗員たちは、自らの艦をそう呼び慣らしていたのだそうです。
 「不朽」第1号は、1943(昭和18)年2月11日に発行されました。鶏内氏曰く、「乗員が作戦勤務の暇をみて作成したもの」とのことで、詩・俳句・短歌・散文・絵など、乗員が思い思いに作成した作品が取りまとめられていました。
当隊には、これに続く「不朽」第2号も残されています。2冊刊行された艦内誌。この艦内誌は、乗員家族への配布もその目的の一つにしていました。艦に乗る一人ひとりの内面が映し出された当該冊子は、当時は家族への無事の便りとして、今では伊29潜乗員が確かにそこに生きていた証として、非常に重要な意味を内包しているのです。



6 インド独立の志士、チャンドラ・ボース氏移送任務

ボース

 
 また、この伊29潜が従事した有名な任務として、インド独立運動の英雄チャンドラ・ボース氏の移送があります。これは、ドイツの潜水艦U180号と洋上で会合し、ボース氏とその従者をスマトラ北端のサバン港へ送り届けるというものでした。
この任務は無事に成功。それに先立ち艦長である伊豆中佐は、伊29潜乗員に対し「教育参考資料」と題打った小冊子を配布しました。会合予定日は1943(昭和18)年4月26日、その3日前の4月23日に手書きで作成されたそれには、25ページにも渡ってチャンドラ・ボース氏とインドの独立運動についての詳細が記されていました。そしてそこには同時に、インド独立という大事業を成さんとするボース氏を手助けする歴史的出来事への関与を鼓舞するような文章が書かれていたのです。


   

7 沈没、そして生還

       経歴表  

 
  そして1944(昭和19)年7月26日、運命の日がやってきます。
伊29潜の最期の様は、『深海の使者』に詳細に描かれています。その時の唯一の生き残りである恩田氏への取材を基に書かれたそれを、気になる方は是非一度、ご覧になられればと思います。
伊29潜の撃沈。ここで最後に取り上げたいのは、その沈没時の様子ではありません。その状況をただ一人生き残った、恩田氏の思いです。
当隊には、戦後33年経った時に恩田氏が書いた手紙が残されています。
その手紙を読むと、愛する者を目前に壮絶な戦死を遂げた全乗員の思いを、恩田氏が背負い続けていることがわかります。恩田氏は、亡くなった戦友たちの無念の思いを老いてもなおその双肩で、一人静かに支えておられたのです。日々供養しながら毎日を生きているのだと、語っていました。それが自分の勤めだと、一日一日を生きていたのです。
 自宅から少し下れば呉の港が見える地で、戦後暮らし続けた恩田氏。呉帰投を目の前に散った106柱の分まで、呉の港を見つめていたのでしょうか。
広島県呉市上長迫町にある海軍墓地には、伊号第29潜水艦の碑が建てられています。その石碑に刻まれた言葉を、恩田氏は噛みしめるように手紙にしたためていました。恩田氏の、伊29潜への思いは如何ばかりか。じりじりと日差しの強い大暑の頃、呉の街を一望できるこの碑の前で恩田氏の心にも思いを馳せながら、土用凪ぐ海を遥か遠くに眺めやるのも、いいかもしれません。(本文:藤江)
 



資料一覧


0 『深海の使者』:吉村昭氏著。昭和48年4月発行。一般刊行物。
1 艦内新聞:昭和17年5月1日から伊29潜内で発行された新聞をとりまとめたもの。恩田耕輔氏より寄贈。
2 赤道祭写真:伊29潜上で行われた赤道祭の様子。鶏内〆一氏より寄贈。
3 艦内新聞:閲覧用に艦内新聞をコピーしたもの。現物は劣化防止の為梱包処置してあり、開けない状態。
4 同上:昭和17年5月23日の記事。
5 『不朽』:昭和18年2月11日発刊の艦内誌。恩田耕輔氏より寄贈。『不朽』第2号は鶏内〆一氏より寄贈。
 チャンドラ・ボース氏写真:昭和18年4月26日独潜と会合時のチャンドラ・ボース氏の写真。鶏内〆一氏より寄贈。
7 恩田耕輔氏経歴:恩田氏の経歴書。恩田耕輔氏より寄贈。