潜水艦史料室

史料室見聞録 ~第2回補足~

元海軍中将 野邊田重興氏と海兵同期生たち

寄せ書き

  
 元海軍中将 野邊田重興(のべた しげおき)。
 前回第六潜水艇を取り上げた際に、『佐久間艇長ニ関スル講話』という資料を紹介しました。その「講話」を行ったのが、当時海軍潜水学校長であった野邊田重興氏です。野邊田氏は第一潜水艇隊発足後、各艇艇長を歴任し、日本の初期潜水艦に深く関わってきた人物でした。佐久間大尉のように後世に語り継がれるような逸話を持つ人物ではありませんが、当隊では野邊田重興氏に関する資料を複数所蔵しています。
 一般にあまり知られていないと思われる野邊田氏ですが、今回は彼を中心に見ていきたいと思います。


     

1 野邊田氏の経歴

    木箱  目録  司令官旗  封書

 
 野邊田氏は、海兵32期・海大15期出身でした。海兵32期の同期には、かの有名な山本五十六元帥や嶋田繁太郎大将などがいます。
「自分が潜水艦界に入ったとき、初めて六號(第六潜水艇)に乗った」
とは野邊田氏本人の言で、この時佐久間大尉は第六潜水艇ではなく違う潜水艇の艇長を務めていました。その後野邊田氏は、1912(大正元)年8月に第1潜水艇艇長を命ぜられ、以後第2から第4潜水艇艇長を歴任していきました。
 そして1928(昭和3)年12月に海軍潜水学校長、1930(昭和5)年12月には第2潜水戦隊司令官となりました。
上記の写真は、海大15期出身の同期生13名より野邊田氏に対して贈られた少将旗です。贈呈の経緯は、和波豊一氏が野邊田氏に宛てて送った手紙の中に詳細に書き残されています。この和波豊一氏という人物ですが、前回の見聞録でも取り上げた『第六潜水艇遭難顛末記』(昭和元年)の著者であり、野邊田氏の二代後に海軍潜水学校長を務めた方です。
その和波氏の手紙によると、野邊田氏が第2潜水戦隊司令官に就任する一か月前に東京で開催された「第十五期甲種会懇親宴」において、今後同期生の中から司令官が出たときは、将旗一旒を贈呈することと取り決めた為に、同期一同で贈呈したとのことでした。


     

2 潜水艇に関する記述者 和波豊一氏

潜水艦ノ話

 
 ちなみにこの和波豊一氏も、海兵32期・海大15期出身で、野邊田氏と全くの同期でした。
戦中・戦後を通しての第六潜水艇殉難研究の基礎となる資料を書き残した和波氏ですが、当隊では他にも和波氏の貴重な資料を保管しています。和波氏のご子息が持っていらした、『潜水艦ノ話』と題された和波豊一氏自筆の原稿です。ここには、潜水艦の歴史から概要、戦術に関することや潜水艦廃止論といった内容のものが、65枚もの用箋に書かれています。これは福田一郎氏同様、当時の潜水艦関係者の手による潜水艦に関する体系的な記述として、貴重なものとなっています。
 実はこの資料、和波氏ではなく海軍経理学校第37期の佐藤氏という方より寄贈されたものでした。佐藤氏は、和波豊一氏のご子息と同期だったそうです。その縁あって佐藤氏がこちらを預かられ、当隊に寄贈してくださったのです。寄贈するに当たって、潜水艦関係の教育施設において、潜水艦関係の先人の書などを展示し、潜水艦乗りの精神涵養に資することを望んでおられたとのことでしたので、当隊史料室において大切に保管・展示する運びとなりました。

 海大同期生一同より野邊田氏へ贈られた一旒の旗。
海経同期生同士によって渡されていった貴重な手書き原稿。
当隊に所蔵されている資料を紐解いていくと、同期生による繋がりがあちらこちらから立ち現れてきて、当時の人たちの交流の様が見えてくるのです。



3 五十年来の知己 嶋田繁太郎氏

絵葉書   絵葉書   封書

 
 他にも、野邊田氏は戦後にA級戦犯となった嶋田繁太郎氏とも親交がありました。
1936(昭和11)年11月の消印が押された1枚の絵葉書。素朴な風景画が描かれたその表には、墨で短い文章が書きつけられています。
野邊田氏が嶋田氏宅を訪問した際に不在だったことを詫びる内容のその絵葉書は、野邊田氏が退役した2年後にやり取りされたものでした。
他にも大阪のガスビル講演場が写るハガキには、野邊田氏よりの贈答品に対するお礼が、流れる筆致で短く書かれています。
 また、野邊田氏が亡くなられた4か月後に、嶋田氏から野邊田氏の奥様に宛てて送られたお悔やみの手紙も残されています。時は1952(昭和27)年、戦犯とされ終身刑中の身であった嶋田氏でしたが、同期の死を悼み、遺された奥様を気遣う心が、そこには戚然と表されていました。



4 退役後も続く同期らとの交流

吉田善吾  湯浅  湯浅   米内  米内書

 
 また、上の写真は同じく海兵32期同期の吉田善吾氏より、軍艦陸奥から送られた絵葉書です。消印は1938(昭和13)年、野邊田氏は退役した後も様々な同期生と交流を続けていたことが、これらから伺い知ることができます。
 その隣の葉書は吉田氏より少し前のものですが、野邊田氏が湯浅電機株式会社(現GSユアサ)小田原工場へ赴任することが決まったことに対するお祝いが書かれています。野邊田氏がこの湯浅電機株式会社の小田原工場長を務めていた際、嶋田海軍大臣の視察を受けたことがありました。隣の写真はその時のものです。(昭和18年3月7日)また、米内光政大将が同工場を視察した際の写真もあります。(昭和19年5月9日)米内氏と野邊田氏とは同期生ではありませんが、野邊田氏は米内氏ゆかりのものを数点遺されており、何かしらの交流があったことが伺えます。隣の写真は、米内氏直筆の書です。一点は史料室に展示していますが、もう一点は箱に納められたまま、大切に保管されています。


 

5 山本五十六氏とも

山本五十六封書   五十六手紙  五十六名刺        

 
 そして、海兵32期・海大14期であった山本五十六氏。
大変有名な山本五十六氏とも親交のあった野邊田氏は、彼から受け取った手紙も遺しています。
「見事な松茸をありがとう。寒くなってきたのでご自愛下さい」
墨痕鮮やかな運筆のその手紙は、軍艦長門から送られてきたものでした。
その手紙とは別に、海軍省勤務時の山本氏の名刺にしたためられた松茸受領の短い礼文も残されており、野邊田氏から山本氏への松茸の贈呈は複数回行われていたようでした。当時の野邊田氏の住所を見るに、松茸の産地に程近かったことからの贈答かとも思われますが、遺された手紙から見えてくるこれら日常の事様は、歴史上の人物を身近に感じられる貴重な資料となっています。



6 裕仁天皇より拝領の軍帽

軍帽

 
 最後に、野邊田氏が遺されたものの中でまた違う趣を放っているこの軍帽。昭和天皇が海軍大演習で実際に使用されていたものを、侍従武官を通じて野邊田氏が拝領されたのだといいます。その詳細な時期等は伝えられていませんが、1933(昭和8)年の海軍大演習で、野邊田氏は第4潜水戦隊司令官を務めていたという事実は残されています。
 
 このように、歴史を大きく動かした人物たちと深く関わり、自身もそのうねりのひとつとして生き抜いた野邊田重興氏。
1904年に海軍兵学校を修業して以来の往交の朋輩らと、最後まで途切れることのなかった絆。激動の時代の中で交わされた何気ない手紙の数々が我々に教えてくれるのは、どんな時でも人間は人間らしく、友人と交流を重ねながら普通に生きているのだという事実です。
潜水艦発展の歴史の中に生きた人たちの人生が垣間見えるこれら貴重な残証たちを、保管庫の片隅に眠らせておくには忍びなく、この見聞録にて、紹介しておきたいと思います。(本文:藤江)


   

資料一覧


0 寄せ書き:昭和9年12月の退役時、野邊田重興氏に寄せられたもの。
1 少将旗木箱:昭和5年、第十五期甲種会より贈られたもの。
  
寄贈目録:上記木箱に封入された目録。
  少将旗:旭日旗。
  和波氏から野邊田氏への手紙:当時「長鯨」に乗り組んでいた野邊田氏に宛てて送られた手紙。海軍艦政本部にいた和波氏より。昭和5年12月8日消印。
2 潜水艦ノ話 原稿:和波豊一氏の原稿。平成24年4月、海経37期の佐藤氏より寄贈。
3 嶋田氏葉書:嶋田繁太郎氏からの葉書。消印は昭和11年11月23日。
  嶋田氏葉書
:嶋田繁太郎氏からの葉書。消印読み取れず。11月1日呉にてとある。
  嶋田氏手紙:昭和27年11月15日消印。巣鴨拘置所内より送られたもの。
4 吉田氏葉書:軍艦陸奥より発送。消印は昭和13年2月27日。
  就任祝い葉書:昭和11年2月19日消印。
  嶋田氏視察写真:写真前列中央が嶋田氏。前列向かって左端(着座)が野邊田氏。
  米内氏視察写真:写真前列中央が米内光政氏。その左が野邊田氏。
  米内光政氏書:「為萬世開太平」書かれた時期等不明。
5 山本五十六氏封筒:軍艦長門より発送されたもの。
  山本五十六氏手紙:上記封筒内手紙。
  山本五十六氏名刺「海軍省 山本五十六」と記して発送した小型郵便の中身。消印は昭和12年10月。
 天皇より拝領の軍帽:拝領時期不明。専用のケースに納められている。
 ※上記は2を除いて全て、野邊田重興氏のご長男より寄贈頂きました。