防衛省自衛隊
福井地方協力本部

第35代本部長の紹介

1等海佐

野間 俊英(のま としひで)

本部長統率方針

誠心誠意

略歴

平成8年3月に防衛大学校卒業及び
海上自衛隊へ入隊

・海上幕僚監部防衛部防衛課

・第1掃海隊司令(呉)

・外務事務官
(在英日本大使館防衛駐在官)

・統合幕僚監部 日米共同室長を経て令和3年12月より現職

プロフィール

昭和49年3月12日生

神奈川県出身

防衛大学校卒(第40期)

居於治不忘乱


 8月26日、福井県戦没者追悼式に参列し、嶺北忠霊塔を訪れました。「治に居て乱を忘れず」。先人の労苦を胸に刻む良い機会となりました。


慧眼の藩主と海軍~松平春嶽~


<黎明期の近代日本海軍>

 現在、日本経済新聞で連載中の小説「陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春」(辻原登著)は、条約改正に尽力した明治の外交官陸奥宗光の青春時代を描いています。その中で、陸奥宗光は若かりし頃、海軍軍人となることを志し、海軍塾に入ります。この海軍塾を設立したのは、後に戊辰戦争での江戸城無血開城で有名になる勝海舟です。この物語にもあるように、彼が近代海軍を作ろうと奔走していた事は、福井とも少なからず関係があります。


<優れた見識に基づく人材登用>

 一介の旗本の息子であった勝海舟を抜擢したのは、幕府政事総裁職であった松平春嶽(第16代福井藩主)でした。勝海舟が近代海軍の礎を築いた業績が讃えられるのはもちろんですが、勝海舟を抜擢した松平春嶽の慧眼を忘れてはならないと思います。名藩主として福井藩の財政を立て直すために、出自・家柄を問わず優れたブレーンを登用した松平春嶽らしい抜擢だったのでしょう。これは、越前に寄港する北前船の交易で海上交易が経済的な繁栄に果たす役割を肌身で感じ、故に海上交通を守る海軍の重要性を早くから松平春嶽が理解していたからなのでしょう。


<エピソード>

 最後にエピソードを一つ。明治21年1月、福井県出身で後に海軍大将から総理大臣になる岡田啓介さんが、当時、東京の築地にあった海軍兵学校に在学中のことです。元福井藩主の松平家の慶事を祝う宴が催されることになり、岡田生徒を含む福井県の人々が東京小石川水道町の旧福井藩邸に招かれます。宴もたけなわの頃、隠居の身であった松平春嶽が宴に顔を出しました。そして、春嶽公は岡田啓介さんが海軍兵学校生徒であることを知り、非常に喜んだそうです。
 というのも、岡田生徒の祖父・喜八郎は、若かりし藩主の春嶽公に小姓として仕え、時には経書の御進講や、武術の稽古相手をした春嶽公にとっては「家庭教師」のような存在だったのです。そして、喜八郎の息子の喜藤太(岡田生徒の父)も、俊才の名が高く春嶽公の覚えめでたき福井藩士でした。
 春嶽公は、かつての部下の子が海軍兵学校生徒となっていたことがよっぽど嬉しかったのか、岡田生徒にお酒を次から次へと注いだそうです。曰く「貴様はおやじ(喜藤太)の息子だから酒は飲むだろう。酒を飲むのはいいが、大いに勉強せぬといかぬぞ。将来日本は海軍の拡張をせなければならぬのだから大いにやれ。」
 岡田生徒も元藩主に勧められるお酒が嬉しく杯を重ねました。ところが、春嶽公が現れる前にも、かなり食べて飲んでいたところ、追い討ちをかけるようにかつてのお殿様から次から次へとお酒を勧められ岡田生徒は、かなり酔いが回ってしまったようです。
 宴の後に何とか築地の兵学校に辿り着いたものの、岡田生徒は泥酔状態で、その醜態を当直将校に見つかってしまいました。その翌日、岡田生徒は当直将校から呼び出しを受け「岡田生徒は、猿の尻のような真っ赤な顔で酔っ払って帰ってきて不体裁極まりない。禁足(外出禁止)2週間に処す。」と宣告されてしまいました。
 後年、岡田さんは回顧録に「にぎやかな兵学校時代」の思い出の一つとして、このエピソードを紹介しています。若かりし頃の失敗も、面白おかしく語り継がれていることに、今も昔も変わらない福井の人の大らかさを感じ微笑ましく思います。


【参考文献:「越前福井藩主松平春嶽」(安藤優一郎著 2021年 平凡社) ・「岡田啓介回顧録」(岡田啓介著・岡田貞寛編 1977年毎日新聞社刊) ・「岡田啓介」(山田邦紀著 2018年現代書館)】

松平春嶽/出典:「近代日本人の肖像」(国立国会図書館HP)

松平春嶽/出典:「近代日本人の肖像」
(国立国会図書館HP)

https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/195/

勝海舟/出典:「近代日本人の肖像」(国立国会図書館HP)

勝海舟/出典:「近代日本人の肖像」
(国立国会図書館HP)

https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/51/

勝海舟/出典:「近代日本人の肖像」(国立国会図書館HP)

岡田啓介/出典:「近代日本人の肖像」
(国立国会図書館HP)

https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/41/

旧日本海軍と福井(2/2)


〈公に捧げた人生〉

 前回のコラムで紹介した靖国神社大燈篭のレリーフに描かれている「上海付近の空中戦」でパイロットであった生田乃木次さんは、旧制福井中学(現在の福井県立藤島高校)から海軍兵学校に入校し、同校卒業後、戦闘機パイロットの道を歩まれます。パイロットになってからは、イギリスに留学し空中戦の技術を習得し、草創期の日本海軍航空部隊の技量向上に尽力されました。日本海軍航空隊はその後、急速に発展し世界の海軍史にも残る活躍をしますが、その礎を築いた1人が生田さんであったのは間違いないでしょう。
 1932年2月22日、第一次上海事変において生田さんは中国軍戦闘機と交戦し、日本で初となる空中戦における敵機撃墜を成し遂げます(写真1:上海付近の空中戦からの帰還)。この時の模様を描いたのが前回のコラムで紹介した靖国神社大燈篭の「上海付近の空中戦」(写真2)です。
 戦後、生田さんは私財を投じて保育園を設立、奥様と二人三脚で幼児教育に情熱を注がれます。この生田さんの波瀾万丈に人生については「証言 零戦 搭乗員が潜抜けた地獄と戦場」(神立尚紀著 講談社+α文庫)に詳しく書かれています。


〈苦しみを救った故郷の大先輩の言葉〉

 生田さんの人生は、海軍のみならず、広く社会のために尽くされたものでした。一方で、かつての海軍の仲間達の多くが戦火に散ったにもかかわらず、御自分が生き残られたことに、負い目と悲しみを抱えられていたようです。そんな生田さんの苦しみを救ってくれたのは、同郷の大先輩である長谷川清海軍大将の言葉であったそうです。
 日本の近代史上の大事件に携わった福井県出身の長谷川さんと生田さんが、互いにその心の内を思いやっていたという事は驚きであるとともに、今ここ福井で私が感じている福井の人々の絆や優しさに通ずると強く思いました。生田さんは、長谷川さんが亡くなられた後に、長谷川さんから優しい声をかけられた時のことを残されています。その一文を紹介して、今回のコラムを終わります。


 この時の(長谷川)大将のご境地は実に、明鏡止水ともいえましょうか、淡々として「君は君の道を、それで良かったのだよ。しっかりナ!」
幾十年、求めた知己の言、溢れ出る涙の目に、確かと達人を見たのであります。靖国の社頭、右手の大燈篭に武勲赫赫たる旗艦三笠艦上の図があります。狂生空戦の一事蹟がこれに隣するのは奇縁、否、深き縁とも言えましょうか。今は亡き知己に帰するの情、切々たるを禁じ得ない私でございます。

(終)


【参考文献:「証言 零戦 搭乗員がくぐり抜けた地獄の戦場と激動の戦後」(2018年 神立尚紀著 講談社+α文庫)
「長谷川清伝」(長谷川清伝刊行会編 1972年)】

【写真1】1932年2月22日、空戦を終え帰還した生田さん(左から1人目)

【写真1】1932年2月22日、
空戦を終え帰還した生田さん(左から1人目)


【写真2】海軍燈篭レリーフ「上海付近の空中戦」

【写真2】海軍燈篭レリーフ「上海付近の空中戦」

旧日本海軍と福井(1/2)


〈靖国神社大燈篭〉

 東京九段の靖国神社第二鳥居の手前に大きな二つの燈篭があります。これらの燈篭は「大燈篭」と呼ばれており、1935年に奉納されたものです。左右に配置された燈篭の台座には、それぞれ7枚ずつ旧陸海軍が従事した戦いの模様が描かれたレリーフが飾られています。第二鳥居に向かって右側の燈篭は海軍燈篭と呼ばれ、7枚のレリーフに海軍の戦いが描かれています(写真1、写真2)。それらのうち、福井に関係の深い3枚レリーフを紹介したいと思います。


〈日本海海戦三笠艦橋の図〉

 最初に紹介するのは、先日、本コラムで紹介した福井出身の長谷川清大将が描かれている「日本海海戦三笠艦橋図」(写真3)です。残念ながら、長谷川大将の顔は隠れて見えませんが、確かにこの歴史的な場面に福井県出身の長谷川さん(日本海海戦当時は少尉)が描かれています。


〈日露戦争旅順閉塞船「福井丸」〉

 次に紹介するのは、日露戦争における旅順閉塞作戦での廣瀬武夫中佐を描いた「第二回旅順口閉塞」です(写真4)。この時、廣瀬中佐が指揮した閉塞船は「福井丸」で、その名の通り福井県から徴用された船でした。
 江戸時代に北前船の交易で栄えた越前の街は明治の頃にも海運業が盛んでした。中でも河野村(現在の南越前町)の右近家は、日本海沿岸では有数の船主で、明治期には入ってからは、使用船を鋼鉄汽船に転換し、日本海の海運と経済を支えていました。
 「福井丸」は、日露戦争前は右近権左衛門の持ち船で、英国のサンダーランド造船所で1882年に建造された船でした。日露戦争により、海軍に徴用され兵員輸送などに従事し、最期は第二回旅順閉塞作戦で旅順港の湾口に閉塞船として沈められました。
 10年ほど前に、テレビドラマ化された司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」でも描かれた旅順閉塞作戦で、姿が見当たらない杉野兵曹を広瀬中佐が探し求めた時の船が「福井丸」です。


〈上海付近の空中戦〉

 最後に紹介するのは「上海付近の空中戦」(写真5)です。1932年2月22日、上海事変の最中、空母「加賀」飛行隊所属の戦闘機が、上海付近蘇州上空における空中戦で敵機を撃墜します。これは、日本陸海軍を通じて、初めての空中戦での「敵機撃墜」でした。そしてその時の日本海軍戦闘機のパイロットが、福井県出身の生田乃木次(いくた のぎじ)さんでした。次回のコラムでは、生田さんについて紹介します。(つづく)


【参考文献:旅順閉塞船「福井丸」(上坂紀夫著 2002年 福井県河野村役場発行)】

【写真1】靖国神社第2鳥居と陸軍燈篭(左側)と海軍燈篭燈篭(右側)

【写真1】靖国神社第2鳥居と
陸軍燈篭(左側)と海軍燈篭燈篭(右側)
(筆者撮影:「みたままつり」準備で設置された提灯吊りの後ろにあるのが大燈篭)


【写真2】靖国神社大燈篭(海軍燈篭)(筆者撮影)

【写真2】靖国神社大燈篭(海軍燈篭)
(筆者撮影)


【写真3】海軍燈篭レリーフ「日本海海戦三笠艦橋図」(筆者撮影)

【写真3】海軍燈篭レリーフ
「日本海海戦三笠艦橋図」(筆者撮影)


【写真4】海軍燈篭レリーフ「第二回旅順口閉塞」(筆者撮影)

【写真4】海軍燈篭レリーフ
「第二回旅順口閉塞」(筆者撮影)


【写真5】海軍燈篭レリーフ「上海付近の空中戦」(筆者撮影)

【写真5】海軍燈篭レリーフ
「上海付近の空中戦」(筆者撮影)

清廉の士 長谷川 清 海軍大将 第6回


<故郷への思い>

 長谷川大将は、福井出身の人々のためには公私にわたり親身になって尽力されました。福井県人会名誉会長なども引き受け冠婚葬祭などにも上下の区別なく出席され、何かと福井の方々の面倒を見ておられ大変慕われていたそうです。また、所持していた勲章などを福井市立郷土歴史博物館に寄贈され、これらは今も大切に同館に保管されています(展示はされていません。)。
 福井市大宮にある福井県護国神社境内に「秀芳館」という記念館があり、入り口に長谷川大将の筆による額があります。長谷川大将が亡くなられる前年、福井に最後の帰省の折、福井出身の海軍OBの方からお願いされ書かれたものです。


<終わりに>

 海軍軍人として栄達を極め、戦後は戦死者と遺族のために尽くし、多くの人から慕われた長谷川大将。この福井という地が、このような偉大な人物を育んだことに感慨を感じます。
 最後に、福井県出身で元最高検察庁次長検事の木内曽益さんが、残された一文を紹介して、長谷川大将についてのコラムを終わりにさせていただきます。


 「長谷川さんは、わが福井県が生んだ偉傑であり、私にとっても郷土の大先輩でありますが、およそ閣下とか先生とか申し上げるには、余りにも、私には庶民的な親しみを感じておるイメージが許しません。長谷川さんには現役時代から、海軍大将とか、台湾総督とかいう、しかめつらしいところは微塵もなく、文字通り庶民的で近づきやすく親しめるお人柄は、全く天性と申すべきでありましょう。長谷川さんは、頼まれれば、それこそ何事でも快く引き受け、『千里の道も遠しとせず』の温かい真心の持ち主であられました。台湾の住民の方々も長谷川さんを慕ったということですが、あの誠意と温顔が何とも言えない魅力であって、長谷川さんに接した多くの人、おそらく全ての人の胸裡に刻み付けられているものと思います。」

(終)


【参考文献:「長谷川清伝」(長谷川清伝刊行会編 1972年) ・「山本五十六」(阿川弘之著、新潮文庫 1973年) ・「井上成美」(阿川弘之著、新潮文庫、1986年) ・「米内光政」(阿川弘之著、新潮文庫、1978年)】  

長谷川大将による「秀芳館」の額(福井県護国神社内)

清廉の士 長谷川 清 海軍大将 第5回


<英霊・遺族・復興のために尽くした戦後>

 1945年の終戦に伴い長谷川大将は45年に及ぶ海軍生活を終えます。そして、海軍大将であり台湾総督という重責を担っていた長谷川大将は、戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監されます。しかし、嫌疑がないことがわかり2か月足らずで釈放されました。早期に釈放された背景には、台湾の人々が連合軍司令部に対して、長谷川大将の釈放を嘆願していたこともあったようです。
 釈放後は、簡素な生活を送りつつも、誠実な人柄は変わりませんでした。その時の様子を、長谷川大将の知人は次のように述べています。


 「戦後、人心の変化をきたし、(長谷川)先生に背反的になった方に対しても決して腹を立てられず、むしろよく理解しようと努力され『私の至らない為だよ』と苦笑せられるのみで、時にはその方々の後援会にも御老体にむち打ち行動によって尽くされるその尊い海軍魂と思いやりには自然と頭が下がるのみである。」

 1952年サンフランシスコ平和条約発効後は、元軍人の活動も自由に認められ、長谷川大将は他の元海軍軍人らとともに、戦死者の慰霊や御遺族の援護に尽力されます。この時、長谷川さんは70歳を超えていましたので、体力的には決して楽なことではなかったはずです。まさに「老体に鞭打つ」という状況でしょう。また、当時、連合軍によって荒廃していた記念艦三笠(横須賀)の復元に尽力されます。そして1968年には、行啓にお越しになった昭和天皇を同艦艦上でお出迎えします。その場に居合わせた福地誠夫元海軍大佐は、その時の様子を次のように残しています。


 「陛下は二人(長谷川大将と今村中将)をお認めになると急にニコニコされ、あの中折帽子を一寸とられてびっくりするほど大きな声で『ヤァ暫くでしたネ』とお言葉を賜った。そこへ用意させてあった「日本海海戦三笠艦橋の図」によって『この艦長の後ろで双眼鏡を持っているのが今村中尉。後ろの測距儀について帽子だけ見えているのが長谷川少尉でございます。』とご説明申し上げると両陛下も絵と本人を見比べて面白そうにうなづいておいでになった。」

 この時の昭和天皇の上機嫌な御様子からも、長谷川大将に対する変わらぬ厚い信頼が伺えます。
 長谷川大将は、海上自衛隊の発展にも協力し、若手幹部への講話や練習艦隊の出港の見送りなどを行いました。(つづく)
【参考文献「長谷川清伝」(長谷川清伝刊行会編 1972年)】

昭和天皇による記念艦三笠行幸啓をお迎えする長谷川大将

清廉の士 長谷川 清 海軍大将 第4回


<抜群の判断力・邦人救出成功>

 長谷川さんが評価されていたのは人柄だけではありません。長谷川さんが海軍次官(海軍省で海軍大臣を補佐するナンバー2)を務めた1930年代は、国内外とも複雑な情勢でした。次官在任中は、ワシントン及びロンドン両海軍軍縮条約からの脱退、艦艇整備施策に大きな影響を与えた友鶴転覆事件や第4艦隊遭難事件の処理、さらには2・26事件と内外多事多難であり、このような時期に、海軍次官という難しい職務をこなした手腕は高く評価されました。
 1936年12月、長谷川さんは海軍次官の職を後任の山本五十六に託し、中国方面を担任する第3艦隊司令長官になります。長谷川さんが第3艦隊司令長官に就任した当時は、満州事変以降、日中関係が悪化していました。そのような情勢で、揚子江沿いの日本人居留民の邦人退避をいつ行うかが第3艦隊の喫緊の課題で、実施のタイミングは現場指揮官である長谷川司令長官に一任されていました。
 そのような極めて緊迫した情勢で長谷川第3艦隊司令長官は、1937年7月に退避作戦実施を決断し、犠牲者を出すことなく揚子江沿いの日本人居留民全員を無事に上海まで退避させることに成功しました。日本人居留民退避後、中国は機雷敷設等を行い、揚子江を封鎖しました。もし、退避作戦実施の決断が少しでも遅れたならば、日本人居留民は退避することが出来なくなるところでした。このことから、当時の情勢を見極めた長谷川さんの決断のタイミングが絶妙であったことがわかります。


<パナイ号事件・日米外交危機の回避>

 1937年12月にパナイ号事件が起きます。この事件は、日本海軍の航空機が、米海軍砲艦パナイ号を揚子江で、中国の艦船と誤って認識、爆撃し沈没させた事件で、一歩間違えば戦争につながる外交上の重大な問題でした。しかし、現場において、長谷川司令長官は迅速に救助活動を実施させるなどしつつ、海外勤務や中央勤務の経験を活かして適切に処理し、この時点での日米戦争は回避することが出来ました。


<天皇陛下からの厚い信頼>

 1938年、第3艦隊司令長官の任を終え帰国。第3艦隊司令長官在任中の功績が認められ、天皇陛下に拝謁、軍状を奏上し勅語を賜りました。
 翌年の1939年に海軍大将に昇任。この時期は、日独伊三国同盟が締結され米国を知る長谷川大将は日本の行く末を大いに憂慮していました。
 1940年、長谷川大将は台湾総督に親任されました。総督としての長谷川大将は、台湾の人々からも尊敬を集めます。1944年に台湾総督に任を終え帰国。その後は、軍事参議官として、天皇陛下から軍の現状を査察するように命ぜられます。その時の様子を、長谷川大将と海軍兵学校同期の寺島健中将は、次のように述べています。


 「(長谷川大将は)四年間台湾総督を勤め、同島の内地人はもとより、島民の信望を得て功績ある統治の任を果たして、帰国した後は軍事参議官となり、終戦前には特命査察使として全国の海軍を検閲し、その現状を率直に陛下に奏上した。彼(長谷川大将)はその際、陛下が如何にして和平に導くかに御心労のことがよく分かった。」

 昭和天皇が直々に長谷川大将に査察を命じられたことからも、長谷川大将に厚い信頼を寄せていたことが伺えます。(つづく)
【参考文献「長谷川清伝」(長谷川清伝刊行会編 1972年)、「山本五十六」(阿川弘之著、新潮文庫1973年)】

台湾総督時の長谷川大将

清廉の士 長谷川 清 海軍大将 第3回


<魅力ある人柄>

 日露戦争後、長谷川さんは、加藤友三郎海軍大臣の秘書官、在米大使館付武官、戦艦長門艦長等の数々の要職を務めます。そんな多忙な海軍勤務の合間にも、郷里を愛する長谷川さんは、機会あるごとに母校などで講演されて後輩に心をかけられたそうです。また、同郷の人だけでなく、長谷川さんに接された方は、その人柄に魅かれていったようです。例えば、長谷川さんに副官として仕えた吉田俊雄元海軍中佐は、次のように回顧されています。


 「長谷川大将から学んだことは、人に対する態度、気構え、ことに下の者、若い者に対するそれであった。天衣無縫というか、『俺は偉いんだゾ』とは一切考えていないように思われた。そんなことには少しも分け隔てされない。私のちょっとしたイタズラに乗って、腹をかかえて笑って下さるかと思うと、たちまち一転、どう知恵を絞っても及ばないことを、ポンと言われ、こちらは舌を巻くほかなくなってしまうのだった。」

 真珠湾攻撃で有名な山本五十六とも、親しかったようです。長谷川さんが在米大使館付海軍武官の任務を終え、帰国する際には後任者である山本五十六と一緒にハバナに視察旅行をしました。賭け事が好きな山本五十六は長谷川さんに「宿賃くらいは(カジノで)稼ぐよ。」と言っていました。(つづく)
【参考文献「長谷川清伝」(長谷川清伝刊行会編 1972年)、「山本五十六」(阿川弘之著、新潮文庫1973年)】

左図:在米大使館付海軍武官時代の長谷川大佐/右図:横須賀鎮守府参謀長の長谷川少将と須磨子夫人(福井県三国町出身)

清廉の士 長谷川 清 海軍大将 第2回


<あの時あの場所に>

 長谷川さんが海軍兵学校を卒業後、1904年に日露戦争が勃発します。しかし、長谷川さんが乗り組んでいた戦艦「八島」は、旅順口外で沈没。その後、連合艦隊旗艦(司令長官が乗艦している艦)である戦艦「三笠」に配属され、日本海海戦に参加します。歴史の教科書などでも見かける「日本海海戦三笠艦橋の図」で測距儀(敵艦の距離を測る器具)を覗いて帽子だけ見えている士官(赤丸で囲った所)が長谷川少尉です。レーダーのない時代、敵艦までの距離を正確に測ることは、大砲の命中精度に大きく影響することから、測距儀には優秀な士官が配置されていました。三笠艦長の伊地知彦次郎大佐は、長谷川少尉の考課表に、次のような所見を残しています。


 「敏捷にして強き記憶力を有し、言語明晰、何事にも限らず熱心業務に従事し実に愛すべき人物なり。将来有望の将校となるべし。」

 若かりし頃から、長谷川さんが将来を嘱望されていたことがわかります。(つづく)
【参考文献「長谷川清伝」(長谷川清伝刊行会編 1972年)】

日本海海戦三笠艦橋の図

清廉の士 長谷川 清 海軍大将 第1回


<はじめに>

 今回から、数回にわたり福井県出身の長谷川清海軍大将(1883~1970)を紹介したいと思います。昨年、紹介した岡田啓介大将に加えて、同じ福井出身の長谷川大将についても皆さんにも知っていただければ幸いです。少し(かなり。。)長くなりますがお付き合い下さい。


<福井に育まれた少年>

 長谷川清大将は、1883年福井県足羽郡社村で、医者の父、長谷川次仲と母みやいの次男として生まれました。長谷川次仲さんは、医者としても信望を集め、また柔らかな人柄を持ち、話し上手・聞き上手な方で、周りにはいつも大勢の人が集まっていたそうです。
 長谷川少年が、社村小学校6年生の時に日清戦争が起きます。おそらく、長谷川少年の 脳裡に当時の海軍の活躍が刻み込まれたのでしょう。1896年、長谷川少年は、旧制福井中学(現福井県立藤島高校)に入学します。戦後、長谷川大将は次のように、福井中学の生活を懐かしんでいます。


 「当時は人間が素朴単純で、破帽弊衣も平気で学生として一種の誇りを持ち、師弟の間も理性を抜きにした敬愛親密の情が深かった。(中略)唯将来への夢を抱いて勉学精励することが出来た。」

 福井中学4年生の時に海軍軍人になる志を立て、1900年に海軍兵学校に入校(第31期)、1903年に6番の成績で同校を卒業。優秀な学生でしたが、勉強ばかりしていたわけではなく悠揚としていたそうです。当時の海軍兵学校には、2期先輩に米内光政(29期:終戦時の海軍大臣)や、1年後輩に山本五十六(32期:後に連合艦隊司令長官)がいました。(つづく)
【参考文献「長谷川清伝」(長谷川清伝刊行会編1972年)】

長谷川大将

「明けましておめでとうございます」(新年挨拶)


 旧年中は、防衛省自衛隊への深いご理解と格別のご支援を賜り、厚く御礼申し上げます。
 昨年6月以来、本部長コラムを出しておりませんでしたが、新しい年を迎えましたので、昨年を振り返りつつ、心機一転、コラムを再開したいと思います。
 昨年後半は、掃海母艦「ぶんご」福井港入港(9月)、福井県防災訓練及び自衛隊福井市中パレード(10月)や、原子力防災訓練及び空自PAC3展開訓練(11月)があり、それぞれに当本部員が参加・従事しました。
 その中でも、自衛隊福井市中パレードは、4年ぶりに福井市中心部のフェニックス通りで行われ、「コロナ以前」の形に戻すことが出来ました。同パレードは、一般公道を使用して行う全国でも数少ない自衛隊のパレードで、福井県防衛協会の皆様をはじめとした民間の方々の力強いご協力を得て行われているものです。この市中パレードでは、約2万人の方々に自衛隊の雄姿を見ていただけ、福井県の皆様のご理解ご協力の強力さに改めて感謝の念を感じました。
 今年も、皆様のご期待に応えられるように、福井地本一同、職務に邁進していこうと思っておりますので、引き続きよろしくお願い申し上げます。
 最後に、本年が皆様にとりまして幸多き輝かしい年となりますことを祈念申し上げ、年頭の挨拶とさせていただきます。

掃海母艦「ぶんご」福井港入港時の陸海空自広報(9月)
掃海母艦「ぶんご」福井港入港時の陸海空自広報(9月)
福井県総合防災訓練(10月)
福井県総合防災訓練(10月)
福井市中パレード(10月)
福井市中パレード(10月)
原子力防災訓練(住民避難支援)(11月)
原子力防災訓練(住民避難支援)(11月)
空自PAC3展開訓練①(11月)
空自PAC3展開訓練①(11月)
空自PAC3展開訓練②(11月)
空自PAC3展開訓練②(11月)

映画「トップガン マーベリック」を観て:あれは海軍です!!


 トム・クルーズ主演の映画「トップガン マーベリック」が先月公開となり、ヒットをしています。前作(1986年公開)のヒットを知っているオジサン世代の一人としては、今回の続編を大変楽しみにしておりまして、妻を連れて2回も観に行ってしまいました。今回の続編は前作同様、米海軍の全面協力を得て撮影が行われ、飛行シーンは最新技術を駆使し迫力のある素晴らしい映画でした。
 この映画は、戦闘機パイロットの姿を描いた映画です。日本で「戦闘機」というと航空自衛隊を想像されると思いますが、映画「トップガン」で描かれている戦闘機パイロットは、空軍ではなく海軍の戦闘機パイロットを描いています。
 海上自衛隊は戦闘機や航空母艦を保有していませんが、旧日本海軍は世界に先駆けて戦闘機等の航空機を運用する空母機動部隊を編成し屈指の海軍航空戦力を有していました。その日本海軍との戦いを含めた経験を積み重ねて、米海軍は現在の空母打撃群の形を作り、今なお進化を続けています(ちなみに今年は米海軍の航空母艦運用開始100周年の年です。)。
 そのような歴史を踏まえると、旧日本海軍が現在の米海軍に大きく影響を及ぼしたとも言えます。例えば、私が教官として勤務していた米海軍兵学校では、必須科目の「海軍戦術」において、日本海軍との戦いであるミッドウェー海戦が最終課題とされていました。戦争は決して賛美されるものではありません。しかし、現在の米軍が自衛隊に対して示してくれる高い敬意は、そうした先人の方々の犠牲の上にあるのではないかと、この映画を観て思いました。

福井出身の総理大臣


 先日、市内をジョギングしていて、JR福井駅の東口に、銅像があるのに気が付きました。近づいて、確認してみると、この銅像は、岡田啓介海軍大将の銅像でした。岡田啓介(1868~1952)は、旭小学校、旧制福井中学(現藤島高校)を卒業後、海軍兵学校に入校。海軍では、日清・日露戦争に従軍し数々の要職を務め、海軍大将まで昇進。海軍退役後は総理大臣を務めた人です。一貫して英米との協調を唱え、対米戦争中は東条内閣打倒及び終戦工作に尽力した人物です。偉大な海軍の先輩が育った福井で勤務できることを誇らしく思います。

岡田啓介銅像(福井駅東口:銘板筆は吉田茂による)
岡田啓介銅像(福井駅東口:銘板筆は吉田茂による)
銅像の説明版
銅像の説明版
岡田啓介像横にある松尾伝蔵胸像(二・二六事件時に岡田の身代わりになった元陸軍大佐)
岡田啓介像横にある松尾伝蔵胸像(二・二六事件時に岡田の身代わりになった元陸軍大佐)
岡田啓介生誕の地(福井市日の出3丁目)
岡田啓介生誕の地(福井市日の出3丁目)
旭小学校(岡田啓介の母校)
旭小学校(岡田啓介の母校)
藤島高校(旧制福井中学)(岡田啓介の母校)
藤島高校(旧制福井中学)(岡田啓介の母校)

特務艦「関東」遭難の碑(南越前町)を訪れて


 南越前町にある「特務艦関東遭難の碑」を訪れました。この碑は、1924年12月12日に、京都府舞鶴基地に向かっていた旧海軍の特務艦「関東」が、悪天候の中、越前海岸で座礁した事故で犠牲になった97名の将兵の慰霊をするために建てられたものです(南越前町HPはコチラからどうぞ)。多くの将兵が犠牲になる中でも、南条郡河野村(現南越前町)の方々の献身的な救助活動で命を取り留めた将兵もいたそうです。出稼ぎで男手が少ない中、救助活動にあたった多くの方々は、老人や女性であったようです。
越前の方々から受けた恩は、旧海軍の末裔たる海上自衛官として語り継いでいかなければならないと思っています。

大日本帝国海軍特務艦「関東」(「特務艦関東の遭難」(上坂冬夫著)より)
大日本帝国海軍特務艦「関東」(「特務艦関東の遭難」(上坂冬夫著)より)
特務艦関東遭難慰霊碑公園(南越前町)
特務艦関東遭難慰霊碑公園(南越前町)
「特務艦関東遭難之地」(この碑の沖で関東が座礁した)
「特務艦関東遭難之地」(この碑の沖で関東が座礁した)

米軍から表彰されました


 先日、在日米軍司令官ラップ中将より、前配置(統合幕僚監部日米共同室長:市ヶ谷)における功績を評価され、Defense Meritorious Service Medal(防衛功労章)を授与されました。個人名で授与されていますが、これはあくまで職責に対する表彰であると考えています。当時の上司・同僚・部下、カウンター・パートである在日米軍司令部及び米インド太平洋軍司令部のスタッフなど多くの方々の支えがあって、何とか職責を全うできたというのが、私自身の正直な感想です。そう考えると、私個人の功績というより、緊密で強固な自衛隊と米軍のチーム・ワークが認められたものと言えます。この場を借りて、関係者の方々に深く感謝を申し上げます。
I was honoured and privileged to be awarded Defense Meritorious Service Medal by Lieutenant General Ricky N.Rupp, USAF, Commander, United States Forces, Japan. This award is for my previous appointment as Chief Staff Officer, Bilateral Operation Office, Joint Staff. Although this DMSM was given to my individual name, I am fully aware that the award was given to my duty in Joint Staff. To be honest, I could not accomplish my mission without great help and support from my bosses, colleagues and staff in the JJS and from staff in the USFJ and the USINDOPACOM. In this sense, I strongly believe that this award is not only for me, but also for our Japan-US team. I would like to offer my sincere appreciation to all who kindly worked together with my team. I am very proud of having been able to be a part of Japan-US team with you all.

Defense Meritorious Service Medal(防衛功労章)
Defense Meritorious Service Medal(防衛功労章)

入隊式に行ってきました


 満開の桜の中、大津駐屯地(滋賀県)と金沢駐屯地(石川県)で行われた入隊式に参列してきました。福井っ子たちの凛々しい制服姿はとても頼もしく、そんな彼らの姿に私自身も活力を頂き、心を新たにしました。先日のコラムでも紹介した佐久間艇長をはじめとして、旧陸海軍や自衛隊には、福井出身の偉大な先輩が大勢おられます。そんな大先輩たちと共に、私も福井から応援しています!「頑張んね!福井っ子!」

大津駐屯地入隊式1
大津駐屯地入隊式1
大津駐屯地入隊式2
大津駐屯地入隊式2
大津駐屯地入隊式3
大津駐屯地入隊式3
大津駐屯地入隊式4
大津駐屯地入隊式4
大津駐屯地入隊式5
大津駐屯地入隊式5
大津駐屯地入隊式6
大津駐屯地入隊式6
大津駐屯地入隊式7
大津駐屯地入隊式7
金沢駐屯地入隊式1
金沢駐屯地入隊式1
金沢駐屯地入隊式2
金沢駐屯地入隊式2

佐久間記念交流会館訪問


 先日、若狭町にある佐久間記念交流会館を訪れました。旧海軍潜水艦開発草創期において、殉職された佐久間勉大尉(第六潜水艇長)が示した高い責任感と暖かい人間性に思いを馳せ、先人たちの高いプロフェッショナリズムを自衛隊のDNAにも受け継いでいかなければならないと思いました。改めて、佐久間勉大尉という偉大な大先輩を育んだ福井の地で勤務できることを誇りに感じています。当日は、桜が満開でとてもきれいでした。

佐久間艇長(佐久間記念交流会館パンフレットより))
佐久間艇長(佐久間記念交流会館パンフレットより)
佐久間大尉生誕地の碑
佐久間大尉生誕地の碑
佐久間記念交流会館
佐久間記念交流会館
六号神社の桜
六号神社の桜
沈着勇断の碑
沈着勇断の碑
沈着勇断の碑と桜
沈着勇断の碑と桜

軍人のパラリンピック


 先週まで北京で行われたパラリンピックで、日本選手の大活躍をした姿には、私だけでなく皆さんも力づけられたのではないでしょうか。今回は、軍人の「パラリンピック」を紹介したいと思います。
 パラリンピックの起源は、第2次世界大戦後のイギリスで、傷痍軍人(戦場等で負傷し障害を負った軍人)によって行われたストーク・マンディビル・ゲームス(Stoke Mandeville Games)が起源とされています。この大会では16人の傷痍軍人たちが車椅子アーチェリーを行いました。この大会を発案したのは、傷痍軍人のリハビリの一環としてスポーツを導入していたガットマン医師でした(1)。ガットマンは神経学医でしたが、スポーツが、傷痍軍人の肉体的・精神的回復にも役立つということに、いち早く気が付いた偉大な医師です。後に、彼はその功績が高く評価され、王室から大英帝国勲章(OBE:Order of British Empire)を授与されました。
 現在のパラリンピックは軍人に限らず、広く障害を持つ方が参加し、平和の祭典として行われています。しかし、残念ながら現実問題として、世界中では戦争・紛争が絶えず起こっており、多くの兵士たちが戦闘で命を落とし、傷ついています。そして、医療が発達した現代では、戦傷者が助かる確率が上がった一方で、その社会復帰が大きな問題となります。特に2000年代に入ってからは、アフガニスタンの軍事作戦に参加した国々で、負傷した帰還兵士が除隊後、社会から取り残される事例が多発し、大きな社会問題になりました。
 その問題の解決策の一つとして再びスポーツが注目されます。まず、2010年にアメリカで、傷痍軍人のリハビリ促進と社会の理解促進のために、ウォリアー・ゲーム(Warrior Games:「戦士の大会」)という傷痍軍人のスポーツ競技会が始まりました(2)。 その後、この大会を見た英国のハリー王子(サセックス卿)が、その精神に感動し、傷痍軍人のための国際スポーツ競技大会の開催を提案します。このハリー王子の呼びかけに、祖母であるエリザベス女王、各国の政治家、軍人のみならず、ビジネス界の要人たちが賛同し、傷痍軍人のための国際スポーツ競技会である第1回インビクタス・ゲーム(Invictus Games:不屈の者たちの大会)が2014年にロンドンで行われました。(3)
 ハリー王子は、陸軍士官としてアフガニスタンの作戦に従事した経験を持っており、そこで多くの戦傷者を目にして心を痛めていました。その時から「戦傷者のために自分が役立てないか」と考えていたようです。彼は、「王子」という自分の立場を駆使して各界の著名人たちに働きかけ、インビクタス・ゲームを成功に導きました。ハリー王子の傷痍軍人たちへの想いは、英国では美談となっています。(4)
 インビクタス・ゲームスは、日本からの参加がないため、我が国では、あまり注目されていませんが、その精神はパラリンピックと全く同じで、「スポーツの力」の偉大さを感じさせてくれます。ここ2年間は新型コロナ感染症の拡大で中止されていましたが、このコラムを書いている2022年3月11日現在では、4月16日からオランダのハーグで第5回大会が行われる予定です。皆さんも是非、注目してみて下さい。

関連HP
(1)International Paralympic Committee/Paralympic Games All Editions (パラリンピックのリンク)
(2)Warrior Gameのリンク
(3)Invictus Games のリンク
(4)ハリー王子は、英国王室から離脱をされましたが、今後もインビクタス・ゲームの後援者(Patron)としての立場を維持する意思を表明されています。

100年の時を超え繋がる想い


 前回のコラムでは、「防人にして外交官」と題して、自衛官の国際的な一面を紹介しました。その経験の中でのハート・ウォーミング・ストーリーを紹介します。
 第1次大戦終結100周年であった2018年のある日、鶴岡駐英日本大使(当時)あてにイングランド南部のポートランドに住む若者から一通のメールが送られてきました。そのメールには「近くの海軍墓地にHaradaという名前の刻まれた日本海軍軍人の墓がある。来年2019年は彼が埋葬されてからちょうど100年になる。Harada海軍兵曹のお墓は100年たった今も大切にされていることをご遺族にも伝えたい。ついては、Harada海軍兵曹のご遺族を探してくれないか。」と書かれていました。
 当時、防衛駐在官として、ロンドンの日本大使館に勤務していた私は、鶴岡大使の命を受けこのメールに書かれているHarada海軍兵曹のご遺族を探すことになりました。しかし、Harada海軍兵曹が埋葬されたのは、100年も前のことで、旧海軍の記録も残っているかどうかわかりません。そこで、藁をもつかむ思いで東京の市ヶ谷にある防衛研究所戦史研究センターの石丸安蔵先生に問い合わせました。すると、石丸先生は、同研究所が保管している旧帝国海軍の資料を調べ、当該海軍兵曹は、原田浅吉2等海軍兵曹であること、そして、当時のご家族の住所は長崎県であったことがわかりました。しかし、それ以上のことは防衛研究所ではわかりませんでした。そこで、海自OBを通じ紹介していただいた長崎地方協力本部副本部長(当時)玉川裕一さんに原田2等海軍兵曹の、ご家族の住所に足を運んでいただき、ついに原田海軍兵曹のお孫様がご存命であることが判明しました。
 その後、原田海軍兵曹のご遺族が見つかった話に感動した英国海軍参謀本部の日本担当士官が海軍墓地のある地元ポートランドの退役軍人会の方々にも声をかけ、原田2等海軍兵曹の100年目の命日である2019年2月15日に慰霊行事を行なわれました。この時の模様は、英海軍のHPをはじめとして、日本の新聞や防衛研究所のHPでも紹介されました(※)。慰霊祭当日の様子は、玉川さんから、原田海軍兵曹のお孫様にも、報告していただいたところ、大変喜んでいただいたそうです。
 自衛官は我が国の平和と独立を守るという使命を持っています。これは、諸外国の軍人達も同じです。であるがゆえに、100年前に、遠い異国の地で心ならずも命を落とした我々の大先輩に対して、敬意を表してくれたのだと思いました。この英国での私の経験は、国を守るという各国の軍人たちと同じ使命を持つ自衛官だからこそ、国を超えて、時を超えて繋げる想いがあるということを教えてくれたと思っています。

詳しくは、下記リンクの記事等に掲載されています。
※1 英海軍ホームページのリンク
 2 産経新聞の記事のリンク
 3 防衛研究所HPのリンク

原田2等海軍兵曹の墓石(ポーランド英国海軍基地)
原田2等海軍兵曹の墓石(ポートランド英国海軍基地)
慰霊祭の様子(写真提供 英国海軍)
慰霊祭の様子(写真提供 英国海軍)
慰霊祭の様子(写真提供 英国海軍)
慰霊祭の様子(写真提供 英国海軍)
慰霊祭の様子(写真提供 英国海軍)
慰霊祭の様子(写真提供 英国海軍)

自衛隊あれこれ ~防人にして外交官~


 本部長の部屋にようこそ!これから「本部長の部屋」では、自衛隊の様々なことを、私の経験を通じて紹介しようと思います。第1回目は「防人にして外交官」です。
 自衛隊と聞いて何を想像しますか?おそらく最初に思い浮かぶのは、イージス艦、戦闘機や戦車などかもしれません。でも、海や空で船や飛行機に乗ったり、演習場で訓練をすることばかりが自衛隊の仕事ではありません。国の平和のためには、時には海外に出て、諸外国の軍隊と共同訓練や任務を通して絆を深め、相互に理解し合うことで、世界の平和と安定に貢献することも重要な役割です。
 こうした活動の具体的なものは、同盟国であるアメリカ軍との緊密な連携強化、日本を訪問する各国軍隊と共同訓練等です。また、いつでもどこでも活動できる自衛隊の能力を使って、海外で災害が発生した場合に派遣され援助活動を行うこともあります。最近では、トンガ王国における海底火山噴火後の援助活動のために、陸海空自衛隊が派遣されています。
 英国海軍では“ act as a guardian and a diplomat”というキャッチフレーズがよく使われます。日本語に訳せば「防人(さきもり)にして外交官としてふるまう」となるでしょう。自衛隊の役割も、まさに「防人にして外交官」として表現できると思っています。
 私自身は、防衛大学校での海外の軍士官学校からの留学生との交流、海上自衛隊での遠洋航海や米国への派遣訓練、米国海軍兵学校での連絡官勤務、英国の日本大使館における防衛駐在官勤務など、諸外国の軍人達と勤務する貴重な機会を数多くいただきました。
 そうした勤務を通じて、諸外国の軍人たちと友情を深めていく中では、共通の友人を通して「友達の輪」が広がっていくこともよくあります。そんな時は決まって“It’s a small world!”などと笑い合っています。言葉や文化が異なっても「国を守る」という共通の任務を持つ各国の軍人との勤務はとても楽しくやりがいのあるものです。その意味では、自衛官という職業は、外交官にも負けない国際的な仕事だと思います。

タイ陸軍士官学校短期留学(防衛大3学年時)
タイ陸軍士官学校短期留学(防衛大3学年時)
遠洋練習航海(チリ海軍士官とパナマ運河にて)
遠洋練習航海(チリ海軍士官とパナマ運河にて)
米海軍兵学校連絡官勤務(米海軍士官候補生達と日本大使館にて)
米海軍兵学校連絡官勤務(米海軍士官候補生達と日本大使館にて)
在英国防衛駐在官勤務(女王誕生記念パレード時)
在英国防衛駐在官勤務(女王誕生記念パレード時)
在英国防衛駐在官勤務(米国およびカナダ海軍武官夫妻と)
在英国防衛駐在官勤務(米国およびカナダ海軍武官夫妻と)

「1か月が過ぎました。」


 昨年12月に着任し、早1か月が過ぎました。これまで、多くの方々に着任の御挨拶をさせていただきましたが、杉本県知事を始めとした皆様から暖かい激励の御言葉をかけていただきました。誠にありがとうございました。着任当初の年末の降雪(私にとっては人生最大の「大雪」(!?)でした。)には驚きましたが、今では雪にも慣れ、滑って転ぶこともなくなりました(笑)。
 この1か月、勤務している福井市内をブラブラと歩いて、福井の豊かな歴史を実感しました。例えば、先日はジョギング中に、橋本左内の生家跡に偶然辿り着きました。歴史の授業で習った安政の大獄や、昨年の大河ドラマを想い起こし感慨深くなりました。橋本佐内の主である福井藩主であった松平春嶽も四賢候として名高く、幕末・明治維新という日本の歴史のターニングポイントで大きな影響力があった人物たちを育んだのがここ福井であったのだと実感しました。このことは、今の福井の高い教育水準にも繋がっているのかなとも考えたりしています。そのような素晴らしい福井で、私は福井県の皆様と自衛隊の懸け橋となれるよう誠心誠意、勤務していきます。コロナ禍での制約はありますが様々な機会を通して皆様とお会いできるのを楽しみにしております。
 この「本部長の部屋」では、自衛隊福井地方協力本部の活動だけでなく、私自身の今までの自衛官としての経験などを紹介させていただき、皆様の自衛隊に対する御理解の一助となればと考えています。引き続き、皆様のご協力とご支援を賜りますようお願い申し上げます。

2021年12月24日 着任挨拶


自衛隊福井地方協力本部のホームページにアクセスしていただき、大変ありがとうございます。年の瀬の慌ただしいなか、12月24日付で福井地方協力本部長に着任しました野間です。福井での勤務は初めてで、海上自衛官が福井県内で勤務できる機会が非常に限られていることもあり、ここ福井で勤務できるご縁をありがたく感じております。
勤務に際しては、県民の皆様と防衛省・自衛隊の窓口となり、県民の皆様のご期待に沿えるよう尽力してまいりたいと考えておりますので、皆様のご協力とご支援を賜りたく、宜しくお願いいたします。