父基分トリビア 第5回 命のバトン 海上自衛隊のヘリポートにいつもと違うヘリコプターが来ている、あれはなんだ!?と島内がざわついているという話を聞きましたので、調査してみました。 令和6年7月1日 、SH-60K(救難仕様)が硫黄島に配備されました。 SH-60Kは海上自衛隊の主力ヘリコプターで、アメリカのシコルスキー社が開発したSH-60B「シーホーク」艦載ヘリコプターをベースに日本独自の改良を施して制式化したSH-60J哨戒ヘリコプターの発展型です。 SH-60K(救難仕様)は、航空救難や災害派遣などで捜索救助を行ったり、人員ならびに物資を運んだりするために、音波探知機(ソナー)の吊下げ装置などを取り外して機内スペースを確保しているほか、増加燃料タンクを設置して航続距離や滞空時間を延伸しています。 SH-60K(救難仕様)配備に伴い除籍となるUH-60Jは、洋上での遭難航空機搭乗員の捜索・救助を主任務とするため、赤外線暗視装置、航法気象レーダーなどを装備し、普段は洋上での急病船員の救助や離島などからの急患輸送に活躍してきました。 この小笠原諸島でも、UH-60Jによる急患輸送を数多く行ってきました。 小笠原諸島は、島内に診療所しかないため、対応しきれない急患が発生した場合、東京都知事の要請に基づき、硫黄島航空基地に配備された救難ヘリコプターが出動し患者を輸送します。硫黄島から父島、母島へ、もう一度硫黄島に戻り航空機で厚木基地や羽田空港まで向かい、都内の病院へ搬送します。 それぞれが与えられた任務を全うし、命のバトンを繋ぎます。 「私は、海上自衛隊に入隊し、30年余り勤務してきました。海上自衛官として護衛艦に搭載する航空機のパイロットになりたいと思い航空学生を受験し、念願かなってパイロットになることができました。 その後は毎日の厳しい訓練を経て機長資格を取得し、遥か洋上での様々な任務に従事してきました。その中で航空救難や大規模な災害派遣などにも従事してきましたが、どのような任務であっても変わらないことは人の命を守るということです。 時には暗夜や悪天候などの厳しい環境で飛行することもありましたが、国民の生命を守るという強い使命感のもと、一心に技量を高めることで日々の任務を完遂することができました。 まもなくUH-60Jは除籍することとなりますが、後継となるSH-60K(救難仕様)は極めて優れた航法・捜索能力を持っており、捜索救難や急患輸送等の任務においても今まで以上に活躍できるものと考えます。 新しい機体にしっかりと任務を引き継ぎ、命のバトンを繋いでまいります。」 とあるパイロットだった方の言葉です。 救難ヘリコプターはUH-60JからSH-60K(救難仕様)へと入れ替わり、そのバトンを渡します。しかし、私たちのやることは変わらず今後も続いていきます。雨の日も風の日も、暑い中でも夜中でも、みなさんの笑顔がこの先もずっとずっと続くようしっかりと訓練を積んでいきます。強い意志をもって取り組んでまいります。 絶対に命のバトンを途切れさせることはないということをお約束し、調査結果とさせていただきます。 それでは次回をお楽しみに! 第4回 歴史からの学びと歩むべき未来 東京から南へ約1000kmのこの島は、透明感と深みのあるボニンブルーと呼ばれる海に囲まれており、その唯一無二の価値は島を訪れるたくさんの人々を魅了し続けています。しかし、ひとたび歴史に目を向けてみると、艱難辛苦を乗り越えて、今が築かれているという現実が浮かび上がってきます。今回は、現在もなお多くの戦災の爪痕を残す、その歴史に迫ってみたいと思います。 当時小笠原島と呼ばれた島が公式に日本の領土となったのは、1876(明治9)年のことでした。この小笠原島が軍事的関心事となるのは、日露戦争後のことです。南洋方面への前進基地として、小笠原島に着目し、1909(明治42)年から第2艦隊(司令長官島村速雄中将)を派遣し、父島の地勢・錨地・望楼適地などが調査されました。 1914(大正3)年7月、第1次世界大戦が勃発し、8月に日本は日英同盟国として、ドイツに宣戦布告し大戦に参加しました。軍事関係の主要な事象については以下のとおりです。 太平洋戦争の末期、日米軍の攻防の舞台となった小笠原諸島は、米軍から激しい攻撃を受けました。 1944(昭和19)年4月7日東京都は「島嶼住民引揚実施要綱」を決定し小笠原島に電報指示しました。小笠原では、この電報指示を受ける以前の4月4日、定期船芝園丸で711人を始めとして、陸海軍に軍属として徴用された島民825人を除き、6886人が内地へ引揚げることになりました。 1944(昭和19)年6月15日、父島・母島・硫黄島が初空襲を受けました。そして同年8月31日16時30分頃、当隊基地内にある海軍父島航空隊壕の前で米軍機による二見湾内の船舶に対する空襲の様子を見ていた陸海軍兵の集団に爆弾が直撃しました。この爆撃により、海軍准士官1名、下士官兵27名(内搭乗員10名)、陸軍24名の合計52名が戦死、海軍7名(内搭乗員1名)が重症を負っています。 当隊では、爆撃を受けた壕で毎年慰霊祭を行い、大戦で亡くなられた英霊に対し、1分間の黙とうを捧げ、慰霊碑に参拝を行っています。 また、普段から環境整備を行い、周辺の美化に努めています。 1945(昭和20)年8月15日、ついに終戦を迎え、1946(昭和21)年10月、欧米系島民にのみ父島への帰島が許され、男性66人、女性63人、計129人(34世帯)が父島に帰島しました。 1947(昭和22)年7月、小笠原硫黄島帰島促進連盟が結成され、帰島への努力が続けられました。そして、その他の島民が生活を目的に帰島できるようになったのは、施政権が日本に返還された1968(昭和43)年6月26日以降となるのです。 返還後は、戦後23年間にも及ぶ空白期間を埋めるために、国の特別措置法のもと、様々な公共事業が推進され、新しい村づくりが進められています。 また、2011(平成23)年6月には世界自然遺産にも登録され、自然との共生が図られています。 いかがだったでしょうか。私たちは、返還から50余年が経過した現在、この国を命を懸けて守ろうとした先人の方々の思いを胸に、前を向き歩むべき未来を見据え、一歩一歩着実に進んでいきたいと思います。 それでは次回をお楽しみに! 第3回 小笠原海洋センターについて 毎年5月から10月にかけて、ウミガメが基地内にまで侵入し、穴を掘り、卵を産み落としていきます。そんなカメたちをいつも優しい眼差しで見守っている人たちがいます。小笠原海洋センター(通称:カメセンター)の方々です。 昼夜を問わず活動し、なぜそれほどまでに情熱を注げるのか、カメのことに一生懸命になれるのか、どうしても知りたくてカメセンターに突撃してみました。 カメセンターは、数名のスタッフとボランティアの方々で運営、活動しているそうです。 ボランティアに参加している方々は、大学生や大学卒業後就職するまでの間の方、企業に就職し、ボランティア休暇を取って参加している方、他にもリピーターだったり、他の地域で同じようにボランティアに参加し、父島にたどり着いた方などがいるそうです。 また、みんなが同じ施設で、一緒に寝泊まりしているそうです。テレビはありませんが、目の前に海があり、いろんな地域から集まって、男性も女性も一緒に共同生活を送る、内地ではなかなか体験できないような、特別な時間を過ごせることが大きな刺激になっているそうです。 ボランティアの方々は毎日たくさんの刺激を受けていますが、陸に上がってくるカメを見学するときは、なるべく刺激しないようにしなければなりません。カメは動く光が苦手だそうです。夜、海岸を歩く際に暗くてけがをするおそれがある場合は、赤いライトを使用し、なるべく自分の足元だけを照らすようにしてください。また、急にカメに出くわしても大声を出したりせず、カメの視界に入らないよう優しく見守ってください。 陸に上がってくるカメはすべてメスですが、オスについては、普段は主に紀伊半島南部から九州南部の海域で餌を食べて生活しており、3月から5月頃、繁殖のため小笠原近海にやってきて、メスの産卵を待たずしてまた戻っていくそうです。ボランティアで父島にきて、出会ってめでたくカップルになった方々は、一緒に内地に戻れるといいですね。 若干脱線しましたが、10年ほどカメセンターで勤務されているスタッフの方に、なぜそこまで情熱を注げるのか、続けられる秘訣はなにか聞いてみたところ、ちょっとだけ考えて、「好きだから。」という答えが返ってきました。 「カメのことが好きだから。ここで出会えた人たちのことが好きだから。父島が好きだから。」 優しい中にも強く芯のある眼差しでした。いつも基地の前で昼夜を問わずカメを見守っている眼差しと同じでした。 どんなに暑い日が続いても、急なスコールに見舞われても、黙々と、何年も同じことを続けていくということは本当に大変なことだと思います。自分のことでもなく、自分のペースでできるわけでもないのでなおさらです。 でも、その言葉と眼差しにとてもとても納得することができました。 カメセンターのスタッフの方、素敵な話を聞かせていただきありがとうございます。 カメセンターは二見港のちょうど向かい側、製氷海岸の奥にあります。施設案内や活動内容は小笠原海洋センターホームページに載ってますので詳しくはそちらをご覧ください。 いかがでしたでしょうか。 最後に、そんなスタッフの方がこの島で、今までで一番感動した、心に残る思い出は「火球のような流れ星」だそうです。 カメじゃないのか・・・ それでは次回をお楽しみに! 第2回 B-しっぷについて 父島二見港から父島基地分遣隊に向かう途中に「Bーしっぷ」という建物があるのはご存知でしょうか。この「B-しっぷ」で、5月でもないのに「こいのぼり」のようなものがあがる、しかもそれは鯉ではなくクジラらしいという噂を耳にしたので居ても立っても居られなくなり、建物の中には何があるのか?という疑問と合わせて調査するべく「B-しっぷ」に向かいました。 B-しっぷの中には・・・その1 小笠原ホエールウォッチング協会(Ogawawara Whale Watching Association)OWAがあります。 1989年にホエールウォッチングの振興と小笠原の発展に寄与することを目的として発足しました。 主な仕事内容はクジラの観測です。日本で初めて商業的なホエールウォッチングを開始しました。ウェザーステーション展望台から毎朝8時~30分間の目視観測・調査をおこないます。 ホエールウォッチングの時期は12月~翌年5月頃。クジラの「のぼり」を掲げる時期については、その年に「ザトウクジラ」の来遊が確認された日からです。もし、12月のシーズンより前にクジラを発見した方がいましたら、OWAに連絡をしてみてはいかがでしょうか?あなたがその年の第1発見者になるかもしれませんよ!クジラは遠浅にいることが多いそうです。 続いて、クジラの行動パターンについて紹介します。 Blow(ブロー) 潮吹き、クジラの息継ぎです。クジラは哺乳類なので肺呼吸をしています。海面に出て息を吹き出す際に、体についている海水や鼻の周りの海水が、ふき飛ばされているので、海水を吐き出しているわけではありません。潮吹きの大きさや形はクジラの種類によって決まっているようです。 ザトウクジラは真っすぐ上に潮を吹きますが、マッコウクジラは頭の角から斜め前に出します。見る人が見れば、遠くから見てもクジラの種類が分かるらしいです・・・。ちなみに私は遠くからでも島民か観光客かの違いがわかります。 Breeching(ブリーチング) クジラはブリーチングと呼ばれるジャンプをします。実はなぜクジラがブリーチングをするのかという理由については、はっきりと分かっていません。ただ単に遊んでいるのか?体に付いている虫等を落としているのか?仲間に信号(合図)を送っている等の諸説があります。 ホエールウォッチングでこのアクションを見れる確率は15%~20%と言われています。私の体脂肪率より若干高めです。 B-しっぷの中には・・・その2 小笠原村観光協会があります。父島への行き方、宿泊、各種ツアーの案内等のサポートをします。小笠原村観光協会のホームページには、人気の観光スポットや郷土料理、特産品の紹介があり旅行を計画する際にはとても参考になります。 父島の来島には「おがさわら丸」の予約は必須ですが、同時に宿の予約も忘れてはいけません。来島する方の中には予定を立てず、行き当たりばったりで来る強者もいるとのことですが・・。父島では野宿が禁止されています。宿泊施設が満室になる前にまずは宿の確保をしましょう。 最悪、宿泊場所がない場合は小笠原村観光協会に連絡をしましょう。何とかしてくれるかもしれません。(あまりしてこないでねby小笠原スタッフ) いかがでしたでしょうか?これであなたも「B-しっぷ」マスターと呼べるでしょう。 (B-しっぷの「B」はなにかわかりませんが・・・) 父島にはまだ知らないことや父島ならではの魅力がたくさんあります。今後も調査を続けていきます。 次回お楽しみに! 第1回 敬礼について 敬礼のことが気になって夜も眠れないという話をよく耳にしますので、父基分の総力を結集し、敬礼について調査してみました。 一言で「敬礼」といっても、自衛隊における敬礼の種類には、各個の敬礼、隊の敬礼、警衛隊の敬礼、歩哨等の敬礼、自衛艦その他の船舶の敬礼及び旗の敬礼と様々あります。 また、旧海軍省教育局発行の「新兵教育用参考書」によると、「軍艦の敬礼は大砲を用い、軍隊の敬礼は士官の剣と兵員の銃を用い、武器を持たない者の敬礼は、人体ただ唯一の武器である「眼」と「手」を用いる。」とされています。 今回はこの「眼」と「手」を用いる敬礼動作である、「挙手の敬礼」にスポットを当ててみたいと思います。 自衛隊をイメージすると、ほふく前進と二分されるほどメジャーである「挙手の敬礼」の敬礼動作は、「右手をあげ手のひらを左下方に向け、人さし指を帽のひさしの右斜め前部にあてて行なう。」と規定されています。 諸説ありますが、イギリスでは、王・女王に騎士が謁見をする際、自らの額に右手の甲を当てて、手のひらに武器を握っていないことを証明するために行われていたそうです。 旧海軍での敬礼の意義は、「相手が一歩踏み込めば、直ちに倒さんとする精神と姿勢をとることであり、威風をもって敵を圧する態度でなければならない。」と書かれており、若干のニュアンスの違いが感じられます。 どちらにしても「敬礼」とは、真剣さをもって接するものであり、心を通わす手段とも言えます。また、敬礼を実施する上で最も重要なことは、相手を尊敬する気持ちであり、その気持ちを表すのは態度、形式であることから、態度はもちろん形式をおろそかにしてはいけません。指の末節まで神経を行き届かせた端正な敬礼を実施していきたいと思います。 自衛隊における「挙手の敬礼」は、「右手をあげ手のひらを左下方に向け、人さし指を帽のひさしの右斜め前部にあてて行なう。」となっているのですが、陸自、空自と海自では若干の違いが見られます。 (向かって左が陸自、空自の敬礼、右が海自の敬礼) 陸自、空自は地面に対し、二のうでを体の真横で水平にするのに対し、海自においては45度前方で水平にします。これは、狭い艦内を想定し、すれ違う際に突起物にぶつかったり、邪魔にならないようにするためです。思いやりのかたまりです。 さらに、私たちはいついかなるときも欠礼することのないように備えています。たとえ雨が降っていても上官を見落とさないように、また、右手を空けておけるよう傘をさしません。敬礼に備え、雨もよけれるように日々訓練を積んでいます。 敬礼について、調査結果は以上となります。いかがでしたでしょうか。これで今夜からぐっすり眠ることができるのではないでしょうか。 最後におさらいです。挙手の敬礼動作は、 「右手をあげ手のひらを左下方に向け、人さし指を帽のひさしの右斜め前部にあてて行なう」 (`・ω・´)ゞ 左手じゃないんだけど・・・ この絵文字には全自衛官がモヤモヤしており、睡眠の妨げになってます・・・ それでは次回をお楽しみに。