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第I部 わが国を取り巻く安全保障環境

2 湾岸地域情勢

1 JCPOAをめぐる関係国の動向

2015年7月14日に発表されたイランの核問題に関する最終合意「包括的共同作業計画」(JCPOA:Joint Comprehensive Plan of Action)を受け、同年7月20日にはJCPOAを承認する国連安保理決議第2231号が採択された。本合意においては、イラン側が濃縮ウランの貯蔵量及び遠心分離機の数の削減や、兵器級プルトニウム製造の禁止、IAEAによる査察などを受け入れる代わりに、過去の国連安保理決議の規定が終了し、また、米国・EUによる核関連の独自制裁の適用の停止又は解除がなされることとされた1。2016年1月16日、IAEAがイランによるJCPOAの履行開始に必要な措置の完了を確認する報告書を発表したことを受け、米国はイランに対する核関連制裁を停止し、EUは一部制裁を終了したほか、安保理決議第2231号に基づき、イランの核問題にかかる過去の国連安保理決議の規定が終了した。

その後も、IAEAは、イランが合意を遵守していることを累次確認していたが、トランプ米大統領は2018年5月、現在の合意では不十分として合意からの離脱を表明した。同年11月には、制裁を全て再開2するとともに、新しくより包括的な合意を行う用意があるとし、イランに交渉のテーブルに着くことなどを要求した。

以降、トランプ前政権は、イランに対して最大限の圧力を加えるとして、累次にわたり経済制裁を科した。また、米国は、安保理決議第2231号に基づき2020年10月に解除される対イラン武器禁輸措置を無期限延長する決議案を安保理において提議したが、ロシアや中国が反対したほか、英仏独からも支持を得られず、否決された。

一方、イランは米国による制裁の再開に反発し、2019年5月以降、JCPOAから離脱するつもりはないとしつつ、JCPOAの義務履行措置の停止を段階的に発表した。2020年1月には最終段階として、濃縮能力に関する制限遵守義務を放棄する旨発表した。こうした動向について、英仏独はJCPOAに規定される紛争解決メカニズムに基づきJCPOA合同委員会に付託するとともに、イランがJCPOAに基づく義務を再び完全に履行することを求めた。これに対しイランは核合意の問題が国連安保理に通知された場合、NPTからの脱退も検討する姿勢を示すとともに、欧州が合意を履行すれば、イランも合意遵守に戻ると表明した。

こうした状況の中、イラン国内で核開発に関連する建物や関係者が被害を受ける事象が発生した。2020年7月、ナタンズに所在する核関連施設で火災と爆発が起き、遠心分離器に関連する設備の一部が損壊した。また、同年11月、イランにおける核開発の中心人物とも目されていた科学者がイラン国内で襲撃を受け死亡する事件が発生した。イランはイスラエルの関与があったと非難しているが、イスラエルはその有無について明言していない。同年12月、イラン国会は、政府及びイラン原子力庁にウラン濃縮活動の拡大などを義務付ける法律を成立させ、2021年1月、イラン政府はテヘラン南部のフォルドの施設において20%の濃縮ウランの製造を開始したと発表した。そのうえで、同政府は、関係国がJCPOAに基づく義務を遵守し、イランに対する制裁が解除されれば、イランも合意義務の履行に復帰するとの立場を改めて表明した。

テヘラン郊外で襲撃されたイランの核科学者ファクリザデ氏が搭乗していた車【AFP=時事】

テヘラン郊外で襲撃されたイランの核科学者
ファクリザデ氏が搭乗していた車【AFP=時事】

2021年1月に新たに就任したバイデン米大統領は、イランが核合意の厳格な遵守に戻るのであれば、米国はさらなる交渉の開始点として合意に復帰するとの立場を示し、同年4月、米国・イラン間で核合意に関する間接協議が開始された。協議開始後、ナタンズの核関連施設で爆発が発生したが、イラン政府は数日後、ナタンズで60%の濃縮ウランの製造を開始すると発表した。

2 湾岸地域における軍事動向

JCPOAをめぐる状況が変化する一方で、湾岸地域では、軍事的な動きを含め様々な事象が生起している。2019年5月以降、米国は、自国の部隊や利益などに対するイランの脅威に対応するためなどとして、空母打撃群や爆撃機部隊などの派遣について発表した。こうした中、同年6月、イランはホルムズ海峡上空の領海で地対空ミサイルにより米国の無人偵察機を撃墜したと発表した。米国は撃墜された事実を認めたが、国際空域であったと主張するとともに、トランプ米大統領が報復攻撃を実行寸前で中止したことを明らかにした。同年7月には、米国はホルムズ海峡上空で米強襲揚陸艦が防衛的な措置としてイラン無人機を撃墜したことを明らかにした。

さらに、同年5月、サウジアラビア中部の石油パイプライン施設が無人機による攻撃を受け、原油輸送が一時的に停止した。また、同年9月には、サウジアラビア東部の石油施設が攻撃を受け、同国の原油生産量が一時半減した。これらの攻撃については、当初、イランが支援しているとされるイエメンの反政府武装組織ホーシー派が犯行声明を発出したが、米国などは9月の攻撃についてイランの関与があったと指摘している。一方で、イランはこれを一貫して否定している。

こうした事態を受け、米国は同年5月以降、中東の一部地域への米軍の展開兵力を拡大し、イランへのけん制を強めている。例えば、同年7月、2003年以来およそ16年ぶりにサウジアラビアに部隊を駐留させるとともに、9月及び10月に防空ミサイル部隊などの追加部隊の派遣を発表した。

2020年4月には、ペルシャ湾においてイラン革命ガードの船舶が米軍の船舶に異常接近する事案が発生した。米国は危険な行為としてイランを強く非難したほか、米国家地理空間情報局が、武装船舶が米海軍艦艇から100メートル以内に接近した場合、脅威として解釈され、合法的な防衛措置の対象となる可能性があるとの勧告を出した。また、同月には、革命ガードによる初の軍事衛星の打ち上げが行われた。これに対して米国は、衛星の打ち上げ技術は弾道ミサイルに転用可能であるなどとして、宇宙開発が平和目的であるとの従来のイラン側の主張を否定した。さらに、同年7月にはイラン民間旅客機がシリア上空で米国の戦闘機と接近して負傷者が出る事案が発生した。米国は安全な距離を保ったうえでの目視による確認行為であったと主張したが、イランは国際法に違法する行為であるとして米国を非難した。

一方、2019年10月以降、イラクにおいて米軍駐留基地などに対する攻撃が多発した。同年12月にはイラク北部の基地にロケット弾が着弾し、米国人1名が死亡した。米国は、この攻撃にイランが関与しているとし、イランが支援しているとされるシーア派3武装組織のひとつである「カターイブ・ヒズボラ」の拠点を空爆した。さらに、2020年1月、米国は、さらなる攻撃計画を抑止するためとして、その組織の指導者とともにイラク国内で活動していたイラン革命ガード・コッヅ部隊のソレイマニ司令官を殺害した。米国は、従来から海外でテロ組織を支援しているとしてコッヅ部隊の活動を問題視しており、2019年4月にはイラン革命ガードをテロ組織に指定していた。イランは、ソレイマニ司令官殺害に対する報復として、イラクにある米軍駐留基地に弾道ミサイル攻撃を行った。しかし、この攻撃による死者は発生しなかったとされており、また、イランのザリーフ外相は、イランは相応の報復措置を完了し、さらなる緊張や戦争を望まない旨表明した。また、トランプ大統領も同日、イランに対して軍事力を行使したくない旨を述べるなど、米国・イラン双方ともに、これ以上のエスカレーションを回避したい意向を明確に示した。

しかし、その後もイラク国内の米国権益を標的とした事案が相次ぎ、2020年3月には米軍駐留基地にロケット弾が着弾して米軍人2名が犠牲となった。米軍はさらなる攻撃を阻止するためなどとして、再びカターイブ・ヒズボラの拠点を空爆した。こうした状況の中、同年6月、米国とイラクとの間で戦略対話が開始された。その中で、イラク政府はその国に駐留する米軍を含むISIL有志連合の要員及び外交施設を防護する義務を確認するとともに、両国でイラク駐留部隊の縮小に関する協議を進めていくことなどが合意された。そして、同年9月、5,200人の駐留米軍が3,000人に削減され、さらに2021年1月までに2,500人に縮小された。

こうした米国及びイラク政府の取組にもかかわらず、同様の攻撃は収まらず、バイデン米政権発足後の2021年2月にも米軍兵士1名などが負傷したことを受け、同政権は、カターイブ・ヒズボラを含むイランの支援を受ける民兵組織が使用しているとされるシリア東部の施設を空爆した。

3 湾岸地域の海洋安全保障

2019年5月以降、中東の海域では、民間船舶の航行の安全に影響を及ぼす事象が散発的に発生している。具体的には、2019年5月、オマーン湾においてタンカー4隻(サウジアラビア船籍2隻、アラブ首長国連邦・ノルウェー船籍各1隻)が攻撃を受け、また、同年6月にはオマーン湾でわが国の海運会社が運航するケミカルタンカー「コクカ・カレイジャス」を含む2隻の船舶が攻撃を受けた。一連の攻撃について、米国などはイランによる犯行であると指摘する一方、イランは一貫して関与を否定している。なお、「コクカ・カレイジャス」への攻撃については、関係国などから入手した情報、船舶の被害状況についての技術的な分析、関係者の証言などを総合的に検討した結果、わが国としては、本事案における船舶への被害は、吸着式機雷4により生じた可能性が高いとしている。さらに、2021年1月、イラク沖に所在していたリベリア船籍のタンカーに吸着式機雷とみられる爆発物が設置されているのが発見され、イラク軍当局に除去された。本件については、犯行声明は出されておらず、イラク当局による調査が進められている。同年2月には、イスラエル企業が所有する貨物船がオマーン湾を航行中に爆発し、船体が損傷したと報告された。イスラエルはイランの関与を指摘したが、イランは否定している。同年3月から4月にも、イラン及びイスラエル関連船舶の爆発・攻撃事案が相次いで発生した。

このように、中東地域において緊張が高まる中、各国は地域における海洋の安全を守るための取組を継続している。米国は2019年7月、海洋安全保障イニシアティブを提唱した後、国際海洋安全保障構成体(IMSC:International Maritime Security Construct)を設立して、同年11月にその司令部がバーレーンに開設された。IMSCには、米国に加え、英国、サウジアラビア、UAE、バーレーン、アルバニア、リトアニア及びエストニアの7か国が参加している(2021年3月現在)。また、欧州においては、2020年1月、フランス、オランダ、デンマーク、ギリシャ、ベルギー、ドイツ、イタリア、ポルトガルの欧州8か国がホルムズ海峡における欧州による海洋監視ミッション(EMASOH:European Maritime Awareness in the Strait of Hormuz)の創設を政治的に支持する声明を発表し、これまで、フランス、オランダ、デンマーク、ベルギー及びギリシャがアセットを派遣している。

その一方で、イランは、2019年9月、ペルシャ湾及びホルムズ海峡の安全を維持する独自の取組として、「ホルムズの平和に向けた努力(HOPE:HOrmuz Peace Endeavor)」構想を提唱し、関係国に参加を呼びかけた。また、イランは、同年12月、海上交通路の安全を確保するためなどとして、オマーン湾などで中国及びロシア海軍と初の3か国合同軍事演習となる「海洋安全ベルト」を実施した。2021年2月にも、イランとロシアは、インド洋北部で合同軍事演習「海洋安全ベルト」を実施した。

わが国としては、引き続き、湾岸地域情勢をめぐる今後の動向を注視していく必要がある。

1 JCPOAにおけるイランに対する主な核関連の制約としては、ウラン濃縮関連では、ウラン濃縮のための遠心分離機を5,060基以下に限定すること、ウラン濃縮の上限を3.67%にするとともに、保有する濃縮ウランを300kgに限定すること、プルトニウム製造に関しては、アラク重水炉は兵器級プルトニウムを製造しないよう再設計・改修し、使用済核燃料は国外へ搬出すること、研究開発を含め使用済核燃料の再処理は行わず、再処理施設も建設しないことなどが含まれる。ケリー米国務長官(当時)によれば、本合意により、イランのブレークアウトタイム(核兵器1個分の核物質の取得にかかる期間)は、JCPOA以前の90日以下から、1年以上になる。また、JCPOAはあくまで核問題にかかる合意であるため、国際テロ、ミサイル、人権問題などにかかる制裁は停止又は解除されるものに含まれない。

2 具体的には、イラン政府による米ドル購入の禁止、イランからの石油・石油製品・石油化学製品の購入の禁止、イラン中央銀行などの金融機関との取引の禁止などが含まれる。2019年5月には、一部国・地域への石油などの購入の禁止にかかる適用除外措置も廃止された。

3 イスラム教の二大宗派のひとつ。スンニ派との分裂は、イスラム教を興した預言者ムハンマド(632年没)の後継者(カリフ)をめぐる考え方の違いに由来する。現在、シーア派は、イランで国教に定められているほか、イラクでも約6割を占める。最大宗派であるスンニ派は、中東・北アフリカ地域のイスラム教国の大半で多数を占める。

4 水中武器の一種。一般的に、船舶の航行を不能にすることなどを目的として、船体などに設置して起爆させる。