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Provincial Cooperation Office TOYAMA

自衛隊富山地方協力本部

本部長略歴

H7.3   第13戦車大隊(日本原)

H11.3  第13戦車中隊(日本原)

H12.3  第10戦車大隊(今津)

H14.3  第10偵察隊(春日井)

H15.8  指揮幕僚課程(目黒)

H17.8  第13特科隊(日本原)

H18.3  第14戦車中隊長(日本原)

H20.3  第7師団司令部第3部(東千歳)

H21.8  陸上幕僚監部人事部厚生課(市ヶ谷)

H24.3  北部方面総監部防衛部防衛課(札幌)

H26.8  幹部高級課程、統合高級課程(目黒)

H27.8  第7師団司令部第3部長(東千歳)

H29.8  第11普通科連隊長(東千歳)

R1.8   教育訓練研究本部訓練評価部(目黒)

R2.3   評価支援隊作戦評価分析第2科長(北千歳)

R4.12  現職(富山)

富山地本本部長

本部長 1等陸佐 宮内 雅也

本部長の挨拶

~7月のあいさつ~

皆様こんにちは。当ホームページをご覧いただき、ありがとうございます。  今回は、北海道千歳市に所在する第7師団司令部防衛班長勤務時のお話で、賛否両論あるかもしれませんが、物事の優先順位とリスク管理をしっかりしましょうというものです。  第14戦車中隊長を下番した後、平成20年3月末から上記防衛班長として1年4カ月勤務しました。着任当初から7月に予定された洞爺湖サミットの支援準備で多忙な日々を送る毎日でしたが、着任後に非常に驚くことがありました。それは、山菜取りで行方不明になった民間人の方の捜索のために災害派遣要請があったことです。  北海道では3月下旬頃以降、行者にんにくや千島笹の若竹を始め、各種野草の山菜を取るために多くの方が山野に行かれますが、毎年のように道内各地で行方不明者の事件が発生しており、その大半がご老人です。この時期は、ちょうどヒグマが冬眠から目覚める時期でもあり、千島笹の若竹は冬眠明けのヒグマの大好物でもあり山野に入るのは非常に注意が必要です。ちなみに人間はヒグマには絶対に敵いません。それは自衛官であってもです。  勤務時にその派遣要請を聞いたとき。何かの冗談だろ、それは警察の仕事だろ、と思いましたが、いつの頃からか不明ですが生命の危機が迫っているとの理由で、警察・消防のみならず自衛隊に対しても災害派遣要請が発出されるようになり、春の恒例行事のようになっていました。  捜索の結果、発見できないことも多少あり、その場合は1週間程度(自衛隊は概ね3日間の支援)捜索を続けた後に警察からご家族に説明して捜索中止に至るのですが、思いを馳せることは、山菜と生命とどちらが大事なのか・優先すべきなのか、それでもリスクを冒すのならば本当に行方不明になった際の処置を行ったのかということです。もちろん趣味や楽しみではなく生活の糧として山菜を採取している方もおられることでしょう、また大半の方が何らかの処置をして山野に入っていることでしょうが、我々自衛隊にとっては結果がすべてであり過程は一つ間違えば単なる言い訳になりかねません。  今回は山菜取りを事例にあげましたが、物事には適時性も含めて優先順位を考慮して判断することが必要です。それでもあえてリスクを選ばざるを得ないのならば、そのためにどういう準備を事前にしなければならないのかということを考えてみてはいかがでしょうか。時にはリスクの受容度から物事を判断することもあるものです。

~6月のあいさつ~

皆様こんにちは。当ホームページをご覧いただき、ありがとうございます。  今回は、中隊長当時に参加した競技会のお話で、信念をもって継続していけば機会は必ず訪れ努力は実を結ぶというものです。今回も少し長くなりますが最後まで見ていただければ有難いです。  前月のコメントで触れたように、私は平成18年3月から第14戦車中隊の初代中隊長として2年間勤務しました。戦車部隊のお家芸は今も昔も戦車射撃であり、部隊は戦車射撃訓練を中心にたゆまぬ努力をしていくものです。しかしながら、人(他の隊務からの影響)、モノ(特に弾薬)、場所(射撃する演習場の配当)の関係でなかなか思い通りに訓練できないものですが、どの部隊でも創意工夫して何とかしているものです。  中隊長になって以降、小隊長時代の反省もあり、戦車部隊の本来の姿を追求したく、人車一体の精神涵養のため、乗員と使用する戦車を固定して編成(これが簡単そうでできない)するとともに、毎日課業開始前の時間を使って射撃予習(実弾を使用しない射撃動作の訓練)を改めて基礎から段階的に進めていきました。  人は何かしらの動機や目標がないと努力を継続することは難しいものですが、新編部隊の立ち上げということも相まって、指導組織(指導幹部、複数の指導陸曹、砲手・操縦手・装填手の役職ごとの長)を編成するとともに、部隊のお家芸・部隊の神髄をあくまで追求せんと指導を繰り返していきました。この際、毎朝の射撃予習に1分でも費やすために朝礼場所を当該訓練を実施している場所近傍に設定したり、終礼後には指導組織全員でほぼ毎日ミーティングを実施させる等、乗員自らが何が課題でどう改善していくかを考えさせる気風を醸成していきました。また、最低限月に一度は実弾射撃訓練を設定できるよう年度当初に計画し概ね順調に進捗していきました。  しかしながらこの年の9月に玖珠駐屯地武器亡失事案が発生、10月に予定していた旅団演習の都合で同駐屯地に中隊の戦車の大半を一時的に保管していましたが、捜査の関係で駐屯地内への出入りが厳しく制限され戦車に触れることすらできなくなり旅団演習も中止になりました。この間、実弾射撃は当然のこと戦車を使った訓練が全くできない状況が12月頃まで続き翌年1月にようやく日本原駐屯地にも全車両を戻すことができ精神的にも辛い時期を過ごしたことを覚えています。  このような中、中部方面隊で勤務されていた機甲科職種の某将官(のちの陸上幕僚長)が戦車部隊の縮小に伴う練度低下を憂いて平成19年度に中部方面戦車射撃競技会が行えるよう尽力され、今津駐屯地に所在した第3戦車大隊が細部の計画を作り、平成20年2月にあいばの演習場で行われることになりました。14戦車中隊としてはアウェーでの戦いではありましたが、これまでの射撃予習を毎日繰り返すとともに、他の隊務や訓練を実施しつつ、実弾射撃訓練で成果を積み上げ、概ね3か月前に競技に参加する1コ戦車小隊を選抜し引き続き練成を継続していきました。  競技会は、今津・日本原駐屯地の他、駒門駐屯地からも参加があり、計8コ戦車小隊によるトーナメント方式で2日間にわたり行われました。中隊長自身も戦車に乗車して競技に参加できる機会を得ましたので、無線通信で命令を下達後に引き続き隊員を鼓舞できるよう激励を実施して初日の1回戦、2日目の準決勝戦を勝ち上がることができました。各対戦では先攻の戦車小隊が射撃後に無線通信で点数が放送され、次に後攻の戦車小隊が射撃後に点数と勝者が放送される流れで進められましたが、決勝戦先攻の14戦車中隊が射撃後に放送された点数を確認して後攻の13戦車中隊の点数を待っている状況でした。後攻の点数が放送された際に勝利したことを確認でき、歓喜の声と隊員の涙の中、演習場の中で胴上げをしてもらったことを今でも覚えています。  競技会終了の約1か月後に私は北海道に異動になり2年間の勤務を終えました。玖珠での事案を含め正直辛いことも多々ありましたが、上記のような幸運にも恵まれたとも思っています。必ず自ら求める機会がすぐに訪れることはないかもしれませんが、信念をもって継続していけば実を結ぶこともあることを感じていただけたら嬉しいです。

~5月のあいさつ~

皆様こんにちは。当ホームページをご覧いただき、ありがとうございます。
 今回は、新しい部隊の立ち上げのお話で、答えのない環境でも自ら答えを出して物事を進めていかなければならないというものです。少し長くなりますが最後までお読み下さい。
 私は平成18年3月の四国4県を管轄する第2混成団(当時)の第14旅団化に伴う第14戦車中隊(以下、14戦車)の新編に立ち合い初代中隊長として2年間勤務しました。最近は南西防衛の強化や即応機動連隊、戦闘偵察大隊等の新改編で部隊の立ち上げ等も多く見られますが、当時はこれほどの新改編は大事業でした。
 目黒駐屯地の幹部学校(現:教育訓練研究本部教育部)での指揮幕僚課程修了後、新編8カ月前に準備隊長として岡山県の日本原駐屯地に赴任しました。
当時も部隊の改編はありましたが、14戦車の新編が他と違うところは、駐屯地の整備計画で準備される施設等を除き、人もモノも施設の中身もゼロからのスタートだったことです。これは、第14旅団新編に伴い隷下部隊として10個の部隊が新編される中、14戦車を除く9個の部隊は母体となる部隊に人や装備や施設が増えて新編されましたが、14戦車だけは元々何もないところから誕生したということです。
 14戦車は、今津駐屯地(滋賀)や日本原駐屯地の戦車部隊の人員を中心に、北は北海道からも人員が充足されるとともに、他職種の人員も含めて編成されました。この際、適材適所の人員で部隊を編成するために正面からまっとうな調整をする他、階級がかなり上位の方を活用して紙面では書けないことも行ったりして人員を揃えたことを覚えています。(人員調整では嫌味を言われたり、後々文句を言われることもありました…)
また装備は、鹿追駐屯地(北海道帯広)と日本原駐屯地の戦車部隊からの74式戦車が管理換えされた他、その他の装備品は周辺各地の色々な駐屯地から管理換えされました。
当時、74式戦車はDタイプとEタイプといわれる2種類の戦車が全国にありましたが、当時の射撃訓練では対戦車榴弾を使用しており、その弾薬を射撃できるEタイプが装備の大半を占めないとお家芸である射撃訓練ができない状況の中、管理換えされた戦車は大半がDタイプでした。このため、方面総監部、13旅団司令部、第2混成団本部(当時)の高級幹部の方にも尽力していただき半ば強引にEタイプを7割程度まで引き上げたりもしました。
これら以外にも紆余曲折を経ながら平成18年3月下旬に部隊を新編することができました。私が所属していた同一駐屯地の第13戦車中隊からの支援や第13旅団のトップ二人が同じ機甲科だったという幸運もありましたが、何が正解か分からない中でも自らがこうしたい、最低でもこうしなければという目標を達成するため色々な手段を使って自ら答えを導き出していったものと思います。
これから社会に出る若い方々のみならず、現役の自衛官の方も公私を問わず必ず自分で答えを出さなければならない状況を迎えることになります。賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶと言いますが、経験から学ぶのが普通であり大半です。自ら答えを出すといえど一人の経験では限界があるものです。このため、色々な方からお話を聞くなり、ちょっとしたことでも自分で追体験してみるのが将来に備えて有効と思います。ご覧になられた方のご参考になれば幸いです。

~4月のあいさつ~

皆様こんにちは。当ホームページをご覧いただき、ありがとうございます。
 先般ホームページを一新しました。見やすさ、使いやすさ、分かりやすさ等を考慮し完全リニューアルしましたのでどうぞご活用して下さい。それもあり当コンテンツも月一のペースで更新していきますのでどうかご覧下さい。
 今回は、私の幹部候補生から初級幹部(2・3尉)時代のお話をさせて頂きますが、ご覧になられた方には、些細なことに一喜一憂(特に一憂)せず一度決めたことには努力を続けてもらいたいというお話です。
 私は関西の某大学から陸上自衛隊の一般幹部候補生として、福岡県久留米市にある幹部候補生学校に平成6年4月に入校し、自衛官人生をスタートさせました。大学生時代は特段の運動をしていたわけでもなく、国防の念にかられて入隊したわけでもなかったため、正直やっていけるかどうか不安に感じながら着校したことを覚えています。
 当時の教育期間は2月中旬までの約11カ月でしたが、実は5月中旬から約2カ月の間、右膝の前十字靭帯断裂と半月板損傷のため入院していました。退院後もリハビリが必要で普通に訓練に参加したり運動ができるようになったのは9月末頃だったと思います。その影響もあってか卒業時の成績は下から数えたほうが早かったです。卒業から約4か月後に小隊長としての教育に約8カ月参加しましたが、当時は陸曹から部内選抜して幹部になった方々と一緒に教育を受けており、元々の素地が違うため卒業時の成績はやはり下から数えたほうが早かったです。
 教育を修了し小隊長として勤務している間も、当初は分からないことばかりで戸惑うことも多く、父親と同年代の職人のような陸曹にも指示しなければならない中、周囲の色々な方に指導を受けながら、また教えてもらいながら勤務をしていたことを覚えています。当時の陸曹たちの信頼を得られたのは一年近くかかったのではないでしょうか。
 幹部自衛官の自衛隊人生においては、初級幹部時代の勤務がその後の勤務の指標ともなり大いに影響するものです。当時のいろいろな苦労があって今の私があるものと考えています。若い時の苦労は買ってでもしろというのは死語でしょうが、未来ある若者には一度自らが決めたことには努力を続け、答えのない世界でも自ら答えを出すような人生を送って頂きたいと思います。何かのご参考にして頂ければ幸いです。