

本部長 1等陸佐 宮内 雅也
~1月のあいさつ~
ホームページをご覧の皆様明けましておめでとうございます。 今年の元旦は晴れやかで穏やかな一日となりました。皆様にとって素晴らしい一年になることを心より祈念申し上げます。 今回は、昨年12月20日に決定された「自衛官の処遇・勤務環境の改善及び新たな障害設計の確立に関する基本方針」について紹介します。 これは、戦後最も厳しい安全保障環境に対応した防衛力抜本強化のためには自衛官の確保が至上命題として、自衛隊という組織の特殊性が適切に評価され、自衛官が誇りと名誉を感じることができる処遇を確立するとともに、多くの自衛官が50代で退職する中でも再就職や収入に不安を感じさせないようにすることが重要だとして、昨年10月以降、石破首相を旗振り役として4回の関係閣僚会議を通して具体化されたものです。中期的に検討すべきものもありますが、現在開催中の通常国会で来年度予算に反映していくものとなるでしょう。 概要としては、①自衛官の処遇改善として、特殊な業務に従事する者の手当の充実、予備自衛官の手当の引上げ、士の確保のための新たな給付金の創設や支給金の引上げ、自衛隊奨学制度の更なる拡充、叙勲範囲の拡大等があります。次に、②生活・勤務環境の改善として、営舎内居室の個室化、艦艇乗組員の生活・勤務環境や宿舎環境の改善、駐屯地等の通信環境の整備、公共交通機関が少ない基地等へのアクセス改善、仕事と育児・介護の両立、更なる女性活躍推進等です。また、③新たな障害設計の確立として、知識・経験等を活かした再就職先の拡充、若年定年退職後の国からの給付水準の引上げ等です。具体的な内容は、内閣府のホームページにありますので是非一度ご確認ください。 上記のことが具体的に実行されれば、今年度入隊される方を始め、陸海空士で勤務する若年層の隊員には処遇改善のため一定の効果があるものと思われます。自衛隊に関心のある方にも広報して頂ければ有難いです。 私自身は老兵は去るのみの時期を迎えつつありますが、若くして国家に奉職された若者たちの地位と名誉が今以上に高まっていくものと確信しております。
~12月のあいさつ~
皆様こんにちは。当ホームページをご覧いただき、ありがとうございます。 まもなく令和6年も終わろうとしていますが、皆様にとってどのような1年だったでしょうか。今年は元日から能登半島地震でスタートし正月から勤務するといった慌ただしい始まりでしたが、1年近く経過した今でも復旧は道半ばであり、被災された方々には改めてお見舞い申し上げる次第です。 今回は2年前の2022年12月に閣議決定された戦略3文書、いわゆる国家安全保障戦略、国家防衛戦略、防衛力整備計画のうち、国家防衛戦略の一端を紹介し、我が国防衛の考え方をご理解いただければと思います。 国家防衛戦略の中では、我が国防衛のための3つの目標、①力による一方的な現状変更を許容しない 安全保障環境の創出 、②力による一方的な現状変更やその試みの 抑止 、③我が国への侵攻を我が国が主たる責任をもって対処 、を達成するため以下のアプローチを経ることとしています。それは、Ⅰ我が国自身の防衛体制の強化、Ⅱ日米同盟の抑止力・対処力の強化、Ⅲ同志国との連携の強化の3つです。このため、Ⅰではスタンド・オフ防衛能力を確保するため米国製トマホークを取得したり、Ⅱは当然として、Ⅲでは自由で開かれたインド太平洋を実現するため豪・加・NATO・印・ASEAN・韓国等の国々との防衛交流や共同訓練を繰り返しています。 ここで、3つの防衛目標を先述しましたが、最も重要なのは、②対象国に対する抑止です。自衛隊は、③我が国への侵攻に対する対処のための訓練、すなわち侵攻する敵を排除すべき訓練を行い常に高い練度の維持・向上に励んでいますが、その主眼はあくまで対象国に対する抑止です。対象国の非対称戦力を相殺させ軍事介入コストの賦課を認めさせる、いわゆる侵攻がコストに見合わないと侵攻企図を断念させることが重要です。そのためにも自衛隊はそれぞれの軍種で世界にも肩を並べる高い練度を維持・向上させていることをご認識して下さい。 さて、今年ももう終わろうとしています。皆様が良き年末年始をお過ごし晴れやかな1年を迎えられることを祈念して今年のコラムを終えたいと思います。 来年も自衛隊富山地方協力本部に対して変わらぬご理解・ご支援を賜りますようよろしくお願い申し上げます。
~11月のあいさつ~
皆様こんにちは。当ホームページをご覧いただき、ありがとうございます。 先月は退官後に備えた教育を受けるために本コメントを休ませてしまい申し訳ありません。今回は、当該教育の概要の紹介と世俗的になりますが金銭的なお話をしたいと思います。特に若い方に見ていただけると有難いです。 当該教育は、大きく再就職管理と経営管理の教育があり、前者はライフプランや資産運用等の資産設計と経済・雇用情勢、接遇、健康・体力管理、OB講話等の再就職準備の教育があります。後者は、民法、税、経営分析、社会保険、労務管理、簿記等の経営のための管理の教育が行われます。1カ月という短期間でかなり充実した教育であり、幹部・准曹の階級や軍種を問わず定年退官を迎える自衛官全てが国費をもって受けるものです。教育が終わり部隊に復帰すればまた現実の業務に没頭しがちですが、早期に定年を迎える自衛官にとっては意識付け・動機付けになくてはならない教育であり、現在の石破内閣では「自衛官の処遇・勤務環境の改善及び新たな生涯設計の確立に関する関係閣僚会議」が実施されており、より一層の処遇改善を期待するところです。 さて、今回の教育を受ける中で改めて危機感をもって認識したことは金銭的なことでした。現在も含め、退官し再就職して寿命が尽きるまでの間、どのように金銭を管理すべきなのかということです。日本はすでに完全な少子高齢社会です。ほぼ3人に一人が65歳以上の方であり、平均寿命は80歳半ばで健康寿命は70歳半ばです。国が管理する社会保険料は増加の一途を辿り、1人の高齢者を3人で支える時代から1人で支える時代が到来し、当然受給される年金も目減りするでしょう。これは一朝一夕で改善される状況ではなく、人生100年時代と言われる中、若くして将来を見据えた金銭管理をしておかなければ不幸に陥るおそれがあります。ほぼゼロに近い金利が続く中、前岸田政権が国民に対して貯蓄から投資へと訴えていたこと、世界の金融機関に日本への投資を促していたこと、今年1月からNISA制度が拡充したこと、12月からは個人型確定拠出年金(IDECO)が拡充すること等は、乱暴な言い方をすれば、老後のことは国では全てを面倒見れない、自分で準備してくれと言ってることと同義です。 若い方も含め毎月いくばくかのお金を貯金されている方も多いと思いますが、貯蓄ではお金が増えることはありません。一部でも投資に向けることが賢明であり、早ければ早いほうがいいものと思います。私は約5年前にIDECOを、約1年半前にNISAを含め投資を始めましたが、最低でもあと5年早くしておけば良かったと後悔しています。日々の生活もあるでしょうが、是非将来を見据え一度ご検討してみて下さい。
~9月のあいさつ~
皆様こんにちは。当ホームページをご覧いただき、ありがとうございます。 今回は、陸上自衛隊が主体になるかもしれませんが、自衛隊で行っている「教育」の一端について紹介したいと思います。 自衛隊の中での教育には、課程教育、集合教育、海外留学、企業・大学等研修といったものが存在します。多くの自衛官が経験するものとして、この中の集合教育は、1日から数日間または1週間、長くて1カ月程度のものに対して、課程教育とは、3か月から半年、時には1年以上もの期間、在籍する部隊から一時的に離れ「学生」や「候補生」という身分で自衛隊内にある学校と言われる組織で教育を受けるものです。課程教育の入校間、言い方は悪いですが、ほぼ自分のことだけに時間を費やせる期間です。私は約30年間陸上自衛隊で勤務していますが、このうち約6年間の時間を課程教育で費やしています。一般企業や官公庁等で勤務されている方からお𠮟りを受けそうですが、私より長く課程教育に時間を費やしている自衛官も多く存在するものと思います。 自衛隊では軍種は違っても、階級が昇任したとき、近い将来に職務が大きく変わるとき、組織上または職務上の要求、選抜試験の合格、隊員個人への知識・能力の付与等から、誰しもが一定期間に課程教育に入校します。前任者からの引継ぎを伴うOJTも全く無いわけではありませんが、一般的な職務に必要な教育は必須になっています。陸上自衛隊の幹部で言えば、小隊長や中隊長として勤務するための必須の教育を始め、特技といわれるものを付与するための教育、選抜試験ではありますが職種部隊指揮官・司令部幕僚等のための教育、1佐以上の高級幕僚としての教育等が存在します。陸曹で言えば、陸士長から陸曹候補生に指定された後の教育、3曹から2曹へ、2曹から1曹へ昇任した際の教育の他、何かしらの特技付与の教育等が存在します。 自衛隊は人を育てる組織と言われます、また、隊員個人の努力ももちろん必要ですが、各隊員が成長できる舞台を提供しています。それは、入隊から退職・退官までの間です。定年退官に際しても、退職後に備えるために一定期間の教育を退官の数年前に受けることが義務付けられています。かくいう私も今月の25日から1カ月、業務管理集合教育という退官後の人生設計に備えた教育を東京で受けてきます。そのため、来月のコメントは割愛させてもらいますが、是非とも自衛隊という組織に一層の関心をもって頂きたいものです。
~8月のあいさつ~
皆様こんにちは。当ホームページをご覧いただき、ありがとうございます。 今回は、陸上自衛隊に約30年間勤務していく中で感じてきた、休み・休暇というものについて私見を述べたいと思います。 学生の方々は間もなく夏休みが終了しますが、今年の夏はいかが過ごしたでしょうか。また社会人の方々は既に夏季休暇も終わりお仕事に就いていることでしょうが充分に満喫できたでしょうか。ご子息・ご息女が夏休みで却ってすることが増えている方もおられるかもしれませんね。いずれにしろ有意義な休暇を取られることを祈るばかりです。 さて、休み・休暇と聞いて何を連想するでしょうか。楽しく遊ぶこと、宿題等の勉強、旅行、たまった趣味ごと、心身のリフレッシュ等々、いろいろありますがどれも正解なのでしょう。一方で自衛官にとって休み・休暇とはあくまで任務(業務)の一環だと私は考えています。 軍種や職種、平素からの任務、業務内容、官職等により多少異なりますが、春季休暇、夏季休暇及び年末年始休暇にあって、自衛官は比較的まとまった休暇を取れるものです。自衛隊も週休2日制になり、祝日も考慮すると、勤務できる時間は年間約1800時間しかありません。自衛隊も国の機関ですから土日・祝日は基本的に休みですが、平素の任務や訓練、地方協力本部にあっては採用試験やイベントの参加等、休日にも業務があります。平日でもその分の代休を取るようにしますが、全てを消化できないため休暇や連休につける等して勤務時間が適切になるよう管理しているものです。 これは不用な勤務時間を調整しているという側面もありますが、それ以上に次の任務、明日からの業務に更に邁進させるという側面のほうが強いものです。有事や災害派遣においても部隊交代による戦力回復は必須の運用ですし、日々解除ミーティング(悲惨な状況の体験や感情を同じ現場で活動したグループで話し合い共有することによる精神医学的療法)を行って明日に備えます。すなわち、休むということは次の任務に備えた充電時間であり、事故等起こすのはもってのほかですし、心身ともにリフレッシュできるようにしなければならない任務の期間と考えます。 少し大袈裟に述べたかもしれませんが、いずれにしろ休暇等は是非とも有意義にお過ごしください。
~7月のあいさつ~
皆様こんにちは。当ホームページをご覧いただき、ありがとうございます。 今回は、北海道千歳市に所在する第7師団司令部防衛班長勤務時のお話で、賛否両論あるかもしれませんが、物事の優先順位とリスク管理をしっかりしましょうというものです。 第14戦車中隊長を下番した後、平成20年3月末から上記防衛班長として1年4カ月勤務しました。着任当初から7月に予定された洞爺湖サミットの支援準備で多忙な日々を送る毎日でしたが、着任後に非常に驚くことがありました。それは、山菜取りで行方不明になった民間人の方の捜索のために災害派遣要請があったことです。 北海道では3月下旬頃以降、行者にんにくや千島笹の若竹を始め、各種野草の山菜を取るために多くの方が山野に行かれますが、毎年のように道内各地で行方不明者の事件が発生しており、その大半がご老人です。この時期は、ちょうどヒグマが冬眠から目覚める時期でもあり、千島笹の若竹は冬眠明けのヒグマの大好物でもあり山野に入るのは非常に注意が必要です。ちなみに人間はヒグマには絶対に敵いません。それは自衛官であってもです。 勤務時にその派遣要請を聞いたとき。何かの冗談だろ、それは警察の仕事だろ、と思いましたが、いつの頃からか不明ですが生命の危機が迫っているとの理由で、警察・消防のみならず自衛隊に対しても災害派遣要請が発出されるようになり、春の恒例行事のようになっていました。 捜索の結果、発見できないことも多少あり、その場合は1週間程度(自衛隊は概ね3日間の支援)捜索を続けた後に警察からご家族に説明して捜索中止に至るのですが、思いを馳せることは、山菜と生命とどちらが大事なのか・優先すべきなのか、それでもリスクを冒すのならば本当に行方不明になった際の処置を行ったのかということです。もちろん趣味や楽しみではなく生活の糧として山菜を採取している方もおられることでしょう、また大半の方が何らかの処置をして山野に入っていることでしょうが、我々自衛隊にとっては結果がすべてであり過程は一つ間違えば単なる言い訳になりかねません。 今回は山菜取りを事例にあげましたが、物事には適時性も含めて優先順位を考慮して判断することが必要です。それでもあえてリスクを選ばざるを得ないのならば、そのためにどういう準備を事前にしなければならないのかということを考えてみてはいかがでしょうか。時にはリスクの受容度から物事を判断することもあるものです。
~6月のあいさつ~
皆様こんにちは。当ホームページをご覧いただき、ありがとうございます。
今回は、中隊長当時に参加した競技会のお話で、信念をもって継続していけば機会は必ず訪れ努力は実を結ぶというものです。今回も少し長くなりますが最後まで見ていただければ有難いです。
前月のコメントで触れたように、私は平成18年3月から第14戦車中隊の初代中隊長として2年間勤務しました。戦車部隊のお家芸は今も昔も戦車射撃であり、部隊は戦車射撃訓練を中心にたゆまぬ努力をしていくものです。しかしながら、人(他の隊務からの影響)、モノ(特に弾薬)、場所(射撃する演習場の配当)の関係でなかなか思い通りに訓練できないものですが、どの部隊でも創意工夫して何とかしているものです。
中隊長になって以降、小隊長時代の反省もあり、戦車部隊の本来の姿を追求したく、人車一体の精神涵養のため、乗員と使用する戦車を固定して編成(これが簡単そうでできない)するとともに、毎日課業開始前の時間を使って射撃予習(実弾を使用しない射撃動作の訓練)を改めて基礎から段階的に進めていきました。
人は何かしらの動機や目標がないと努力を継続することは難しいものですが、新編部隊の立ち上げということも相まって、指導組織(指導幹部、複数の指導陸曹、砲手・操縦手・装填手の役職ごとの長)を編成するとともに、部隊のお家芸・部隊の神髄をあくまで追求せんと指導を繰り返していきました。この際、毎朝の射撃予習に1分でも費やすために朝礼場所を当該訓練を実施している場所近傍に設定したり、終礼後には指導組織全員でほぼ毎日ミーティングを実施させる等、乗員自らが何が課題でどう改善していくかを考えさせる気風を醸成していきました。また、最低限月に一度は実弾射撃訓練を設定できるよう年度当初に計画し概ね順調に進捗していきました。
しかしながらこの年の9月に玖珠駐屯地武器亡失事案が発生、10月に予定していた旅団演習の都合で同駐屯地に中隊の戦車の大半を一時的に保管していましたが、捜査の関係で駐屯地内への出入りが厳しく制限され戦車に触れることすらできなくなり旅団演習も中止になりました。この間、実弾射撃は当然のこと戦車を使った訓練が全くできない状況が12月頃まで続き翌年1月にようやく日本原駐屯地にも全車両を戻すことができ精神的にも辛い時期を過ごしたことを覚えています。
このような中、中部方面隊で勤務されていた機甲科職種の某将官(のちの陸上幕僚長)が戦車部隊の縮小に伴う練度低下を憂いて平成19年度に中部方面戦車射撃競技会が行えるよう尽力され、今津駐屯地に所在した第3戦車大隊が細部の計画を作り、平成20年2月にあいばの演習場で行われることになりました。14戦車中隊としてはアウェーでの戦いではありましたが、これまでの射撃予習を毎日繰り返すとともに、他の隊務や訓練を実施しつつ、実弾射撃訓練で成果を積み上げ、概ね3か月前に競技に参加する1コ戦車小隊を選抜し引き続き練成を継続していきました。
競技会は、今津・日本原駐屯地の他、駒門駐屯地からも参加があり、計8コ戦車小隊によるトーナメント方式で2日間にわたり行われました。中隊長自身も戦車に乗車して競技に参加できる機会を得ましたので、無線通信で命令を下達後に引き続き隊員を鼓舞できるよう激励を実施して初日の1回戦、2日目の準決勝戦を勝ち上がることができました。各対戦では先攻の戦車小隊が射撃後に無線通信で点数が放送され、次に後攻の戦車小隊が射撃後に点数と勝者が放送される流れで進められましたが、決勝戦先攻の14戦車中隊が射撃後に放送された点数を確認して後攻の13戦車中隊の点数を待っている状況でした。後攻の点数が放送された際に勝利したことを確認でき、歓喜の声と隊員の涙の中、演習場の中で胴上げをしてもらったことを今でも覚えています。
競技会終了の約1か月後に私は北海道に異動になり2年間の勤務を終えました。玖珠での事案を含め正直辛いことも多々ありましたが、上記のような幸運にも恵まれたとも思っています。必ず自ら求める機会がすぐに訪れることはないかもしれませんが、信念をもって継続していけば実を結ぶこともあることを感じていただけたら嬉しいです。
~5月のあいさつ~
皆様こんにちは。当ホームページをご覧いただき、ありがとうございます。
今回は、新しい部隊の立ち上げのお話で、答えのない環境でも自ら答えを出して物事を進めていかなければならないというものです。少し長くなりますが最後までお読み下さい。
私は平成18年3月の四国4県を管轄する第2混成団(当時)の第14旅団化に伴う第14戦車中隊(以下、14戦車)の新編に立ち合い初代中隊長として2年間勤務しました。最近は南西防衛の強化や即応機動連隊、戦闘偵察大隊等の新改編で部隊の立ち上げ等も多く見られますが、当時はこれほどの新改編は大事業でした。
目黒駐屯地の幹部学校(現:教育訓練研究本部教育部)での指揮幕僚課程修了後、新編8カ月前に準備隊長として岡山県の日本原駐屯地に赴任しました。
当時も部隊の改編はありましたが、14戦車の新編が他と違うところは、駐屯地の整備計画で準備される施設等を除き、人もモノも施設の中身もゼロからのスタートだったことです。これは、第14旅団新編に伴い隷下部隊として10個の部隊が新編される中、14戦車を除く9個の部隊は母体となる部隊に人や装備や施設が増えて新編されましたが、14戦車だけは元々何もないところから誕生したということです。
14戦車は、今津駐屯地(滋賀)や日本原駐屯地の戦車部隊の人員を中心に、北は北海道からも人員が充足されるとともに、他職種の人員も含めて編成されました。この際、適材適所の人員で部隊を編成するために正面からまっとうな調整をする他、階級がかなり上位の方を活用して紙面では書けないことも行ったりして人員を揃えたことを覚えています。(人員調整では嫌味を言われたり、後々文句を言われることもありました…)
また装備は、鹿追駐屯地(北海道帯広)と日本原駐屯地の戦車部隊からの74式戦車が管理換えされた他、その他の装備品は周辺各地の色々な駐屯地から管理換えされました。
当時、74式戦車はDタイプとEタイプといわれる2種類の戦車が全国にありましたが、当時の射撃訓練では対戦車榴弾を使用しており、その弾薬を射撃できるEタイプが装備の大半を占めないとお家芸である射撃訓練ができない状況の中、管理換えされた戦車は大半がDタイプでした。このため、方面総監部、13旅団司令部、第2混成団本部(当時)の高級幹部の方にも尽力していただき半ば強引にEタイプを7割程度まで引き上げたりもしました。
これら以外にも紆余曲折を経ながら平成18年3月下旬に部隊を新編することができました。私が所属していた同一駐屯地の第13戦車中隊からの支援や第13旅団のトップ二人が同じ機甲科だったという幸運もありましたが、何が正解か分からない中でも自らがこうしたい、最低でもこうしなければという目標を達成するため色々な手段を使って自ら答えを導き出していったものと思います。
これから社会に出る若い方々のみならず、現役の自衛官の方も公私を問わず必ず自分で答えを出さなければならない状況を迎えることになります。賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶと言いますが、経験から学ぶのが普通であり大半です。自ら答えを出すといえど一人の経験では限界があるものです。このため、色々な方からお話を聞くなり、ちょっとしたことでも自分で追体験してみるのが将来に備えて有効と思います。ご覧になられた方のご参考になれば幸いです。
~4月のあいさつ~
皆様こんにちは。当ホームページをご覧いただき、ありがとうございます。
先般ホームページを一新しました。見やすさ、使いやすさ、分かりやすさ等を考慮し完全リニューアルしましたのでどうぞご活用して下さい。それもあり当コンテンツも月一のペースで更新していきますのでどうかご覧下さい。
今回は、私の幹部候補生から初級幹部(2・3尉)時代のお話をさせて頂きますが、ご覧になられた方には、些細なことに一喜一憂(特に一憂)せず一度決めたことには努力を続けてもらいたいというお話です。
私は関西の某大学から陸上自衛隊の一般幹部候補生として、福岡県久留米市にある幹部候補生学校に平成6年4月に入校し、自衛官人生をスタートさせました。大学生時代は特段の運動をしていたわけでもなく、国防の念にかられて入隊したわけでもなかったため、正直やっていけるかどうか不安に感じながら着校したことを覚えています。
当時の教育期間は2月中旬までの約11カ月でしたが、実は5月中旬から約2カ月の間、右膝の前十字靭帯断裂と半月板損傷のため入院していました。退院後もリハビリが必要で普通に訓練に参加したり運動ができるようになったのは9月末頃だったと思います。その影響もあってか卒業時の成績は下から数えたほうが早かったです。卒業から約4か月後に小隊長としての教育に約8カ月参加しましたが、当時は陸曹から部内選抜して幹部になった方々と一緒に教育を受けており、元々の素地が違うため卒業時の成績はやはり下から数えたほうが早かったです。
教育を修了し小隊長として勤務している間も、当初は分からないことばかりで戸惑うことも多く、父親と同年代の職人のような陸曹にも指示しなければならない中、周囲の色々な方に指導を受けながら、また教えてもらいながら勤務をしていたことを覚えています。当時の陸曹たちの信頼を得られたのは一年近くかかったのではないでしょうか。
幹部自衛官の自衛隊人生においては、初級幹部時代の勤務がその後の勤務の指標ともなり大いに影響するものです。当時のいろいろな苦労があって今の私があるものと考えています。若い時の苦労は買ってでもしろというのは死語でしょうが、未来ある若者には一度自らが決めたことには努力を続け、答えのない世界でも自ら答えを出すような人生を送って頂きたいと思います。何かのご参考にして頂ければ幸いです。