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第I部 わが国を取り巻く安全保障環境

第8節 気候変動が安全保障環境や軍に与える影響

2013年9月、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は、大気と海洋の温暖化、雪氷の融解、海面水位の上昇、温室効果ガス濃度の増加の観測により、気候システムの温暖化には疑う余地がないとする報告を公表した。こうした気候変動の影響は、地域的に一様ではなく、また気象や環境の分野にとどまらず、社会や経済を含む多岐にわたる分野に及ぶものと考えられており、2016年11月には温室効果ガス排出削減などのための新たな国際枠組みであるパリ協定が発効している。こうした中、国連安全保障理事会は、近年、アフリカにおける国連の安定化ミッションや支援ミッションを中心とした10を超える決議において、水不足、干ばつ、砂漠化、土壌の劣化、食料不足といった例をあげ、気候変動による安全保障への負の影響を指摘するなど、気候変動問題を安全保障上の実体的な課題としてより積極的に取り扱う姿勢を見せている1

気候変動を安全保障上の課題と捉える動きは各国にも広がっており、たとえば、気候変動による複合的な影響に起因する水、食料、土地などの不足は、限られた土地や資源を巡る争いを誘発・悪化させるほか、大規模な住民移動を招き、社会的・政治的な緊張や紛争を誘発するおそれがあると考えられている。

また、広範にわたる気候変動の影響は、国家の対応能力にさらなる負荷をかけ、特に、既に政治・経済上の問題を抱えている脆弱な国家の安定性を揺るがしかねない旨指摘されている。そして、こうして不安定化した国家に対し、軍の活動を含む国際的な支援の必要性が高まるものと見込まれている。

このほか、温室効果ガスの排出量の規制やジオエンジニアリング(気候工学)の活用をめぐり、国家間における緊張が高まる可能性も指摘されている。

さらに、北極海では、海氷の融解により航路として使用可能となる機会が増大するとともに、海底資源へのアクセスが容易になるとみられることなどから、沿岸国が海洋権益の確保に向けて大陸棚の延長を主張するための海底調査に着手しているほか、北極海域における軍事態勢を強化する動きもみられる。また、雪氷の融解に関しては、黄河、長江、メコン川、インダス川、プラマプトラ川など、アジアにおける多くの大河の源流であるチベット高原において氷河の融解が及ぼす影響についても注目を要する旨が指摘されている。

気候変動による各国の軍に対する直接的な影響として、異常気象の増大は大規模災害の増加や感染症の拡大をもたらすと考えられており、災害救援活動、人道復興支援活動、治安維持活動、医療支援などの任務に、各国の軍隊が出動する機会が増大することが見込まれている。

また、気温の上昇や異常気象、海面水位の上昇などは、軍の装備や基地、訓練施設などに対する負荷を増大させると考えられている。

このほか、軍に対しても、温室効果ガスの排出削減を含むより一層の環境対策を要求する声が高まる可能性が指摘されている。

各国は、気候変動が安全保障環境や軍に与えるこのような影響について検証し、これに対応していく考えを政策文書などで示している。

世界規模で活動し、国家水準の温室効果ガスを排出するとの指摘もある米軍を擁する米国は、米軍の施設や活動などに対する影響を検証するとともに、その影響への対応や温室効果ガスの排出量抑制に向けて積極的に取り組む方針を示している。

米国防省は、オバマ政権期の2010年2月に公表された「4年ごとの国防計画の見直し」(QDR:Quadrennial Defense Review)を気候変動への対応に関する政策の基盤として位置づけている。この中で、気候変動及びこれと不可分の関係にあるエネルギーの問題は、将来の安全保障環境の形成にあたって重要な役割を担うものとされ、国防省は気候変動が及ぼす影響に対応するとともに、この影響を緩和するための取組を促進するとの方針が示されている。この一環として、国防省は、核動力に加えてバイオ燃料との混合燃料を活用した米海軍の「グレート・グリーン・フリート」をはじめとした温室効果ガスの排出削減にも資する代替燃料の導入に向けた取組を進めていた。

トランプ政権期においても、国内外における米軍の施設や活動を対象として気候変動に対する脆弱性の評価を継続しており、このうち、2019年1月に公表された国内施設に関する調査報告書においては、水害、干ばつ及び山火事の3項目が主要な懸念事項とされ、特に、調査対象である79の主要施設のうち、60施設が将来的な水害に対して脆弱であるとされている。また、同報告書は、国家の不安定化、軍のロジスティックス、北極圏の問題、人道支援・災害救援など米軍の活動に関する項目についても評価を実施しており、気候変動は米軍の一部の任務に影響を及ぼしかねないとされている。

こうした認識も踏まえ、バイデン大統領は政権発足後の2021年1月、気候変動に関する大統領令を公布した。この中で、「気候変動と国家安全保障」と題したオバマ政権期の大統領覚書を復活させる条項を設け、同政権の政策との継続性を示している。また、気候変動は気候危機に変化したとの認識を示したうえで、気候危機を同政権の対外政策及び国家安全保障の中心に位置づけるとし、国防長官に対して、気候変動が安全保障に及ぼす影響の分析や、国家防衛戦略をはじめとする各種戦略・政策文書の策定においてこの影響を組み込むよう指示している。これを受け、オースティン国防長官は気候変動に関する声明を発表した。この声明において、増大する水害、干ばつ、山火事及び異常気象による米国内の施設に対する影響を既に毎年受けているほか、砂漠化がもたらした社会の不安定化や、北極を経由して敵対国が米本土に接近する脅威、そして世界各地における人道支援の要求といった諸要因に起因する作戦を実行してきており、国防省は気候変動が任務、計画及び施設に劇的な影響をもたらすことを認識しているとした。そのうえで、バイデン大統領の指示のもと、気候変動を国家安全保障上の不可欠の要素として捉え、その影響を戦略の策定や計画の指針などの中に組み込むとの方針を示している。この声明では、気候変動に関連する技術の開発を促し、温室効果ガスの排出にかかるアプローチを見直す旨も合わせて言及されている。

気候変動にかかる国際的な取組を主導する国の一つであるフランスは、気候変動を数あるリスクの中でも最前線のものと位置づけ、広大な海域を擁する海外領土の観点からも、軍による作戦上の適応と持続可能な開発に向けた貢献が必要であるとの考えを示している。フランス国防省は、2018年に公表した気候変動に関する政策文書において、異常気象の激化は人道危機の数を増やし深刻度を高め、より大規模な軍の動員が必要になるとしている。また、「グリーン・ディフェンス」政策を掲げ、軍の装備については環境に配慮した設計を選好するとともに、軍の施設のエネルギー効率を高め、再生可能エネルギーを用いることで、温室効果ガスの排出量を抑制するとの方針を示している。

気候変動の影響に対して最も脆弱な場所の一つと考えられている大洋州島嶼国と関係の深いオーストラリアは、気候変動を一因とする近隣諸国の脆弱性を自国の戦略環境を形成する主な要素の一つと位置づけ、地域の不安定化を防止するため積極的に取り組む方針を打ち出している。オーストラリア国防省は、2016年2月に公表した国防白書において、気候変動は近隣諸国にとっての主要課題であり、近隣諸国の不安定化はオーストラリアに重大な影響をもたらすため、これらの国を支援していくことが極めて重要であるとの考えを示している。また、海面水位の上昇は海軍基地に影響を及ぼし、頻発する異常気象は国防関連施設に損害を与えかねない旨指摘したうえで、国防省は気候変動に対して適切な態勢を築くとしている。

同じく大洋州島嶼国との関係が深いニュージーランドは、気候変動への備えと対応は軍の最優先事項に該当すると位置づけて対応していく方針を示している。ニュージーランド国防省は、2019年11月に公表した政策文書において、自国の領土と周辺地域において作戦の遂行が可能な能力を最優先するとしているが、気候変動への対応はこれに該当すると位置づけている。そのうえで、特に自国の周辺地域において、将来的に災害救援・人道支援任務が増加するとし、こうした気候変動に由来する任務の増加に適応していく必要性があるとしている。また、気候変動によって海上での活動が増加すると想定しており、海上輸送や空輸、海洋哨戒などの能力を強化するとともに、6,000人規模を増員する防衛力整備計画を通じてこうした活動の所要に対応していくとの考えを示している。このほか、将来的な排出抑制につなげるために、まずは温室効果ガスの排出量の測定手法の確立に取り組むとしている。

このように、気候変動が安全保障環境や軍にもさまざまな影響を与えうるとの認識が急速に共有される中、2021年4月には、米国主催の気候変動サミットの中で気候安全保障セッションが開催された。同セッションは、オースティン米国防長官が司会を務め、岸防衛大臣をはじめ、米国家情報長官、米国国連大使、北大西洋条約機構(NATO)事務総長、イラク・ケニア・スペイン・英国の国防相およびフィリピンの財務相が参加して、気候変動がもたらす世界的な安全保障上の課題とこれに対する取組について議論が交わされた。この中で各国国防相は、国防省が災害対応を求められる機会が増えており、災害への備えと対応の強化の必要性が高まっていることに言及するとともに、気候変動リスクを共有する各国国防省の協力が利益になると説明している。国防当局が対応を検討し、対策に乗り出す中、気候変動を安全保障上の課題として重大な関心をもって注視していく必要がある。

1 ただし、国連安全保障理事会の常任理事国である中国とロシアについては、安保理公開討論会などの場において、気候変動は持続可能な開発にかかる問題であり、気候変動に関する国際協力は、国連総会や国連気候変動枠組条約(UNFCCC)などの専門的なプラットフォームで行われるものであるとの考えから、安全保障理事会が気候変動を取り扱うことに消極的であるとの見解を示してきている。また、中露と同様に温室効果ガス排出量の上位国であるインドについては、同理事会が2019年1月に開催した公開討論会において、インドの代表は気候変動と安全保障とのつながりについて、いまだに不明瞭で論争がある旨言及している。