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Japan Air Self-Defense Force Kumagaya A.B.

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【第1回】 教育参考館(熊谷陸軍飛行学校史料)

▶教育参考館
 熊谷基地には、教育参考館といわれる史料館があります。館内は、航空自衛隊熊谷基地の前身である熊谷陸軍飛行学校の史料室と航空生徒隊の資料室の2つの展示室があります。第1回目となる今回は、熊谷陸軍飛行学校開校までの経緯を詳しくご紹介します(写真は教育参考館)。


【熊谷陸軍飛行学校発足の経緯(※少年航空兵制度)】
 昭和8年(1933)参謀本部第2課(作戦)は、昭和9年から10年を対象に航空軍備充実計画の検討が開始され、陸軍省軍事課もこれと同時に昭和9年航空軍備拡張案を作成した。そして参謀本部と陸軍省の拡張案に関する協議が完全に妥結するに先立って、早急に着手しなければならない拡張案の一部を昭和10年から11年にかけ、航空防空緊急計画の中に織り込み実現された。
熊谷陸軍飛行学校の設立は、本計画に基づき陸軍の少年飛行兵教育のメッカがここに誕生するのである。
(※少年航空兵は、徴兵制度の適令以前に優秀な青少年(満15歳から18歳の志願者を公募)を採用し、これに技術教育を行い特務士官に任官させる。)

 昭和8年8月少年航空兵制度の採用を決定した陸軍はとりあえず所澤陸軍飛行学校(昭和12年10月1日に廃止され、陸軍航空技術学校が設立された。(現在は防衛医科大学校が所在))内に生徒隊を設け、昭和9年2月 第1期生170名の教育を開始した。
 昭和10年度の改編により熊谷陸軍飛行学校と陸軍航空技術学校(所澤)の2校が新設されることになり昭和10年12月1日に熊谷陸軍飛行学校は開校した。
併せる
※学校候補地設定の経緯と建設
 所澤飛行場に近く、陸軍航空関係者の間では熟知の飛行場適地(地形上)であり、しかも高崎線沿線にあって交通の便に恵まれているため、かねてから有力な飛行場候補地として上げられていたと考えられる。
 よって前述の事情から昭和9年頃陸軍航空本部の原案に候補地として取上げられ同原案をもとに陸軍省において航空防空緊急計画の一環として計画されたものと思われる。飛行場としての立地条件の適合性と共に陸軍が熊谷飛行場について以前から調査を続けてきたこと、即ち設置計画を先行性を証左するものであろう。
(注:昭和20年8月終戦により焼却・散逸し、一部残存する資料等を基に経緯を推定)
   □□□ 熊谷陸軍飛行学校 □□□
□用地の形状は一辺概ね1.6kmの四方形でその大部分は三尻村に属し、一部が深谷町・武川村(現川本町)に及ぶ面積3,074,589㎡となった。

□学校建設の現地における施工・経理業務は、陸軍経理部令により近衛師団経理部が担当し、工事請負は大林組他3社で決定した。

□昭和10年8月21日に地鎮祭・鍬入式が執り行われ工事は本格的に開始されたが、この年は8月、9月に雨が多く工事は難航した。
 秋の深まりとともに工事も進捗し11月中旬には飛行場は一応完成し、11月28日には飛行機20機が着陸した。
 この時、飛行場が全面完成をみたのは昭和11年で訓練場は芝を植えた場内を4つに分割して使用した。また、竣工したのは学校本部、生徒隊舎等であり格納庫が完成したのは昭和12年と伝われている。

□斜線網掛けが航空自衛隊が現在使用している部分
 昭和10年12月1日熊谷陸軍飛行学校令が施行され、同年12月14日、開校式が盛大に行われた(下写真)。
用地買収を開始後10ヵ月足らずの短期間に飛行場建設、開校を終えたことは今日とは隔絶した事情にもよるが、式典に出席した主要な顔ぶれからも当時の陸軍航空が熊谷陸軍飛行学校に寄せた期待の大きさが想像できる。
□主要出席者□
・陸 軍 大 臣 大将 川島義之
・軍事参議官 大将 阿部信行
・東京帝国大学名誉教授(地理物理・航空) 理博 田中館愛橘
・陸軍航空本部長 中将 畑 俊六
・陸軍省経理局長 主計総監 平手勘次郎
・埼玉県知事 斎藤 樹
・所澤陸軍飛行学校長 中将 徳川好敏



 熊谷陸軍飛行学校の正門と本部庁舎 本部庁舎で実際に使用されていた玄関扉を現在、館内に展示中 

□熊谷陸軍飛行学校では、主に九五式一型練習機(通称赤とんぼ)と九九式高等練習機の操縦教育のほか、整備、戦技(機上射撃、機上通信)の教育も行われていた。

九五式一型練習機(通称赤とんぼ) 九九式高等練習機

熊谷陸軍飛行学校の史料室には、ご覧(上写真)のように陸軍飛行学校に纏わる各種史料が展示されており、今回はその一部をピックアップしてご紹介いたします。
展示ケースの中には、当時実際に使用された教程(教科書)が展示されています(下写真)。
(飛行機工術教程、飛行機学教程、飛行機用発動機、飛行機教程、九五式一型假説明書 等々)

□昭和天皇行幸
 昭和13年10月10日(月)天皇陛下が熊谷陸軍飛行学校に行幸され教育状況を御覧になられた。

江橋学校長が飛行教育の状況を陛下に説明 教育状況を視察される陛下
□学校長である江橋陸軍中将は、この日を記念して、この地を「御稜威ケ原(みいづがはら)」と命名して、記念碑(下写真)を中央格納庫と第二格納庫の間の中央道路の真中に設置した。併せて江橋学校長は※「さしつけに 仰ぎまつれる 大御稜威 伝えてはげめ 空の益良雄」と歌い、記念碑に記した。
※現代略「直接に見申し上げた 天皇陛下の御威光を 皆に伝えてはげめ 空の勇者達よ」
なお、「御稜威ケ原」の名は、現在、基地周辺の住所名及び通り名としてもそのまま使われています。

設置当時の御稜威ケ原ノ碑 現在も当時の場所にそのまま設置されている
□熊谷陸軍飛行学校から籠原に至る道路は巾2mの細い道路であったが、天皇陛下行幸に伴い8mに拡巾工事された。
 ※基地正門から籠原陸橋 国道17号方面に向かう県道357号線の道幅は当時のまま(下写真)


□開校時の学校編成(下写真)
▶将校、同相当官、技師 56名 ▶准士官 18名 ▶下士官、判任文官 78名 ▶兵 4名
▶生徒(少年航空兵 200名、操縦候補生・幹部候補生 32名) 232名   合計388名
※この外に材料廠に職工が多数在籍

□昭和15年以降の学校編成(下写真)
▶将校、同相当官、技師 80名 ▶准士官 45名 ▶下士官、判任文官 206名 ▶兵 12名
▶生徒(少年航空兵 954名、操縦候補生 80名、幹部候補生 50名) 1084名 合計1,427名
※この外に材料廠に職工が多数在籍

注:学生の増加に伴い、設置時期は不明であるが次の分教所(場)が逐次増設された。
仙台(宮城県)、原町(福島県)、矢吹(福島県)、那須野(栃木県)、壬生(栃木県)、児玉(埼玉県)、館林(群馬県)、新田(群馬県)、前橋(群馬県)、太田(群馬県)、横芝(千葉県)、相模(神奈川県)、下館(茨木県)、甲府(山梨県)、軽井沢(長野県)、伊那(長野県)、長野(長野県)、松本(長野県)

□熊谷陸軍飛行学校主要施設図(下写真) ※昭和13年から15年頃の施設図

飛行場

少年飛行兵 第九期 卒業生 平馬康雄 陸軍曹長の経歴と五式戦闘機(キ-100)の残骸
      □□□ 経歴等 □□□
 平馬曹長は、福井県出身で陸軍少年飛行兵第九期生として昭和14年10月東京陸軍飛行学校に入校、後に熊谷陸軍飛行学校を卒業し、昭和18年南方ティモール島方面に出陣後、内地に転出し帝都防衛の部隊での勤務となる。
 昭和20年4月7日(土)日本(東京周辺)を空爆するため、マリアナ基地を出撃した米軍B29爆撃機にP51戦闘機が合流し戦爆連合を編成。約100機による東京周辺の空襲が行われた。
 この日、午前11時半頃、平馬曹長は米軍機を迎撃するため五式戦闘機で出撃したがB29爆撃機編隊の集中火網を浴び撃墜され、埼玉県越谷市周辺に墜落した。当時、墜落場所が特定できず遺体は収容されなかった。
 昭和47年に水田で機体の一部が発見され、遺骨及び機体が収容され、27年ぶりの「帰還」となった。

※写真を拡大表示することができます。
五式戦闘機
□九五式一型練習機等のプロペラ、熊谷陸軍飛行学校で中隊長をされていた藤井 一 中尉等の紹介パネル(下写真)
※ 藤井一中尉は、靖國神社 遊就館でも紹介されています。


□昭和20年4月に編成し、御稜威ケ原ノ碑の前で記念撮影する第80振武隊及び第81振武隊(下写真)

第80振武隊 第81振武隊(この後、知覧にて混成)
□熊谷陸軍飛行学校庁舎の中央階段等

熊谷陸軍飛行学校開校以来、本部庁舎の中央階段として使用された。
昭和13年10月10日、昭和天皇が行幸の際、また昭和19年6月3日、東条英機首相が視察の際に使用された由緒ある階段
その他、軍服、外衣及び航空服等を展示のほか、当時の訓練風景等を描いた絵画が展示されています。


 □こちらの展示ケースでは、軍の装備品及び軍服用装飾品並びに臨時招集令状などが展示されています。


 □当時の通信器材と臨時招集令状(通称「赤紙」ですが色あせしています。)

熊谷陸軍飛行学校の史料室紹介はこれにて終了となります。ここまでご覧いただきありがとうございました。
なお、本史料室は、申し込みいただければ見学することが可能です。是非お越しください。

航空自衛隊熊谷基地

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