行進曲「軍艦」について その2

行進曲「軍艦」について その2

「軍艦」の作者

 行進曲「軍艦」は、鳥山啓(ひらく)作詞、瀬戸口藤吉作曲の海軍軍歌「軍艦」に、大伴氏言立(ことだて)、東儀(とうぎ)季芳(すえよし)作曲の「海行かば」をトリオ中間部として、行進曲にしたものです。
 明治26年8月18日発行の伊澤修二編輯『小學唱歌』巻之六下には、鳥山啓作詞、山田源一郎作曲の「軍艦」が載っています。
 四分の三拍子の小学唱歌は、題名が「此の城」だったという説もありますが、次のように「軍艦」でした。

 作詞者の鳥山は、天保8年3月25日、紀州田辺(現和歌山県田辺市)に生まれました。漢学、国学、天文学、地理学、木草学、化学、博物学さらに英学まで修めた博学の士でした。大博物学者の南方熊楠(みなかたくまぐす)が、唯一師と仰いだのが同郷の先輩鳥山でした。
 維新後、教育界に身を投じた鳥山は、藩学校から田辺小学校、和歌山師範学校、和歌山中学校を経て、明治20年からは東京の華族女学校教授を務めました。大正3年2月28日に逝去、享年78歳でした。
 海軍軍楽師(准士官)の瀬戸口が、鳥山の「軍艦」に作曲したのは、『小學唱歌』発行の4年後のことでした。
 瀬戸口は、明治元年5月10日、薩摩国鹿児島郡小川町(現鹿児島県垂水市)に、父覚兵衛の次男として生まれました。
13歳の時、叔父の大山軍八の養子となり、横浜に移りました。大山藤吉は、15年12月23日、第二回公募軍楽生として横須賀海兵団に入団し、クラリネットを担当しました。
 明治27年7月に最若年で軍楽師に昇進し、33年9月には瀬戸口姓に戻り、36年9月に軍楽長に昇進しました。
 日露戦争の日本海海戦直後の明治38年6月、旗艦「三笠」に乗り組みました。9月11日の佐世保に於ける同艦の爆発事故の際は、上陸していて難を免れるという強運の持主でした。この事故では、10名の軍楽隊員も殉職しています。
 明治40年の「筑波」による欧米訪問、44年の「鞍馬」による英国王ジョージ五世戴冠式記念観艦式に参加、41年5月から大正6年10月まで日比谷公園奏楽の指揮をするなど、表舞台での活躍が目立っています。
 大正6年11月4日には、東京・帝国劇場において「瀬戸口藤吉告別音樂大演奏會」が催されました。同月15日、定年満期で予備役に編入後も各方面で指導を行っていました。昭和12年には「愛国行進曲」の公募に一等で入選し、大きな話題となりました。
 大東亜戦争開戦一カ月前の昭和16年11月8日に逝去、享年74歳でした。同月22日に日比谷公園大音楽堂において、追悼献楽式が盛大に実施されました。

「軍艦」の用途について

 海上自衛隊は、昭和36年1月に儀礼曲10曲を制定しました。この中には帝国海軍の儀制曲(大正元年8月制定)10曲のうち7曲が含まれています。
 その中の「軍艦」の用途を比べてみましょう。

海軍儀制曲
第十號 軍艦 進水式ニ於テ船體滑走又ハ進行ヲ始ムルトキ其ノ他觀兵式(分列式、閲兵式)等

海上自衛隊儀礼曲
軍艦行進曲(1)観閲式における観閲行進の場合
     (2)自衛艦旗授与式における乗組員乗艦の場合
     (3)自衛艦命名式における進水の場合
     (4)その他必要と認められる場合

海上自衛隊儀礼曲
軍艦行進曲
(1)観閲式における観閲行進の場合
(2)自衛艦旗授与式における乗組員乗艦の場合
(3)自衛艦命名式における進水の場合
(4)その他必要と認められる場合

 ほぼ同じような内容ですが(2)のように、新たに加えられたものもあります。双方を比較して、海上自衛隊の用途について述べてみます。

(1)観閲式における観閲行進の場合
 海上自衛隊の部隊や学校などが、記念行事で観閲式を行う場合に演奏されます。海軍における観兵式は、海兵団などで実施されたのでしょうが、分列式とは分列行進、閲兵式は現在の巡閲に相当し、終始一貫「軍艦」を演奏していたようです。

(2)自衛艦旗授与式における乗組員乗艦の場合
 自衛艦旗授与式において儀式歌「海のさきもり」の演奏で、内閣総理大臣から授与された自衛艦旗が、艦長(艇長)から副長に手渡され、その直後の乗組員乗艦の際に演奏します。このような習慣は、帝国海軍にはありませんでした。

(3)自衛艦命名式における進水の場合
 造船所において建造中の自衛艦に命名した後に行われるのが進水式です。自衛艦命名式が終り、静粛の中で進水準備が進められ、細い支綱のみとなります。音楽隊は艦首近くに位置し、支綱が切断され、くす玉が割れ、新造艦が動き始めた瞬間に「軍艦」の演奏を開始します。艦首にぶつかって割れたシャンパンの、ほのかな香りを嗅ぐことができるのが、音楽隊員のささやかな役得です。
 滑走する速度がかなり速いため、通常の行進曲のテンポよりも早めに演奏しても、前奏から「軍艦」の歌が一回終って演奏を止める頃には、船体は既に水上に浮かんでいて、港内在泊の船舶が祝福の汽笛を吹鳴しています。
 帝国海軍でも、ほぼ同じように演奏されていたようです。

(4)その他必要と認められる場合
 この場合に該当するのは、音楽隊が「軍艦」を演奏する次のような時と考えられます。
ア 教育隊、学校等の修業式の見送りの場合
イ 艦艇の出入港の歓送迎の場合(交歓演奏を含む)
ウ 広報行事で市中行進の場合(複数の行進曲の場合もある)
エ 演奏会(アンコールとして演奏することが多い)
 どれも、演奏するのが当然だと思っていて〝必要と認められる場合〟として、特に指示されて演奏した記憶はありません。

行進曲の初演

 明治30年、瀬戸口が作曲した軍歌「軍艦」が、行進曲として〝明治33年4月30日、神戸沖の観艦式場へ向かう常備艦隊旗艦「富士」乗組み軍楽隊によって初演された〟と一般には流布されていました。これは音楽評論家の堀内敬三が、海軍軍楽隊の古老から聞いた話を根拠としていました。通常、楽曲の初演は、演奏会などの公開の場所で演奏する場合を言い、観艦式場に向う艦上は、場所としては最適ですが〝果たしてそのような時に、意識して初演したのだろうか?〟という疑問がありました。
 この観艦式の記録が、防衛研究所図書館所蔵『明治三十三年公文備考』の中にあり、観艦式式場図その他の資料から、初演の時期又は場所には根拠がないことが判明しました。
 観艦式直前、旗艦「富士」に伝染病患者が発生し、御召艦(天皇の乗艦)は急遽「淺間」に変更されました。観艦式前日「富士」は、受閲艦艇第一列の三番艦の位置に錨泊していて、当日は航行していません。式場図には、鉛筆で書き直した跡が鮮明に残されています。
 旗艦の「富士」には、当然軍楽隊が乗り組んでいたはずですが、御召艦に移すわけにもいかず、急遽横須賀から一隊を呼び寄せることになりました。常備艦隊と横須賀鎮守府の参謀間の、かなり切迫したやりとりの電報も残されています。
 以上のことから、「富士」艦上であれば別の日であり、日にちが正しければ「淺間」ということになります。いずれにしても今までの定説は誤りでした。

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