旧テロ対策特措法に基づく活動に従事した隊員たち

インド洋での活動について、そこにいた隊員達は、何をして、何を思っていたのか。
ここでは隊員からの言葉を通じて、活動の実際や出来事、日々の生活など、知られざる「現場」の一部を紹介しています。

護衛艦『ありあけ』の砲雷長として補給活動に従事

福田達也

「何事もなく任務を達成できたことが、自分自身にも、乗員にも、艦にも自信になりました」

2等海佐 福田達也 - 海上幕僚監部防衛部防衛課

福田2佐は平成15年4月10日から8月22日まで、補給艦に随伴した護衛艦『ありあけ』の砲雷長として活動に従事。なかなか知る機会の少ない護衛艦の活動とはどんなものだったのだろうか。

「艦艇がテロなどに最も狙われやすいのが洋上補給中です。給油のためのホースがつながれている状態なので動きがとりにくいですから。その際に不審な船舶や航空機が近づいてこないかを後方から監視・警戒すること、もう一つは洋上補給をしているときは乗員が上甲板から転落する危険もあるので、そのライフガード、この2つが護衛艦の主な任務です」

「砲雷長は武器全般を所掌しているため、まず自分たちの護衛艦に対する防護態勢を定められた手順に基づいて確立します」

インド洋での活動はいわば実戦配置。その際に生かされたのは、やはり訓練だという。

「幸いにして対処しなければならない場面はなかったのですが、それでも敵か味方かすぐには認識できない航空機や船舶が数多く近接してきます。そのために、出国前も、インド洋に向かう洋上でもどのように対処するか繰り返し訓練を行っていたので安心感はありました。訓練でできなければ絶対に実際には対処できませんからね」

多忙が伝えられるインド洋での活動。しかしそれは私たちの想像を超えるものだった。

「派遣時期はOEFに参加していた艦艇も非常に多く、実任務の回数もピークのときでした。さらにその合間を縫って、訓練もやらなければならないんですね。それはテロ対策特措法に基づく協力支援活動の訓練もありますし、通常の対潜戦・対水上戦・対空戦といった、国を防衛するための能力も維持・向上しなければならない。そういう意味で

かなり忙しかったですが、それにも増して充実感がありました」

何か印象に残っている出来事を、とお聞きすると、一つのエピソードを語ってくれた。それは部下に対する思いである。

「『ありあけ』は派遣中に、もう次の年にも派遣されるような話がありました。私は次の年は降りる予定で、乗員もそれを知っていました。その状況で面接して『来年もう一回行ってくれるか』と聞くのは非常につらかったんですが、ほとんどの乗員が『来年も行きます』と言ってくれた。それだけの高い士気を保ち、達成感や充実感を共有してくれていたことがうれしかったですね」

今回の活動を通じて得たもの、そして活動を通じて得られた成果とは何だったのだろう。

「自信ですね。約5カ月間、厳しい気象条件の中、テロが起きるかもしれないという状況下で、何事もなく任務を達成できたのは普段から行ってきた訓練の成果だと。それは自分だけでなく、乗員も、艦も同じだと思います」

「では成果とは何かというと、それは正直にいって見えにくいものです。しかし、少なくともテロが生起する蓋然性が下がることがあれば、それはわれわれの活動の成果だと考えたいですね。現在の仕事は他国の海軍と接する機会が多いのですが、海上自衛隊のインド洋でのプレゼンスは彼らにとっても大きな強みや励みになっていると聞きます。国民の皆さんには、今後も海上自衛隊の活動を温かく見守っていただければと思います」

最後に、また海外での国際平和協力活動に参加したいですか、との質問には「ぜひ。次は艦長として行きたいですね」と話してくれた。

(文/長谷部憲司 写真/井上若子)

補給艦『ましゅう』航海長

村山和久

「普段の訓練のおかげで各国政府からも好評価が得られました」

3等海佐 村山和久 - 補給艦『ましゅう』航海長

『ましゅう』における航海長の役割を教えてください。

私は航海長として、艦橋で操艦の任にあたっています。艦は基準針路に乗ってそのまま航行できればいいのですが、水上目標にほかの船舶、あるいは漁網やブイがある場合があるので、それを見張り、補給針路を決める現場指揮官にリコメンドするのが主な任務です

艦は操艦する者だけが動かしているように思われるかもしれませんが、実際は艦橋でのワッチ(当直)、レーダーで監視するCIC、通信、機関等々多くの隊員がかかわっているんです。そういったところからの情報を集約しながら、有機的に艦を動かすことに心掛けていました。

出国から帰国までは約半年という長丁場です。そんな中でも最も留意した点は。

重要な位置を占めると考えたのがメンタル面です。機械は壊れても直せますが、人はそうはいきません。従って訓練計画でも作業計画でも人が壊れないように、業務と休養のメリハリをつけるよう意を払いました

体力面できつかったのは、やはり40度を超える暑さですね。疲れを蓄積させると長丁場は持ちません。幸い全員元気に帰国しましたが、心身ともに安定していられる環境をつくるという点では、特に若い隊員の気持ちを察して上司や先輩がうまくコントロールしてくれたのだと思います。

他国艦艇とのコミュニケーションの機会はありましたか。

洋上で会合したときは、手旗信号や発光を使ってメッセージの交換をします。やりとりは「グッド・モーニング」「ありがとう」「安全なる航海を祈る」といった単純なものですが、そこは同じ船乗りなのでひとことで心が通じ合う

さらに同じ目的があるわけですから、こうしたら相手が助かるんだろうなとか、どうしたらよりうまくいくとか、多くを言わなくても分かりあえるんですね。入港する港が同じ時は、お誘いをいただいて訪問したこともあります。

補給活動に対する各国の評価は耳にされましたか。

コマンダーズ・コメントや、各国政府や大使などのメッセージを通じて、高い練度によってミッションが円滑に進んだことに対する評価をいただいたと聞いています。これは海上自衛隊が積み上げていた成果だと考えています。われわれも昨日今日訓練して行ったわけではありませんし、普段通りやれば、任務は完遂できるということだと思います。

今回の派遣を通じて得たことは何でしょうか。

目的を持って任務に当たると、特に若い隊員の士気が高くなり、積極的に努力するようになるんですね。日ごろの勤務においてしっかりと目的意識を持たせて、より高い成果が得られるよう意識しています。

(文/長谷部憲司、写真/在井展明)

補給艦『ましゅう』運用員

東海林武

「半年間の艦上生活で体重が7キロも落ちたんですよ」

1等海曹 東海林武 - 補給艦『ましゅう』運用員

運用というのは具体的にどんな仕事ですか。

運用にもいろんな配置があるのですが、今回私は導索(給油管を受け渡しするワイヤー)の作業員長をしていました。通常自衛艦同士では、補給を受ける艦は作業員がだいたい10名、索を引くときは走るなどやり方が決まっているんですが、ある国は1人とか2人でゆっくり引くといった具合に違うんですね。だから初めての時は、艦が近づくと今日は何人いるかと確認して調整していました。

作業では私の下に8名つくんですが、自分が作業しているときは隊員を見られないんですね。その際はほかの隊員が進言してくれてよく助けてもらいました。だから正直なところ、現場では目の前の仕事で精一杯で国際平和協力活動を担っているという力みはなかったと思います。役に立っているんだなと感じたのは帰国後で、ニュースなど報道を通じてですね。

今回の派遣を通じてよかったと思えることは。

私は2回目なんですが、最初の派遣のとき高脂血症だったんです。そこでドクターに栄養指導を受けて、艦上体育で運動を続けていたら、体重が7キロ落ちて健康になって帰ってきました(笑)。

それよりも本当に良かったと思うことは、今回は分隊先任という若い隊員を指揮する役割をいただいていたので自分よりも若い隊員の心身の健康を心配しましたが、けが、病気などがなく帰国できたことですね。

(文/長谷部憲司、写真/在井展明)

第1護衛隊群司令として派遣部隊を指揮

高嶋博視

「隊員が任務を継続することによって蓄積された自信、これは大きな力だと思っています」

海将補 高嶋博視 - 海上幕僚監部人事教育部長

高嶋将補が指揮官として第1護衛隊群を率いインド洋で活動したのは平成14年11月25日から15年5月20日までの約半年。当時を振り返りながら、指揮官としての胸の内を語ってくれた。

「出発に際しては、海外に出る指揮官は皆同じ事を考えると思うのですが、まず与えられた任務を完遂すること。加えて隊員をご家族からをお預かりしていくわけですから、総員を無事に連れて帰ること。この2つを大きな目標としました」

「私たちの場合、一つ特殊な環境だったといえるのは時期です。というのも米英軍等によるイラク攻撃開始が必至という段階になっていたからです。その時点では活動中に攻撃が始まった場合、われわれがどのようにかかわっていくのか分からなかったんですね。それは私自身も不安でしたが、かといって、指揮官として隊員に不安を抱かせるわけにはいかない。なおかつ何があっても対応できる準備をしなければならない。そういった苦しい胸の内はありました」

半年という長期にわたるオペレーション、そしてルーティンワークの繰り返し。そんな中で、士気の維持にはどのような気を配ったのだろうか。

「確かにメンタルな部分、つまり士気を維持すること、あとはフィジカル、健康体を維持すること、この2つは気を使いました。具体的には、寄港時に上陸した者はリラックスさせる、艦で体育をさせる、それくらいしかできないのですが」

「ただ半年間展開していて、心から気が抜ける日は1日たりともないんですよ。洋上ではもちろんですが、岸壁についても決して気を緩めることはできない。われわれ海上自衛官の脳裏に焼き付いているのはイエメンでの事件です(※)。その教訓もありましたから、特に岸壁に横付けしているときは警戒を怠ることはできない。それこそ岸壁を歩いているおじさんが撃ってくるとか、爆弾を投げ込むとか、そういうことも想定しておかなければならないんです。半年間、いかに隊員の士気を高いままに維持するか、これが指揮官のいちばんの苦労ですね」

2000年10月12日、アデン港に寄港していた米海軍のイージス艦『コール』に爆弾を積んだ小型船が突入し、米兵17名が死亡、35名が負傷するという事件

士気を維持することに関しては、隊員個々にも工夫があったようだ。

「隊員は毎日淡々と仕事をしていますので、カレーライスだけが曜日を教えてくれるんですね。また金曜日が来たと(海自では毎週金曜日の昼食はカレーであることが通例)。それが3、4カ月経つと、あと何回カレーを食べれば帰れるのかなあ、となる。われわれの時は、何月何日になったら帰れるというのは示されていなかったんですが、帰国まであとカレー何回、と自分で決めて(笑)、カレンダーにつけている隊員もおりました」

最後に、指揮官としてではなく、個人的に印象に残っている事をお聞きすると、次のように答えてくれた。

「私は15年の正月は現地にいて任務に就いていました。よく年賀状などで、枕詞のように、今年も平和に新年を迎えられたなどと書いたりしますが、あのときに見た中東の初日は、美しいだけではなく、平穏かつ無事に年を越すことができたという意味でも感慨深いものがありました。一生忘れられない思い出ですね」

(文/長谷部憲司、写真/井上若子)

海自の女性自衛官として初めてインド洋に派遣

池田由香子

「私たちに続いて、実任務に女性自衛官が就くことを心から願っています 」

2等海尉 池田由香子 - 補給艦『おうみ』通信士

補給艦『おうみ』で女性として初めてインド洋に派遣された池田2尉に当時の様子を聞いてみた。

今年3月に日本を出国し、8月に帰国。約5カ月の派遣任務中、補給回数は7カ国51回に及び、多忙ながらも充実感のある毎日を送りました。

任務は、洋上補給中の外国艦艇との無線交話や電報の作成ですが、通信がうまく設定できなかったり、直前になって開始時刻や給油量の変更要求があったりと、迅速な対応に苦労することもありました。また気温40度、甲板上は70度以上にもなる過酷な環境に加え、周辺海域には密輸船と疑われる船舶や、それを取り締まる各国海軍の艦艇が存在する常に緊張感のある中での勤務は、決して楽なものではありません。しかし、そのような状況下にあっても、乗員一人ひとりが自分の持ち場をしっかりと守り、淡々と作業にあたるよう心がけていました。

こうした補給活動の中にも、他国の艦船と小さな国際交流があります。盾などの記念品を交換したり、本艦の女性自衛官がパンを焼いて送り、お礼のカードが届いたこともありました。また、手旗信号や電光掲示板を使ったメッセージの交換もします。こうした交流の蓄積が相互理解を深め、5年に及ぶ日本の協力支援活動に対する信頼を培ってきたのだろうと思います。

今回乗艦した『おうみ』では、私を含め海自の女性自衛官16名が初めて派遣されました。私は防衛大学校で国際関係論を専攻し、国際協力の重要性を学び、将来実任務に就いて国防に貢献したいと思っていたので、今回参加する機会に恵まれたことを非常にうれしく思うと同時に、自衛官としての責任も感じています。

インド洋で活動する各国海軍の艦艇には多くの女性軍人が乗っており、彼女たちに負けじと総員が高い士気をもって勤務に励みました。

また、本活動に参加し、あらためて日本の活動が必要とされていることを実感し、自分も微力ながら世界の平和と安定に寄与できるという大きな自信を得ることができました。私たちに続いて実任務に女性自衛官が就くことを心から願っています。

補給艦『ましゅう』先任伍長

佐々木宣幸

「派遣期間中のトラブルも万全の体制でフォローしてもらいました」

海曹長 佐々木宣幸 - 補給艦『ましゅう』先任伍長

ご自身の持ち場、そして先任伍長という2役は大変ではなかったですか。

私のマーク(職種)は電機ですが、この艦の補給装置はほとんど電気でまかなっているので、普段はずっと操縦室にいました。もっとも、エンジンが壊れない限り私の出番はないんですが(笑)。

先任伍長としては、日本を遠く離れた場所での長期間の任務ということで、海曹士の心のケアに気を配りました。そのために絶えず隊員たちを見る、そして心の変化が現れていたら、個別に呼んで話を聞くようにしていました。また気分転換やメリハリをつけるため16名のCPOで、運動会やおはぎ作りなどのイベントを開催しました。

ただ、目的がはっきりした任務だったので隊員の仕事ぶりは素晴らしく、士気も高く保たれていて、大きな問題はなかったですね。

派遣期間中、特に印象に残っていることは。

1回目の派遣の時に、私が歯のブリッジを飲み込んでしまったんです。しかし現地の病院に行くにも外務省を通さなければならなかったのですが、半日もかからないうちに手配してくれたんですね。それからは何があってもきちんとしたサポートしてくれるものだと、隊員みんなが安心して任務に専念することができました。

(文/長谷部憲司、写真/在井展明)