駐屯地の沿革
1950(昭和25年) 山形県神町より警察予備隊第4連隊の先発隊高田に到着
1950(昭和25年) 第4連隊が霞目、特科第20連隊が神町から移駐し、駐屯地として開設
1953(昭和28年) 第2連隊が松本から移駐し第2普通科連隊に改編
1962(昭和37年) 第107施設大隊が勝田(現ひたちなか市)から移駐
1972(昭和47年) 第107施設大隊が廃止され第5施設群新編
2000(平成12年) 駐屯地司令交代(第2普通科連隊長→第5施設群長)
2001(平成13年) 第12師団の改編に伴い第2普通科連隊改編
第1普通科直接支援小隊改編
2002(平成14年) 第5施設群改編
第2施設直接支援中隊新編
2004(平成16年) 第307施設隊・第2直接支援隊新編
2011(平成23年) 第307施設隊・第2直接支援隊、宇都宮へ移駐新編
2016(平成28年) 第5施設群新編(6個中隊から4個中隊へ)
2023(令和 5年) 第2普通科連隊重迫撃砲中隊新編・電子作戦隊第101電子戦隊(一部)新編
2025(令和 7年) 第5施設群改編(4個中隊から3個中隊へ)
高田駐屯地の歴史
〇陸軍第13師団入城から終戦まで
高田駐屯地の歴史は、明治41年の陸軍第13師団の誘致、入城まで遡る。
明治維新以降、当地の高田藩が、幕府側に近いことから主流から外れ、寂れる城下町を活性化させようと、陸軍の誘致に至り同地域の熱烈な誘致運動の末、明治41年陸軍第13師団の配置が決定し、現高田城址公園を中心に師団各部隊が配置されました。
現在の高田駐屯地の場所には、野砲兵第19連隊の営舎が整備され、終戦まで陸軍の各部隊が駐屯しました。 主要な駐屯部隊は、野砲兵第19連隊(明治42年~大正14年)独立山砲第1連隊(大正14年~昭和12年)山砲兵第19連隊(昭和12年~19年)航空通信隊(昭和19年~20年)です。
〇終戦から高田駐屯地開設、部隊の新編、移駐、廃止
戦後、高田駐屯地の場所は、昭和20年9月25日~昭和21年2月20日に進駐軍(米軍歩兵165連隊後に第303野砲大隊)が昭和22年6月~昭和24年6月に新潟鉄道教習所高田分校が使用しました。
国防意識が高まり昭和25年警察予備隊が発足、旧高田市はその誘致に乗り出し部隊配置が決定しました。
昭和25年11月10日山形県 神町から特科第20連隊の開設要員6名が到着し、続いて11月25日に先遣設営隊約200名が到着、「分遣隊高田本部」を開設しました。
以来、高田駐屯地では、この11月25日をもって「高田駐屯地創設の日」としています。
同年12月には特科第20連隊の主力と第4連隊(宮城県 霞目)約2700名が到着し2等警視正、真下英三郎が初代駐屯地司令として着任しました。
昭和26年5月1日には郷土部隊配置が下令され、第3連隊を初めとする7個部隊が編成完結しました。
昭和27年10月15日保安隊が発足、昭和28年3月、第3連隊が北海道名寄市へ移駐し、代わるように第2普通科連隊の前身である第2連隊が長野県松本市から移駐、昭和29年7月1日に自衛隊発足、同時に第2連隊が第2普通科連隊に改編され、昭和47年に第5施設群が新編、いくつかの部隊の新編、移駐、廃止を繰り返し現在に至っています。
高田駐屯地ゆかりの人物
【長岡 外史】
明治43年、第3代第13師団長として勤務しました。好奇心旺盛な長岡師団長は、視察に訪れていた旧オーストリア・ハンガリー帝国の軍人「レルヒ少佐」が伝えたスキーを軍隊にはじめて導入し、広く市民にも普及させました。高田の地が「日本スキー発祥の地」として知られるのも長岡師団長のおかげです。また飛行機の開発・導入に尽力し「日本飛行機の父」とも呼ばれ、七十センチにも及ぶトレードマークの髭は「プロペラ髭」と呼ばれました。更に自らが居住する師団長官舎もヨーロッパでの生活経験を生かし、それを設計に反映させ明治43年に完成、現在も保存され上越市の観光スポットとして脚光を浴びています。
【秋山 好古】
司馬遼太郎の歴史小説「坂の上の雲」でも有名な陸軍軍人で「日本騎兵の父」と言われています。勤勉かつ豪快な人物として知られ、数々のエピソードで彩られています。大正2年、第4代第13師団長として着任しましたが高田での勤務は短くわずか2か月で中国へ出兵しています。長く勤務していれば高田の地でも数々のエビソートを残したことでしょう。
【蒋介石】
初代中華民国総統で、台湾の方にとってはカリスマ的な指導者です。明治43年、高田駐屯地に所在した陸軍野砲兵第19連隊に入隊し青年期を過ごしました。母国の辛亥革命により急遽帰国し高田での勤務は11か月でしたが「この勤務が人生に与えた影響は極めて大きい」「新潟は第二の故郷である」と言わしめました。
【レルヒ少佐(テオドール・エドラー・フォン・レルヒ)】
オーストリア・ハンガリー帝国軍人で明治43年に日露戦争に勝利した日本軍の研究のため来日、スキー熟達者であったレルヒ少佐は、明治44年1月に陸軍歩兵58連隊(現在の市立城西中学校付近)将兵に対しスキー技術を伝授しました。以降、長岡外史師団長の依頼もあり民間への普及にも尽力し、上越市は「日本スキー発祥の地」となりました。











