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みつや表紙

令和8年度 自衛官候補生課程

 3月31日及び4月1日、第13旅団の各教育隊に自衛官候補生が着隊しました。
 着隊した当初は緊張した面持ちでしたが、自衛隊での生活にも徐々に慣れ、一緒に過ごす同期の仲間たちとも徐々に打ち解けていきました。これから自衛官として必要な知識及び技能の習得に励みます。

令和8年度 自衛官候補生課程(入隊式)

 4月11日(土)第13旅団の各教育隊において自衛官候補生入隊式を挙行しました。
 候補生は、駐屯地に来たばかりの頃に比べ、凛々しい表情をしており、逞しさを感じさせていました。これから同期とともに苦楽を共に、切磋琢磨して成長していきます。

令和8年度 教育訓練基盤構築(日本原)

 第13旅団は4月10日(金)から4月20日(月)までの間、日本原演習場(岡山県)において教育訓練基盤構築を実施しました。
 教育訓練基盤構築は射撃訓練場、演習場内の幹線道路などを維持・補修する重要な作業です。各種重機、チェンソー、草刈り機等を使用し、安全に実施しました。

百万一心

隊長写真

「死生観」
第8普通科連隊長
中尾 圭介 1等陸佐

 先日、ある戦国時代のドラマで、主人公である男性との祝言が間近に迫った女性が農民同士の争いに巻き込まれて命を落とすというシーンがありました。幸せ絶頂の2人に起きた突然の不幸だっただけに、多くの視聴者が悲しみ、その一人である私もボロボロと泣いたことを覚えています。そのシーンを通じて、戦国時代には、大名間の対立だけではなく、資源の奪い合いも激しく、医療も発達していなかったため、命を落とす可能性は今よりも格段に高かったのだと改めて感じた次第です。
 私は佐賀県出身です。佐賀県は「葉隠」発祥の地であり、「葉隠」の記述には「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」という有名な一節があります。この言葉を耳にしたことがある人も多いのではないでしょうか。「葉隠」とは江戸時代中期に書かれた書物であり、佐賀藩主鍋島光茂に仕えた山本常朝が佐賀藩士に対して口述した武士の心構えや生き方などが筆録され、全11巻に及びます。また、この「葉隠」は武士道の鑑と称され、作家の三島由紀夫も愛読していたと言われています。「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」という一節を聞いた多くの人は、「武士道とは、目的のために死を厭わないことが美徳としているのか」という印象をお持ちになっているのではないでしょうか。しかし、この一節は次のように続きます。
 「二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片附くばかり也。別に仔細なし。胸すわつて進む也。(中略)毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕果すべきなり」
 これを現代文で簡単に言い換えると、「武士道とは、死ぬ事であると悟った。二者択一を迫られる時は、早く死ぬほうを選べばよい。細かな事を気にせず、腹をくくって進めばよい。(中略)毎朝毎夕、死んだ身になって、いつでも我が身を捨てる覚悟とその準備ができていれば、我が身が大事であるという束縛から解放され、その自由になった心で仕事に取り組めば、一生落ち度なく役目を果たすことができるのである。」ということになります。
人は一度、この世に生を受ければ、必ず死を迎えます。現代の日本は、医療が発達し、紛争を身近に感じる機会が少ないため、多くの人が自分の死について考えることは少ないと思います。しかし、冒頭で述べた通り、戦国時代は現代よりも命を落とす可能性が格段に高かったため、死に対する考え方は現在と全く違い、死は身近なものとして捉えられていました。「葉隠」は、身近な「死」を見つめ、その時がいつ訪れてもいいように、どう「生」きるかを説いているのです。

 我々自衛官は、入隊する際に「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託に応えることを誓います。」と宣誓しています。全ての自衛官が実際にそのような時が来ないことを切に願っていると思いますが、自衛官である以上は入隊時に宣誓したことの重みを自覚し、「葉隠」が説くように、一日一日、「死」を身近に捉え、今どう「生」きるべきか自分自身を問い正すべきだと思います。
 もし、今その時が訪れたらどうしますか?きっと、自分自身がやり残したことへの後悔、残される家族の心配等、様々なことが思い浮かぶのではないでしょうか?その心配事こそが今あなたが取り組むべき課題だと思います。皆さん、いつ何が起きても迷わずに安心して任務に邁進するためにはどうすればいいのかを考え、一日一日を大切にして一生懸命過ごしましょう。

三矢の訓え

先任写真

「人には優しく、
自分には厳しく」
第46普通科連隊本部管理中隊
先任上級曹長
石津 和弘 准陸尉

 令和6年11月1日付をもって、本部管理中隊の先任上級曹長に上番しております石津准尉です。上番して早や1年5か月が経過しましたが、この度ようやく投稿の機会を頂きましたので、私の座右の銘である「人には優しく、自分には厳しく」についてお話したいと思います。
 この言葉は、私が恩師と慕っていた小学生時代の担任の先生から贈られた言葉であり、私という人格を形成する上で今でも精神的支柱となっているものです。先任上級曹長という職を拝命した折、部隊の現状を私なりに分析してみたところ、ひと昔前に比べて著しく帰属意識が失われつつあると感じました。微力ではありますが、連隊や中隊に愛着を持って貰いたい一心で日々の業務に励んでいるところであり、その具体的な取り組みの中でまずは私の机を幹部室から事務室へ移動させることで曹士にとって身近な存在であることを意識付け、誰でも話し掛けやすい環境を整えました。
 しかしながら、過ちや失敗を犯す隊員が全く無くなるわけではありません。感情的に叱責した方がどんなに楽かと思ったことも多々あります。その都度、恩師の言葉を思い出し、優しく接するよう心掛け、過ちや失敗を糧に更生の道を歩めるよう善導することが帰属意識を育むと私は思います。また、私は口下手なところがあるため、普段から自分に厳しくある姿を見せることにより曹士が感化されるものと信じてこれからも曹士の模範となれるよう努力し、本部管理中隊の先任上級曹長の職を全うする所存であります。

spotlight

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第13飛行隊
菅原 慎太郎 2等陸尉

 菅原2尉は、平成30年4月に防衛大学校に入校し、卒業後は第13飛行隊(防府)に部隊配置されました。幹部操縦課程を卒業後は、情報幹部兼操縦士として活躍しています。

Q1 自衛隊に入隊したきっかけは何ですか?

 私は、国防という国家の根幹に関わる任務に魅力を感じ、防衛大学校に進学を希望しました。特に現在日本を取り巻く環境は、戦後最も複雑であるため、日々精進し国民の命を守る責任ある職業に就きたいと考えたからです。

Q2 現在の職種(航空科)を希望した理由はなんですか?

 近年、災害の激甚化により迅速な初動対処の重要性が増しており、その中でヘリコプターは人命救助や物資輸送において不可欠な存在です。私は、最前線で国民の生命を守る任務に直接関わりたいと考え、航空科を志望しました。
 低空・悪条件下での運用が求められる厳しい環境に身を置き、自らの技量と判断力を高めながら任務・訓練を遂行したいと考えています。

Q3 学生時代の部活動は何ですか?

 應援團リーダー部
 「漢は黙って、やせ我慢」を團訓に日々精進していました。

Q4 あなたの自慢(長所)を教えてください。

 ベンチプレス130kgです。パワー!!!!

Q5 自衛隊での一番の思い出を教えてください。

 幹部候補生学校卒業時に、ヘリコプターで迎えに来ていただき、部隊に直輸送していただいたことです。

Q6 入隊して苦労したことは何ですか?

 陸上単発タービン(ヘリコプターの免許)取得です。

Q7 自衛官を目指す人にメッセージをお願いします。

 自衛隊は、職種が非常に多く、自分に合った役割を見つけられる組織です。また、任務の遂行は多くの人との連携で成り立つため、自然とコミュニケーション能力や協調性が養われます。これから目指す人には、人との関わりを大切にしながら挑戦してほしいと思います。

ベテランズコーナー

ベテランズコーナー

「災害派遣黎明期」
山口県隊友会 下関支部長
松村 靖

 自分は海自の航空学生として入隊し、全国行脚の後に古巣の小月基地で退官し、その後下関市の防災専門官を約8年させていただきました。
 さて、みつや読者の方々は、ほとんどが災害派遣に関わったことがあると思います。今日では当たり前となった自衛隊の災害派遣の、その黎明期についてお話ししたいと思います。
 1951年の台風15号「ルース」は、死者・行方不明者943名を出し、特に甚大な被害となった山口県知事は、小月駐屯地の警察予備隊に救援を要請しました。当時の小月基地は米軍接収の解除直後で、警察予備隊小月訓練所を開設。ここを母体とした第4管区隊第11連隊が編制されたばかりの頃です。その後、保安隊を経て陸自が発足、小月の部隊も第11普通科連隊へと変わってゆきます。
 ただし厳密にはこの台風の3ヶ月前、京都府が大水害に遭い、警察予備隊は市長からの要請を受けて出動しました。ところがこれは首相の承認を得ていなかったため、隊長は処分されてしまいます。
 そのような経緯からルース台風の際、警察予備隊は災害派遣を躊躇します。このため最初に出動したのは岩国航空基地にいた進駐軍でした。しかし現地の悲惨な状況を知った小月駐屯地の指揮官は、福岡県の上級司令部に訴え、そこから吉田茂総理に直接伝わることとなり、首相の「鶴の一声」で災害派遣が決定したのです。この災害派遣では2個中隊300名が現岩国市の錦町に出動、道路復旧や必要な物資輸送に尽力しました。このようにして小月からの派遣は、公式に認められた最初の災害派遣となったのです。
 20年以上も前の小月勤務時、家族で島根の国民休暇村に遊びに行った際、そこの管理人さんに「小月から来たのですが田舎なのでどこか知らないでしょう」と話しかけたところ、「自分は小月の警察予備隊で訓練を受けた1期生だよ」とおっしゃられ、本当に腰が抜けました。