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みつや表紙

令和4年度旅団戦技競技会(総合)

旅団は、2月27日(月)~3月1日(水)の間、令和4年度戦技競技会(総合)を広島県・原村演習場において実施しました。
本競技会は、戦闘員として必要な戦闘戦技能力の維持向上及び各部隊の団結・士気の高揚を図ることを主たる目的として実施されました。
隊員は、丸太またぎなどの数々の障害を乗り越えゴールを目指しました。

丸太またぎ

丸太またぎ

ジグザグ一本橋

ジグザグ一本橋

またぎ障害

またぎ障害

文隊射撃

文隊射撃

低鉄条網

低鉄条網

手りゅう弾投てき

手りゅう弾投てき

壁登り

壁登り

担架搬送

担架搬送

令和4年度旅団戦技競技会(結果)

部隊対抗の部優勝部隊
Aグループ 【第46普通科連隊】
Bグループ 【第13偵察隊】
Cグループ 【第13高射特科中隊】

分隊対抗の部優勝分隊
Aグループ 【第46普通科連隊 第23分隊】
Bグループ 【第13通信隊 第3分隊】
Cグループ 【第13高射特科中隊 第6分隊】

Aグループ優勝 第46普通科連隊

Aグループ優勝 第46普通科連隊

Bグループ優勝 第13偵察隊

Bグループ優勝 第13偵察隊

Cグループ優勝 第13高射特科中隊

Cグループ優勝 第13高射特科中隊

令和4年度女性自衛官会同

旅団は、3月7日に女性自衛官会同を実施しました。この会同は、自身の職責を自覚させるとともに、じ後の隊員育成の礎とすることを目的として、部隊の女性自衛官代表者が、女性の視点から、より良い職場環境向上及び隊員育成について意見交換しました。

会同の様子➀

会同の様子➀

会同の様子➁

会同の様子➁

第2回フォロー広報

米子駐屯地は、3月17日に第2回フォロー広報として、入隊予定者に対して駐屯地見学を実施しました。

体験喫食

体験喫食

駐屯地見学

駐屯地見学

東広島・安芸バイパス開通式典祝賀パレード演奏支援

第13音楽隊は、3月19日に実施された東広島・安芸バイパス開通式典祝賀パレードにおいて、演奏支援を実施しました。

バイパス開通の様子

バイパス開通の様子

演奏でパレードに華をそえました。

演奏でパレードに華をそえました。

旅団最先任上級曹長に田中准尉が着任

3月10日に、旅団最先任上級曹長に田中准尉が着任しました。

第8代 第13旅団最先任上級曹長 田中准尉

第8代 第13旅団最先任上級曹長 田中准尉

交代式の様子

交代式の様子

新着任部隊長

3月13日に、第8普通科連隊長(鳥取県・米子)に阿部1佐、第46普通科連隊長(広島県・海田市)に宮原1佐、第13特科隊長(岡山県・日本原)に西田1佐が着任しました。

第8普通科連隊長阿部1佐

第8普通科連隊長
阿部1佐

第46普通科連隊長宮原1佐

第46普通科連隊長
宮原1佐

第13特科隊長西田1佐

第13特科隊長
西田1佐

百万一心

隊長写真

「一利一害」
第13特科隊本部管理中隊長
あさ 優  ゆう3佐

一利を興すは一害を除くにしかず。
一事を生(ふ)やすは一事をへらすにしかず。
3度目の中隊長を拝命して1年が過ぎた。過去の上番は平成19年と平成27年であった。今回上番して感じたのは、「中隊長印の押印箇所がやたらに増えたなぁ」ということである。最初の上番時の2倍くらいは押印しているのではないかと思い、数えてみたら月に2000箇所も押印していた。この15年何やかやで、新しい規則がたくさんできた。当然それにより作るべき紙も増え、押印する箇所も増えたのである。
  そこで安岡正篤の『百朝集』に紹介されている冒頭の言である。これは、蒙古帝国でチンギス・カンに惚れこまれ、30年以上も国政を担った耶律楚材(やりつそざい)の言である。安岡正篤はいう。「元来世間の事は雑草のやうに、油断をすれば際限なく生(ふ)えてゆくものである。事件が次から次へと増加してゆくと、その繁雑に紛れて段々余裕も反省もなくなってしまふ。そして結局破滅に陥るものである。絶えず問題を省みると共に省いて、手にも心にも余裕を存することが必要である。(中略)整理とか償却とか節約とかいふやうなことは、とんとやり栄えが無い。そこで『一利を興す』方を好んで、『一害を除く』ことはなかなかやらない。その中に積弊が手のつけやうもないほどになってしまふ。」さらに、「これが革命を誘発するのである。」とまでいう。
  さて、昔はドンと構えていた中隊長も、「一利」を狙った規則やローカルルールの連発によりマイクロマネジメントをするようになった。例えば、私は先月、「中隊が1円切手を持っていないことを中隊長が確認」した署名をした。このような恒常の業務におけるマネジメントは係陸曹の業務量を増大させ、また、中隊長が「営内班長化」して小隊長や陸曹の立場を奪い、彼らのやりがいと指導力を低下させる要因となってはいないだろうか。
  新しい戦闘様相における指揮が「中央集権型」から「権限委譲型」を模索する今、まずは恒常の業務からマネジメントの「革命」が必要なのかもしれない。

三矢の訓え

先任写真

「今日という一日を そして・・・『楽しまずして何の人生ぞや』」
第13戦車中隊
先任上級曹長
おおつか 豊 ゆたか 准尉

令和4年8月より第13戦車中隊第6代先任上級曹長に上番をして、約8か月の月日が経ちました。「上意下達・下意上達」による隊務全般に関する指揮官補佐、特に、指揮官の見えない現場の実態をフィードバックするという事が先任上級曹長の役割であることを胸に、また、准・曹・士の育成という重要な役割に、新米先任上級曹長として日々模索しながら一日一日を過ごしておりますが、そんな中で私が日々各隊員にこうなってもらいたいと望んでいることがあります。それは「明るく、楽しく、自分らしく」です。どんな人でも人生は一回です。どうせなら二度と戻らない一日一日を「明るく、楽しく、自分らしく」生きていければ最高であると私は考えます。明るく生きていくためには楽しみが必要であります。そして、楽しみを見つけることで、当然楽しくなり、幸福感に満たされ、自分らしさが築き上げられ、自分の気持ちに正直に自分らしく生きていけるでしょう。まず、今から今日を楽しみましょう。
 そして・・・・・「楽しまずして何の人生ぞや」この言葉は小説家の吉川英治さんの名言です。私はこの言葉と出会ってからは、何かをやる時はどうせなら「楽しもう」と心掛けるようになりました。皆さんも日々を楽しんでください。私も、先任上級曹長として各隊員が自分の事を知り、大切にして、日々充実した生活が送れるような環境作りを形成すべく精進する所存であります。その結果、各隊員が充実を獲得する事により、体力・気力の充実した隊員が増え、各隊員が相互理解に努め、団結して、任務遂行の際は、莫大なエネルギーを発揮してくれる事でしょう。そしてどんな困難な任務も完遂してくれる事と思います。
  皆さん、何かちょっとした事でもいいので、楽しみを見つけましょう。毎日が楽しく、日々笑顔が絶えない事でしょう。心から笑うことは元気の特効薬です。日々を楽しく。

自反   第13戦車中隊

第13戦車大隊創設時からの装備戦車の変遷について紹介します。
1 昭和37年(1962年)
  第13戦車大隊創設時に装備していた戦車は、M-24軽戦車(写真①)であった。米軍供与品であり、第二次世界大戦後は多くの西側諸国に供与されていた。

写真① M-24軽戦車

写真➀ M-24軽戦車

2 昭和40年(1965年)
  昭和40年、第13戦車大隊が日本原駐屯地に移駐した当時の装備戦車は、同じく米軍供与のM-4中戦車(写真②)及びM-41戦車(写真③)であった。
  シャーマンの愛称で知られるM-4中戦車は、第二次世界大戦において米国主力戦車として使用された。M-41戦車はM-24軽戦車の後継として開発され、実戦では朝鮮戦争やベト
  ナム戦争で投入された。自衛隊においては、M-24軽戦車に替わる形で採用された。昭和41年には岡山県を戦車6両で一周したという記録が残っている。
  

写真② M-4中戦車

写真➁ M-4中戦車

写真③ M-41戦車

写真➂ M-41戦車

3 昭和47年(1972年)
  昭和47年3月、第13戦車大隊に61式戦車(写真④)が配備された。戦後初の国産戦車であり開発担当は三菱重工であった。第13戦車大隊では平成8年に納め式が実施され、
  平成11年に最後の61式戦車が用途廃止となった。

写真④ 61式戦車

写真➃ 61式戦車

4 平成5年(1993年)
  平成5年3月、第13戦車大隊に74式戦車(写真⑤)が配備された。その後、平成11年の改編に伴う第13戦車中隊の創隊を経て、令和5年に至る現在においても第13戦車中隊の
  主要装備品であり、年度末の改編に伴い第13戦車中隊とともに、その歴史に幕を閉じようとしている。

写真⑤ 74式戦車

写真➄ 74式戦車

spotlight

spotlight写真

第13偵察隊
ぐち 大ひろ

樋口士長は令和3年3月に一般曹候補生として入隊し、新隊員前期(松山駐屯地)、後期(今津駐屯地)を経て、第13偵察隊へ配属、現在は電子偵察小隊センサ手として活躍しています

Q1 自衛隊に入隊したきっかけは?

   学生時代から人を守る仕事がしたいと思ったため、入隊しました。

Q2 なぜ機甲科を希望したか?

   偵察用オートバイに乗りたいと思ったからです。

Q3 学生時代の部活動は?

   高校では野球を、大学ではバレーボールをしていました。

Q4 機甲科部隊に入って苦労したことは?

   多種多様な装備の性能等を学び、それを適時適切な時に活用することが大変だと感じました。

Q5 自衛隊を目指す人に助言をお願いします。

   体力等に自信がなくても、入隊してから同期達と切磋琢磨できます!

Q6 あなたの自慢を教えてください。

   元気と体力が人一倍あります!

Q7 自衛隊での一番の思い出は?

   新隊員時代に同期達と切磋琢磨し合い、どんなことでも達成できたことです。

ベテランズコーナー

ベテランズコーナーt写真

鳥取県隊友会 西部地区会広報担当
むら 博 ひろ

「同期の絆」
昭和33年(1958年)6月福知山駐屯地第6新隊員教育隊へ入隊した。血気盛んな青春真只中の十八歳300余名が同じ志をもって三カ月間汗と土に塗れた。
福知山の梅雨は、朝霧が立ち込め日中の蒸し暑さは天下一品。主訓練場の長田野での戦闘訓練では水筒が空になり、水たまりの泥水を飲んだこともしばしばだった。一生の内の僅か三カ月であったが、これまでに経験したことのない貴重な体験はその後の人生に大きく影響することとなる。教育が終了して各駐屯地へ配属され数年たった頃、同期生会を!と声が上がり、発起人に指名され東奔西走して名簿を作成した。区隊内の出身地は鳥取、島根が主であったが広島、岡山も数名混じっていた。会の名称は強烈な印象が残る「長田野会」にした。初会合は五十数名の参加があり、当時の教育中隊長、区隊長、班長も招待した。その後三年ごとに温泉地を主に各県持ち回りで開催した。十五回目の例会は城崎温泉で行い、福知山駐屯地を訪問して当時の隊舎址に立ち、しばし当時の思いにふけった。また一番の思い出の「長田野」も訪れたが工業団地と化し、残念ながら当時の面影は見ることができなかった。
  回を重ねると、上は佐官に上り詰めた者、一任期で退官した者など様々だが、会が始まると総じて2等陸士に帰った。例会は三十数回に及んだが、総じて退官して半数近くが鬼籍に入った事から、発展的解消で惜しみつつも終了した。しかし、時折、お茶飲み会は続けて同期の絆は固く、生涯続くことでしょう。