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みつや表紙

鳥インフルエンザ対応

第46普通科連隊は、令和4年12月30日から令和5年1月2日、また令和5年1月10日から18日までの間、広島県内における鳥インフルエンザ発生に伴い、広島県知事からの災害派遣要請を受理し活動を行いました。
旅団は第46普通科連隊、第13後方支援隊、第13施設隊及び第13通信隊を派遣し、第132地区警務隊の支援を受けて昼夜にわたる活動を行いました。

養鶏場内で活動する隊員

養鶏場内で活動する隊員

自治体との調整

自治体との調整

活動地域を視察する旅団長(中央)

活動地域を視察する旅団長(中央)

昼夜を問わず継続して活動

昼夜を問わず継続して活動

分担して迅速に処置

分担して迅速に処置

ICE訓練

旅団は1月10日から海田市駐屯地、川西駐屯地等において、指揮所訓練統裁支援システム(ICE)を活用した訓練を実施し、指揮幕僚活動の練度向上を図りました。

作戦会議

作戦会議

幕僚活動

幕僚活動

ICEの入力を行う隊員

ICEの入力を行う隊員

訓練終了後のAAR

訓練終了後のAAR

官用車両無事故走行 陸幕長から表彰      第8普通科連隊

第8普通科連隊は令和4年12月20日、陸上幕僚監部で行われた表彰式において、官用車両無事故走行400万km達成の功績により、陸上幕僚長から第2級賞状を受賞しました。

第2級賞状を授与される堀田連隊長

第2級賞状を授与される堀田連隊長

陸上幕僚長との記念撮影

陸上幕僚長との記念撮影

成人行事

1月9日の成人の日に併せて旅団地区内各駐屯地では、二十歳を迎えた隊員を祝う行事が行われ、抱負の発表、記念植樹、記念会食等が行われました。

抱負の発表(米子駐屯地)

抱負の発表(米子駐屯地)

綱引き(出雲駐屯地)

綱引き(出雲駐屯地)

二十歳の誓い(海田市駐屯地)

二十歳の誓い(海田市駐屯地)

抱負の発表(山口駐屯地)

抱負の発表(山口駐屯地)

持続走競技会 第13後方支援隊

第13後方支援隊は令和5年1月10日から12日までの間、海田市駐屯地において持続走競技会を行いました。中隊等対抗(総合)の部の優勝は衛生隊でした。

令和5年のスタート!

令和5年のスタート!

優勝した衛生隊

優勝した衛生隊

百万一心

隊長写真

「刷り込みからの脱却」
第13特科隊長
さか 健  けんいち1佐

私は高校の英語教諭の父と小学校教諭の母との間に産まれた。自宅には「はだしのゲン」という広島の被爆漫画が置かれ、戦争とは国民全員に忍耐を強いる国家総力戦により行われるものだと幼い私は信じていた。
私がひょんな事から陸上自衛隊に入隊してからもその刷り込みはすぐには変化しなかった。陸上自衛隊で学んだ戦術の殆んどは師団級の地域戦であり、国家総力戦という刷り込みとは異なる教育訓練の繰り返しに、いつしか「訓練と戦争は別モノ」との概念が自分の脳内で整理されていた。
しかし陸上自衛隊での勤務経験を積み重ね、また国内外情勢に目を向け学び進めていく中で、国家総力戦の刷り込みが徐々に解消していった。現代において発生する紛争の殆んどは2国間紛争で行われる地域紛争である。かつ、紛争の多くは国内全域ではなく特定の地域に限定して発生し、その他の地域においては、一部の制約はあるものの農業・産業や行政を始めとする国民の生活は平素のとおりに淡々と継続する。事態が生起したら我々陸上自衛隊は、国民の大半が日常生活の営みを続ける中で紛争地に赴き、紛争を解決する。出動に際しての部隊行動も、局地的な紛争地で展開される戦術行動も今現に陸上自衛隊で行っている教育訓練がそのまま当てはまるものだということを、徐々に実感できるようになった。
幼い頃に意識の中に沈着した刷り込みがいつ何時目を覚ます可能性がないとは限らないがリアルな危機意識を持って教育訓練に取り組んでいる今の自分は、少なくともこの刷り込みからは脱却できているものと信じている。

三矢の訓え

先任写真

「志」
第17普通科連隊第3中隊
先任上級曹長
まつうら 誠 まこと 准尉

山口駐屯地に赴任し9カ月が経ち、その間、小銃小隊長に上番後、現在先任上級曹長を拝命し仕事や生活環境に慣れたところであります。
私は、山口県萩市に生まれ育ち、小学校時代、明治維新で活躍する多くの人材を輩出した幕末の私塾「松下村塾」の吉田松陰先生について学びました。その時、吉田松陰先生の言葉を毎朝、ホームルームで朗唱していました。その朗唱の言葉で一番印象に残り今でも座右の銘として大切にしているのは、「志を立ててもって万事の源となす。書を読みてもって聖賢の訓をかんがう」と言う言葉です。
志を立てることからすべてが始まり、多くの書籍に触れ、聖人、賢人の教えを参考にして、自分の考えをまとめることが大切であるという意味です。また、高い志を定め、将来の夢を大きく描き、自分の生き方に対し前向きな心をむけることが大切であります。
私も自衛隊生活で、年の初めに志を立て日々挑戦し失敗を恐れず、成長していきたいと心がけています。どんな小さな目標でも構いません。その目標に一つ一つ努力を重ね、成し遂げていくことが「志」へと繋がり、個人の成長が部隊の精強化に結びつくと確信しています。

自反 第13旅団

今月は、「昭和38年(1963)年1月豪雪に伴う災害派遣」について紹介します。 
1962(昭和37)年12月末から1963(昭和38)年2月初旬にかけて、北海道から九州に至る広い地域に降った雪は、積雪量が平年の3倍に達する地方も生ずる未曽有の豪雪でした。北陸地方では国鉄を含み主要幹線道路の交通が完全に途絶し、また、東北、近畿、中国、四国各地方の山間部でも交通途絶、孤立集落等の被害が生じ、広域かつ長期にわたる災害となりました。
1963(昭和38)年1月21日1340、富山県知事から富山駅除雪の要請を受けた第14普通科連隊長が、副連隊長の指揮する約200名を派遣したのが本災害派遣の皮切りとなり、その後も降り続く積雪による被害の増加により、派遣規模も逐次拡大しました。
中国地区の部隊も当初は富山県に派遣されていましたが、中国地区の被害の増加に伴い、管内の派遣活動も増加しました。

師団管内(鳥取、島根、山口)における災害派遣:13件
派遣期間:1963(昭和38年)2月3日から3月7日
派遣人員:4646名(第8普通科連隊、第17普通科連隊、第13特科連隊、第13施設大隊)
活動実績:道路啓開119.5Km、除雪量298,034m3、物量投下200kg、人員空輸3名

10師団地区(北陸地区)への増援 派遣期間:1963(昭和38)年2月3日から2月14日 活動実績:除雪量128,578m3 派遣人員:1610名(第8普通科連隊、第15普通科連隊、第17普通科連隊、第13特科連隊、第13戦車大隊、第13輸送隊、第13補給隊)

むつみ村高俣中学校で(山口県)

むつみ村高俣中学校で(山口県)

阿武町郡阿東町徳佐(山口県)

阿武町郡阿東町徳佐(山口県)

山陰地区

山陰地区

北陸地区

北陸地区

spotlight

spotlight写真

第13通信隊
うら 大  たい  士長

三浦士長は令和2年4月に自衛官候補生として入隊し、新隊員前期を海田市駐屯地、後期教育を善通寺駐屯地で過ごした後、第13通信隊に着隊、現在は暗号電信手(通信科)として活躍しています。

Q1 自衛隊に入隊したきっかけは?

親戚の影響が一番大きかったと思います。子供の頃から自衛隊の話を聞いており、胸を張って話をしていた親戚を見ていると、いつの日か憧れるようになって入隊しました。

Q2 なぜ通信科を希望したか?

入隊する前に親戚から話を聞いたり、資料等を見て通信科に入りたいと思っていて、前期教育の時から通信科を希望しました。

Q3 学生時代の部活動は?

中学・高校と陸上部長距離に所属していました。

Q4 通信隊に入って苦労したことは?

第13通信隊は、旅団唯一の通信科部隊であり、身体で例えると、神経のような役割をしており、神経は脳から全身に信号を送り、体一つ一つを動かすことができています。私達通信隊が情報を正確に流さなければ、他部隊は動くことができません。私は、モールス信号や無線通話をより迅速・正確・確実に自信を持ってできるまで、とにかく努力しました。現在では、実際に私も通信を行い、情報を伝達しています。

Q5 自衛隊を目指す人に助言をお願いします。

  

自衛隊を目指している方、入隊しようか悩んでいる方、やらずして損してしまうより、やって損した方が自分の人生のためになると思います。利点としては、人脈、交友関係が広がります。駐屯地駐屯地内に大勢人がいて、1人も気が合わない人はいません。また、一般企業とは違い、先輩が沢山いるので、手を差し伸べてくれます。勿論、やりがいもありますし、お金も貯まります。わたしにとって居心地が良く、デメリットが殆ど無い場所だと思います。自衛隊に入隊したら、同じ組織として一緒に頑張りましょう。

Q6 あなたの自慢を教えてください。

  

明るくマイペースで体力に自信があります。人とコミュニケーションをとることが好きで、休日は先輩、後輩、同僚と遊びに行ったり、食事をしに行くことがよくあります。高校時代は世羅高校の陸上部長距離に所属、3000mを8分45秒、5000mを14分54秒で走ることができました。現在ではこの体力を生かして、部隊の訓練、恒常業務等で頑張っています。

Q7 自衛隊での一番の思い出は?

  

身体がひと周りふた周りと大きくなり、筋肉がついたことです。実家に帰省した際、親から「筋肉めっちゃついたね!」と言われ、高校時代の友人に成人式で会った時、「自衛隊って感じがする!」と言われ、とてもやりがいを感じ、心身ともに向上していこうと思いました。私にとって健康を維持するには自衛隊が一番だと思います!

ベテランズコーナー

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山口県隊友会岩国支部長
いわまさ 恒 つね

「みつや2月号」の原稿依頼を受けたので、広島に関して、思いつくままに書いてみましょう。一笑して戴ければ幸いです。
広島と言えば明治以降の戦争では重要な役割を果たしてきました。日清戦争でまず思いつくのは大本営が広島に移され、明治天皇が数ヶ月に亘り、御滞留されていることです。日露戦争では、日露戦争勝利の陰の立役者と言っても過言ではない、下瀬火薬(ピクリン酸を主成分とする高性能火薬)を生み出した下瀬雅允(しもせまさちか)を思いだします。下瀬博士は1860年(安政6年)安芸藩生まれ。海軍兵器製造所の技師となって火薬の研究に専念。当時の火薬は黒色火薬(硝石+硫黄+炭)で、下瀬火薬は、黒色火薬の数倍の威力があり、かつ下瀬火薬が破裂すると約3000℃で燃え上がり「鋼鉄の戦艦を木造船のように燃え上がらせた」と言われています。後にTNT火薬が発明されるまでは世界最強の火薬でした。
次に大東亜戦争については二人が思いつきます。一人は皆さん周知の山縣郡出身で源田サーカスで有名な源田実中佐(当時)です。「真珠湾攻撃」の作戦立案でかつ実行者です。“トラ トラ トラ”で映画にもなりました。
もうー人、もうすっかり忘れられていますが、岩畔豪雄(いわくろひでお)大佐です。岩畔豪雄大佐は、倉橋島から広島陸軍幼年学校~士官学校~陸軍大学校を経て、1939年(昭和14年)当時は陸軍省軍務局軍事課長の要職にあり、如何にして日米戦争を回避するか思案していました。岩畔大佐と言えば謀略・諜報・防諜などの秘密戦の教育機関である“陸軍中野学校″を設立するなどわが国きっての戦略家の一人でもあったのです。
1939年当時、シナ事変は泥沼に陥り、抜き足できない状況で、かつアメリカからは石油・くず鉄等重要物資の輸出制限に加え、目米通商航海条約は破棄され、二進も三進もいかない状況でした。そこで昭和14年秋、陸軍省経理局主計課別班として「陸軍省戦争経済研究斑」を設立し、このシンクタンクの長に秋丸中佐を起用しました。別名“秋丸機関’と言われる所以です。この機関では、対英米の総力戦に向けての打開策を研究しました。そして2年弱の研究成果として、昭和16年7月に「英米合作経済抗戦力調査」を報告しています。この報告の概要は、日米の総力戦になれば日本に勝利はない。しかし、英国・オランダには勝てる見込みがある。そして。英米合作としたのは、英国は米国の支援なしには長期戦は戦えない。英国の経済力の内、約60%がアジア植民地から得ているものであり、しかもその大半がインド洋経由で本国へ送られて来ていることです。そこで、陸軍参謀本部及び海軍軍令部の中堅幹部が合議し、「対英米蘭戦争指導要綱」をまとめ上げ、昭和16年9月29日、大本営陸海軍部として正式に決定。これから「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」として作戦計画が結実しました。この計画の概要は、日米戦は思想戦とし、総力戦にはしない。幸いのことに、フランクリン・D・ルーズベルト大統領は若者を戦場に送らないことを公約にして三選を果たしています(但し、アメリカが攻撃されれば参戦やむなし)。まずインド洋の入り口で狭海のマラッカ海峡を押さえるためにシンガポールの攻略、援蒋ルート遮断に香港・ビルマの攻略、シンガポール攻略後は南の蘭領インド(現在のインドネシア)の石油を確保。その前段階としてフィリピンを攻略するが。現ケソン政権は温存。海軍は伝統的な作戦である「漸減邀撃作戦」としてマリアナ諸島付近で米艦隊を誘致して撃滅するというもので、海軍主力はインド洋を制海して英国への海上輸送を遮断するというものでした。この「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」は昭和16年11月15日、大本営政府連絡会議で正式に決定しました。お分かりの通り、日本国家戦争戦略には最初から「真珠湾攻撃」はなかったのです。
ではなぜ真珠湾攻撃が行われたのかは、遡ること1903年大本営条例が改正され、有事陸主海従で陸軍参謀総長が幕僚長として天皇を一元的に補佐するとしていたものが、有事も平時も陸軍・海軍とも天皇に直結してしまっていたからなのです。私は、岩畔豪雄大佐(終戦時少将)という日米戦を総力戦にしないように全力を傾注した人が陸軍にいたことを誇りに思うのです。