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自 衛 隊 百 科
(3月放送内容)



テ−マ:20年前の出来事とその後の国際平和協力活動

パ−ソナリティ−:

 自衛隊百科のコーナーです。毎月1回、このコーナーでは東北防衛局の増田義一局長にお越しいただいてお話をいただいております。
 局長今日もどうぞよろしくお願いいたします。


増田局長:

 よろしくお願いいたします。


パ−ソナリティ−:

 では早速ですが今日はどういったお話をいただけますでしょうか。


増田局長:

 今回はですね、20年前のある出来事とその後の自衛隊の国際平和協力活動について話したいと思います。


パ−ソナリティ−:

 20年前の出来事ということですが、一体なんでしょうか。

増田局長:
 それはですね、イラクのサダム・フセインによるクウェート侵攻です。1990年8月にサダム・フセインが率いるイラク軍が突然クウェートに侵攻しまして、いろいろな破壊活動を行って、油田に火を点けるなどのことをやりました。覚えていらっしゃいますでしょうか。


パ−ソナリティ−:

 そうですね、20年前というと幼児期でしたので覚えていませんね。


増田局長:

 アメリカのブッシュ大統領、当時はお父さんの方のブッシュ大統領ですが、まず、最大の産油国であるサウジアラビアが次の標的になるのを防ごうと、これを守ろうと各国にサウジアラビアへの派兵を呼びかけました。この時の作戦を「砂漠の盾作戦」オペレーション・デザート・シールドというのですが、多国籍軍が盾となってサダム・フセインの侵攻からサウジアラビアとその油田を守ろうというわけです。


パ−ソナリティ−:

 砂漠の盾作戦ということで、多国籍軍ということですが、日本もこれには加わっていたのでしょうか。


増田局長:

 それがですね、日本は、先進国の中で石油の中東依存度が最も高くて、サウジアラビアにあるいはその他の中東に何かがあれば、一番大きな経済的打撃を受けるような立場にあったわけですけれども、自衛隊の海外派遣や集団的自衛権の行使などについて憲法上の制約があったものですから、多国籍軍に自衛隊を派遣することは出来ませんでした。しかし、資金を提供するということにしたわけです


パ−ソナリティ−:

 自衛隊の派遣を出来ないかわりに資金の提供ということですが、世界からの反応というのはどういったものだったのでしょうか。


増田局長:

 当時、私はアメリカの大学院に留学中であったのですが、アメリカに滞在中の日本人は激しいバッシングに会いました。私は、大学院で安全保障政策を学んでいたので尚更だと思うんですけれども、ディスカッション形式がアメリカの大学院では中心なものですから、そういう場でずいぶんと他の学生たちから吊し上げられたことを覚えています。私としては日本の憲法をこういうものなんだと説明したわけですが、中々理解してもらうことは出来ませんでした。私以外にも日本人留学生がいましたけれども、中には「もう日本人であることが厭になった」と弱音を吐く人もいたぐらいの状況でした。


パ−ソナリティ−:

 そんな辛い状況だったようでございますけれども、その後はどうなったのでしょうか。


増田局長:

 それで1990年の年が明けて、1991年ですね、多国籍軍は「砂漠の盾作戦」から、今度はイラク軍をクウェートから撃退する作戦にかわりまして「砂漠の嵐」作戦といいますが、オペレーション・デザート・ストームこれに転じました。これには30ヶ国以上の国々が参加したわけですけれども、結局、当時の日本の海部内閣は、湾岸戦争に際して、資金を提供しますけれども、自衛隊の派遣はしないと、出来ないということでありました。


パ−ソナリティ−:

 ここでもやはり自衛隊の派遣が出来ず、資金の提供ということですが、資金提供はどれくらいの規模だったのでしょうか。


増田局長:

 それが並大抵の額ではありませんで。130億ドルだったんですね。当時の為替レートが1ドル129円ぐらいでしたのでこれで計算しますと、1兆6770億円になります。この1兆6770億円とは皆さんどんな額か多分ピンと来ないと思いますけれども、例えば、上越新幹線の総工費とか関西国際空港の総工費に匹敵します。そのような莫大なお金をポンと出したわけですけれども、「カネは出すけれども、ヒトは出さない」という批判が渦巻いたわけです。「中東依存度が一番高いのは、日本ではないか。それなのに・・・」ということで批判されたわけですが、「砂漠に消えた130億ドル」というタイトルの本を手嶋龍一さんが書いていますが、まさに、この130億ドルという経済的貢献は感謝されるどころか無視されてしまったと言っても過言ではありませんでした。


パ−ソナリティ−:

 無視といいますと、どのようなことだったのでしょうか。


増田局長:

 私も忘れもしませんけれども。1991年の1月の終わりに恒例の一般教書演説というのが行われるのですが、ブッシュ大統領がこれを行います。その演説の前に、ブッシュ大統領が「なになに国のなになに大統領どうも有難うとかですね、、あるいはどこどこのなになに首相、有難う。」とゆっくりとですね、順番に、数十カ国の名前と首脳の名前をあげて、協力に対する感謝の意を表していったんです。私は、その様子をテレビで生放送で見ていましたけれども、ロシアとかドイツといった派兵を行っていない国の首相の名前も出てきたので、当然、130億ドルも拠出している日本の海部首相の名前が出てくるだろうと、耳をそばだてていましたが、ついに最後まで日本のにの字もでてきませんでした。ブッシュ大統領に完全に無視された感じだったですね。あのときは本当に悔しい思いをしたわけです。その後、クウェートがワシントンポストに感謝広告を出したんですけれども、その中に日本の名前がなかったということで、これは日本でもずいぶんショックとして受け止められました。あとはワシントンで戦勝パレードというのが行われたんですが、そこに日本の大使が招待されるということもありませんでした。このようにですね、130億ドルという資金援助は評価されなかったのです。湾岸戦争が終結してから、日本は海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に派遣して機雷の処理を行ったんですが、もう時すでに遅しということだったんですね。


パ−ソナリティ−:

 今初めて聞きましたが、今聞いても私もすごく悔しいなと思ってしまいました。その後はどうなったのでしょうか。


増田局長:

 はい、その後ですね、翌年ですけれども、1992年に国際平和協力法が施行されまして、あとは国際緊急援助隊法の改正法も行われて、以後、自衛隊が海外に出て活動することが出来るようになりました。自衛隊は一生懸命頑張りまして、これまでに、アジア、中東、アフリカ、中米など約20の国際活動を実施しております。現在進行中のものとしては、ハイチ、東チモール、国連のスーダンミッションとかですね、あとゴラン高原国際平和協力業務があります。ネパール国際平和協力業務というのがあるんですが、これは1月に終了しました。


パ−ソナリティ−:

 今日お話を聞いた中には本当に悔しいなと思う出来事もありましたけれども、今はさまざまな国際平和協力活動も行われていて、とても誇らしく思います。ではまたこのコーナーで局長からお話をいただきたいと思いますので、次回もどうぞよろしくお願いいたします。

増田局長:
 よろしくお願いします。

パ−ソナリティ−:
 今日のこの時間は東北防衛局の増田義一局長にお話をいただきました。
有難うございました。

増田局長:
 どうも有難うございました。


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