本部長の群馬紀行
第66回 会津街道(尾瀬越え)

 皆様、こんにちは。
 台風18号から変わった低気圧の影響で、関東や東北では記録的な大雨となり、各地に大きな被害が出ました。被災された方のお見舞いを申し上げます。

 現在、防衛大学校学生、防衛医科大学校学生(医学科、看護科)の試験受付を行っていますので、大学卒業後に幹部自衛官を目指す方、医師や看護師を目指す方などたくさんの応募をお待ちしています。なお、自衛官候補生(男子)については、引き続き試験受付を行っていますので、こちらの方への応募もお待ちしています。

 

 さて、群馬紀行第66回は、上野国から尾瀬を越えて陸奥国(会津)に至る「会津街道」のうち、尾瀬越えの自然と史跡をご紹介します。

 

 会津街道の「東入り」「大間々街道」の各道筋は、旧利根村の大原宿、追貝宿、平川集落で合流して国道120号を北上し片品村に入ります。会津街道は、須賀川宿を経て片品村の中心部の鎌田で国道401号に分かれて北の尾瀬に向かい、国道120号は西に向きを変えて金精峠を越えて日光に至る日光道(群馬紀行第24回参照)となります。写真は、会津街道と日光道のかつての分岐で「鎌田の辻」と呼ばれていましたが、現在の会津街道は、前方の村唯一の信号を左折して後方に見える「尾瀬大橋」を渡って尾瀬に向かいます。

 

 鎌田には村の総鎮守「笠科神社」がありますが、片品村は律令時代には利根郡笠科(かさしな)郷と呼ばれ、これが転訛したとも伝えられます。写真は、鎌田の先の街道沿いに南北約4kmにわたって続く「越本(こしもと)集落」で、沿道に「武尊神社」(奥)と「御前宮」(ごせんぐう。手前)が建っています。昔、朝廷に仕えていた東北の安部一族・尾瀬氏が勘気を蒙って故郷に落ち延びる途中で討たれ、京から後を追ってきた奥方の保多賀御前が嘆き悲しみこの地で亡くなったため、村人が憐れんで御前宮を建てたと伝わります。

 

 かつての片品川は、大雨のたびに氾濫して川沿いの集落を犯す暴れ川でした。「古仲(こなか)集落」の川沿い建つ「禹王(うおう)の碑」は、この現状を見かねた戸倉関所守の星野誉市郎が、中国の黄河を治めて水神様と崇め称えられた「禹王」を祀るため、21日間の断食をして会津藩校「日新館」の教授に碑の原文の揮毫を依頼し、水害を防ぎ安穏な生活を未来永劫に祈願して明治7年に建立したものです。しかしながら、後に堤防やダムが整備されるまでは、碑が隠れるほどの水害に度々見舞われたそうです。

 

 「戸倉集落」は、尾瀬の上野国側の玄関口に位置しており、現在は尾瀬観光のターミナルになっています。集落にあった「戸倉関所」は、真田氏が大坂方の会津・上杉氏に備えるため、会津街道の整備と併せ1600年に置いたもので、三国街道の「猿ヶ京関所」(同第54回参照)と伴に江戸時代を通じて関東の北の守りを固める重要な関所でした。写真は、街道沿いのホテルの玄関に建つ関所跡の碑ですが、当時はホテルの裏側を流れる片品川の断崖上に置かれていました。

 

 当初、真田氏が軍事的な目的で整備した会津街道は、江戸時代末になって初めて当初の目的で利用されました。戊辰戦争で朝敵となった会津藩は、陸奥国南会津郡の檜枝岐(ひのえまた)村に進出し、官軍は会津街道を北上して1868年5月8日に土出集落に進出しました。5月21日の朝、戸倉集落に前進した官軍は、尾瀬を越えて侵入した会津藩と遭遇し「戸倉戦争」が勃発しますが、足利藩士・今井弁助と吉井藩士・伊東長三郎が戦死して劣勢のうちに退却します。写真は、官軍の「東山道先鋒総督府」の本陣が置かれた「大円寺」で、境内左の小さな祠の中には伊東長三郎の墓があります。

 

 優勢だった会津藩は、戸倉集落を引き上げる際に火を放ち、集落は32戸のうち1戸を残して焼き払われ、関所も焼失しました。戸倉戦争はこの一会戦で終わりましたが、尾瀬を挟んで両軍の対峙は暫く続いたようです。写真は、大円寺に約2か月間滞在した官軍の兵士たちが退屈まぎれに布団を高く積み上げて天井に近い床の間の壁に残した落書きで、寺の改装時にその壁を切り出して残したものだそうです。

 

 

 戸倉戦争の3か月後の同年8月、突然、米沢藩士・雲井龍雄ら8人が尾瀬を越えて上野国に入り、会津街道を進んで須賀川宿に宿泊しました。入国の目的は、会津藩を救うために奥州(陸奥国)、羽州(出羽国)、越州(越後国)の諸藩により結成されたた奥羽越列藩同盟に賛同する8人が、沼田藩など官軍側の上野国諸藩に同盟の趣旨を浸透させることだったようです。写真は、8人が宿泊した会津街道沿いの民家です。

 

 これに対し、追貝宿に本陣を置いていた東山道先鋒総督府は、計略を巡らして雲井ら5人を誘い出し、宿に残った3人を襲撃して惨殺しますが、5人は危険を察知してばらばらに逃げ延びました。亡くなった3人は首を晒され、5人の逃亡を助けた村人も逮捕、処刑されたほか、雲井は明治3年に内乱罪で逮捕され、江戸の小塚原で斬首されました。写真は、須賀川宿の外れに村人が建てた「三烈士の墓」ですが、明治22年の憲法発布に伴う大赦によって汚名がそそがれると、徳川宗家を継いだ家達(いえさと)が顕彰碑を建てました。

 

 「尾瀬」は、東西6km、南北2kmにも及ぶ本州最大の高層湿原で、一般には、群馬、新潟、福島の県境に位置する「尾瀬ヶ原」と群馬、福島の県境に位置する「尾瀬沼」を指します。写真は、尾瀬沼への玄関口となっている「大清水登山口」で、会津街道(国道401号)の一般車両の終点となっています。会津街道は、ここから林道(左)又は旧道(右の林道を進んで途中左折)を徒歩で進んで「一ノ瀬休憩所」で合流し、そこから本格的な登山道となります。

 

 尾瀬は、数万年前の燧ヶ岳(ひうちがだけ)の噴火活動で尾瀬盆地を流れていた川が堰き止められてできた沼に土砂が流入して浅くなり、水生植物が寒冷のために腐敗分解されずに堆積して低層湿原が誕生し、更に栄養分が乏しい酸性土壌に強いミズゴケが進入して泥炭層を形成し、年間1ミリずつ堆積して数千年かけて現在の高層湿原となりました。写真は、標高1,665mの高地にある「尾瀬沼」と東北地方の最高峰(標高2,356m)で日本百名山の「燧ヶ岳」で、沼のほぼ中央部を群馬、福島の県境が通っています。

 

 原始の自然が息づいていた尾瀬に初めて足を踏み入れたのは明治3年に檜枝岐村に生まれた平野長蔵(ちょうぞう)でした。長蔵は、同22年に村の守護神である燧ヶ岳に登頂して登山道を開き、やがて尾瀬の魅力に惹かれて同43年には尾瀬沼西岸に「長蔵小屋」を建てて活動拠点とし、大正11年には小屋を東岸に移して妻子とともに永住を始めました。写真は、宿泊施設となった現在の長蔵小屋ですが、かつてこの辺りには荷物交換所があり、会津の米、酒などと上野国の織物、雑貨などが取り引きされました。

 

 その頃、水が豊富な尾瀬にダムを建設する計画が持ち上がり、当時の電力会社が尾瀬の土地を買収し水利権を取得しました。長蔵は、漁業権の侵害を訴えてただ一人でこの計画の反対運動を開始し、昭和5年に亡くなった後は子の長英が父の遺志を継ぎます。戦後、尾瀬沼の水の一部を片品川に引水して下流の発電に利用するなど計画は続き、同26年に東京電力に引き継がれますが、自然保護運動の高まりでダム建設は中止となり、尾瀬の約7割の土地を所有する東京電力は、木道設置などの自然保護活動を行って「緑のダム」(水源涵養林)を保護しています。写真は、大清水登山口の手前にあってその名前の由来となっている豊富な清流です。

 

 一方、戦後の高度成長下の開発ブームに乗って、大清水から三平(さんぺい)峠を越えて尾瀬沼をかすめ福島県の沼山峠まで抜ける観光自動車道の建設が計画され、昭和41年に着工し同46年には三平峠下まで完成しました。写真は、三平峠下の「石清水」(いわしみず)ですが、この真上に道路が通じて岩盤を削ったため、かつて会津街道を往来する人馬を潤した豊富な水量は失われ、現在は湧水程度の水量となっています。

 

 石清水の水が失われると、祖父や父の後を継いで長蔵小屋の主人となった長靖(ちょうせい)は道路建設反対運動を開始し、当時発足したばかりの環境庁長官に尾瀬の自然を守る必要性を直訴します。長靖の熱意に動かされた環境庁長官は、直ちに現地視察を行って実態を把握し、翌年には工事の中止を英断しました。写真は、標高1,762mの三平峠ですが、尾瀬の自然を守った長靖は連日の会議出席等の疲労が重なり、工事中止の僅か1ヶ月後に吹雪の三平峠で遭難しました。

 尾瀬は、昭和9年に日光国立公園の特別保護地域に指定され、同31年に天然記念物、同35年には特別天然記念物に指定されます。更に、日光国立公園から独立させる案が浮上し、3万ヘクタール以上という国立公園の指定基準を満たすために会津駒ヶ岳、田代山、帝釈(たいしゃく)山などを編入して平成19年に尾瀬国立公園が誕生しました。写真は、福島県側の「大江湿原」から三平峠や尾瀬沼方向を見たところです。左の木の近くに周囲を溝に囲まれた植生が違う部分がありますが、戸倉戦争の際に会津藩が官軍を迎え撃つために掘った塹壕跡だそうです。

 

 (参考図書等:「片品村史」(片品村史編集委員会)、「尾瀬」(東京地図)、「尾瀬をあるく」(JTBパブリッシング)、「尾瀬紀行」(上毛新聞社)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、「群馬の川と道その姿に触れる」(上毛新聞社)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、観光パンフレット、現地の説明板等)