本部長の群馬紀行
第65回 会津街道(大間々街道)と日光裏街道

 皆様、こんにちは。
9月に入り、秋雨前線が停滞する季節になりました。

 自衛官候補生(女子)、一般曹候補生、航空学生の試験受付期間は残りわずか(9月8日(火)まで)となりました。一方、9月5日(土)から、防衛大学校学生、防衛医科大学校学生(医学科、看護科)の試験受付が始まります。大学卒業後に幹部自衛官を目指す方、医師や看護師を目指す方などたくさんの応募をお待ちしています。

 

 さて、群馬紀行第65回は、上野国から尾瀬を越えて陸奥国(会津)に至る「会津街道」の道筋の一つ「大間々街道」と沼田から赤城山北東麓を通って銅山街道に合流する「日光裏街道」沿いの景観と史跡をご紹介します。

 

 

 当初、真田氏が軍事的な目的で整備した会津街道の東入りの道筋は、1681年の真田氏の改易とともに沼田への往来が減り、代わって大間々を経由して江戸と会津を結ぶ流通路としての「大間々街道」が多く利用されるようになりました。その道筋は、利根川の亀岡河岸から銅山街道の大間々宿を経由して深沢宿の先で分かれ、旧黒保根村の柏山、寒戸の集落を経て小出屋峠を越えて旧利根村の根利宿に入り、小麦峠を越えて穴原、大揚の集落を経て追貝宿で東入りの道筋に合流しました。写真は、赤城山東麓の急斜面に位置する「柏山(かしやま)集落」の「不動明王と双体道祖神」です。

 

 かつての大間々街道は、赤城山東麓の山間部を縫うように進む長く険しい山道でしたが、トンネルや橋を利用して直線的に短く結ぶ県道「沼田大間々線」が通じた現在は、旧道の面影はほとんど見られません。写真は、全長1,281mの「楡高(にれたか)トンネル」の先から寒戸(さぶと)川に沿って分かれる旧道沿いにかつての面影を留める「寒戸集落」ですが、ここから先の旧道は不明瞭となります。

 

 

 県道に戻って、赤城山と袈裟丸山(群馬紀行第61回参照)の間の鞍部の「小出屋(こでや)峠」を越えて旧利根村の根利(ねり)宿に向かいます。現在の「根利宿」は、裏赤城(赤城山北東麓)の奥深い山間の静かな集落ですが、かつては大間々街道と日光裏街道が交差する交通の要衝で、人馬の往来で賑わったそうです。現在は沼田市に属していますが、かつては旧勢多郡黒保根村に属していて、沼田方面より大間々方面との結びつきが強かったようです。写真は宿の中心部ですが、左の赤い屋根の家屋はかつての旅籠屋「三井屋」です。

 

 旧道は、根利宿から「小麦峠」を越えて穴原(あなばら)集落に向かいますが、現在は途中に牧場があって通行できないため、日光裏街道の南郷宿を経由して向かいます。地元の人は小麦峠と小出屋峠のことを、昔、小麦峠に大風が吹いて子供をもぎ取られたことから「こもぎ峠」と呼び、その子が小出屋峠で見付かったことから「我が子じゃ→こじや峠」と呼んだと伝わります。写真は、小麦峠(牧場)から穴原集落に下った旧道沿いに建つ「三面馬頭観音」で、地元では「みつつら観音」とも呼ばれています。

 

 「穴原集落」は、南郷宿から薄暗い林道の急坂を登った広く明るい山上にあり、大間々街道と日光裏街道が通ずる交通の要衝でした。この地の出身で幕末の剣客・中沢貞祇(さだまさ)は、父の道場で「法神流」を学んだ後、江戸へ出て幕府の浪士隊に入り、近藤勇らの新撰組と別れて庄内藩抱えの「新徴組」隊士となって活躍し、帰郷後は道場を継いで多くの門人を育てました。写真は、集落の中ほどに門人達が建てた貞祇の墓ですが、妹の琴も長刀の名手で、男装して貞祇と行動を共にして活躍したそうです。

 

 広い山上の穴原集落から北に向かう大間々街道の急坂を下ると、東から北に向きを変える片品川東岸上の小さな「島古井(しまぶるい)集落」に至ります。ここで片品川を渡って河岸段丘を登り大原宿で会津街道(高平回り)に合流する道筋と、そのまま片品川に沿って東岸を進み、大楊集落を経て追貝宿で会津街道に合流する道筋に分かれていました。写真は、島古井集落を通過する大間々街道で、片品川(左)への分かれ道が見えています。

 

 島古井集落から大楊(おおよう)集落に向かう道筋の片品川の深い峡谷の両岸には「老神温泉街」(同第39回参照)が建ち並びます。かつては、片品川を渡った峡谷の西岸を老神温泉と呼び、穴原集落からそのまま下った峡谷の東岸は「穴原温泉」と言ったそうです。写真は、老神温泉の入口付近の片品川に架かる「内楽(ないらく)橋」から見た峡谷と温泉街(左が西岸)です。

 

 

 一方、上野国と下野国(日光)を結ぶ日光裏街道は、赤城山南麓の大胡宿を経由して銅山街道に合流する道筋(同第57回参照)と、赤城山北麓の根利宿を経由して銅山街道に合流する道筋がありました。根利宿を経由する道筋は、更に、沼田から片品川の南岸沿いに進んで日向(ひなた)南郷宿から根利宿に入る道筋(旧道)と、北岸沿いの赤城山麓を進んで日陰南郷宿から根利宿に入る道筋(新道)に分かれていました。写真は、会津街道から沼田台地の急坂を下った旧白沢村の「下久屋(しもくや)集落」(沼田市)の「万延橋」から見た片品川ですが、川を挟んで旧道(右)と新道(左)が並行していました。

 

 万延橋を渡って赤城山北麓の台地上を昭和村の貝野瀬(かいのせ)、生越(おごせ)、旧利根村の多那(たな)、輪組(わくみ)、青木の各集落を経て進む旧道の道筋は、武尊山や日光連山などを望む展望の道となっています。写真は、生越から多那の集落に向かう旧道ですが、現在は高原野菜などの畑が続く農業用道路の「利根沼田望郷ライン」と概ね重なっています。

 

 利根沼田望郷ラインは、輪組集落から北側の急坂を下って片品川(輪組大橋)を渡り旧白沢村の岩室集落で新道に合流していますが、旧道は輪組集落から西側の急坂を下って青木集落を経て旧利根村の日陰南郷宿に至ります。写真は、急坂の旧道沿いに古い家並みや蔵が建ち並ぶ「青木集落」です。

 

 

 

 一方、万延橋を渡らずに沼田台地の崖下を進む新道は、旧白沢村の上久屋(かみくや)、尾合(おあい)、岩室(いわむろ)の各集落を経て旧利根村の日向南郷宿に至ります。写真は、「上久屋集落」の「孝養寺」ですが、旅芸人や行商人が寺内に入るのを禁ずるために1786年に建てられた「禁芸碑」があります。上野国は江戸に近く、養蚕製糸が盛んで割合豊かな村が多かったため、陸奥国や越後国から多くの旅芸人や行商人が来ましたが、「禁芸術売買之輩」と刻んでこれらを締め出すもので、この辺りの山間部にのみ残っているものだそうです。

 

 「南郷宿」は、片品川と根利川の合流点に位置し、川を挟んで日向南郷宿と日陰南郷宿に分かれていました。日陰南郷宿の「南郷の曲屋」は、東北地方の民家で良く見られる母屋と厩がL字形に一体化した「曲屋(まがりや)形式」の藁葺屋根の民家で、当地に熊野神社を建設するために神官として来村して定着し代々名主を務めた鈴木家によって1785年頃に建てられました。4つの蔵を持つ家屋で、検地などで訪れた役人の施設でもあったため、正式な書院造がなされています。

 

 日陰南郷宿で旧道と新道の道筋を合わせた日光裏街道は、根利宿で南に向かう大間々街道と交差して西に向かう山道を進み、旧東町の「小中大滝」(同第61回参照)付近から小中川沿いに下って銅山街道に合流していました。写真は、根利宿を通過して西に向かう日光裏街道です。

 

 

 (参考図書等:南郷の曲屋、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、「群馬の川と道その姿に触れる」(上毛新聞社)、「尾瀬紀行」(上毛新聞社)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、、観光パンフレット、現地の説明板等)