本部長の群馬紀行
第64回 会津街道(東入り)

 皆様、こんにちは。
朝晩は大分涼しくなりました。

 現在、自衛官候補生、一般曹候補生、航空学生の試験受付を行っていますが、このうち、自衛官候補生(女子)、一般曹候補生、航空学生の試験受付は9月8日(火)までとなっていますので、自衛官志望の方はもとより公務員志望の方、民間企業との併願の方などたくさんの応募をお待ちしています。

 

 さて、群馬紀行第64回は、上野国から尾瀬を越えて陸奥国(会津)に至る「会津街道」のうち、沼田から片品川の奥地へ向かう「東入り」沿いの景観と史跡をご紹介します。

 

 「会津街道」は、奥州街道又は日光街道から分かれて会津に向かう本街道の脇往還で、東入りの道筋のほか、大間々から赤城山の東麓を通って東入りの道筋に合流する「大間々街道」の道筋もありました。東入りの道筋は、更に、平成17年に沼田市に合併した旧白沢村・旧利根村経由の「高平回り」と川場村経由の「川場回り」に分かれます。写真は、沼田城下から東にほぼ一直線に続く会津街道(東入り)の一里目の標だった沼田市下久屋町の「土橋跡」で、城下の生活用水・城堀川(群馬紀行第32回参照)に架けられました。直進する国道120号が新道、左に分かれる県道が旧道です。

 

 高平回りの道筋は、更に、旧白沢村高平で北から栗生(くりゅう)峠、数坂(かつさか)峠、椎坂(しいさか)峠越えの3本の道筋に分かれ、旧利根村大原で合流していました。いずれも険しい峠だったので、明治27年には数坂峠下に「数坂隧道」が開削されますが完成前に崩落し、大正9年になって栗生峠下に「栗生隧道」が開削されて東入りのメインロードになりました。なお「栗生」の名は、高平の「うつぶしの森」で戦死した新田義貞の三男・義宗(同第49回参照)の家臣・栗生顕友が主君の没後に大原に居住したことに由来すると伝えられます。写真は、隧道を拡張して平成9年に開通した「栗生トンネル」ですが、大正11年に隧道を通った放浪の歌人・若山牧水の歌碑が建っています。

 

 高平回りの「椎坂峠」は、かつて坂上田村麻呂が東征した折に峠から見た沼田方面の眺望に感動し、持参した椎の木を2本植えたことに由来すると伝えられますが、昭和39年に新道(国道120号)が開通し、栗生隧道に替って東入りのメインロードになりましたが、平成25年11月に「椎坂トンネル」が開通してその役目を終えました。写真は、旧白沢村から写したものですが、赤い屋根のドライブイン跡が見える中央の鞍部が椎坂峠、その左の鞍部がかつての数坂峠です。

 

 高平回りの道筋は、1600年の関ヶ原の戦いで徳川氏に従った沼田城主・真田信之が、大坂方の会津120万石・上杉氏に備えるために急ぎ整備した道で、尾瀬の入口に戸倉関所を置き、片品川に橋を架け、峠下の両側にそれぞれ高平宿と大原宿を整備しました。旧白沢村の高平宿から峠を越えて下った所が旧利根村の「大原宿」ですが、国道120号の大原交差点から旧道に分け入った宿の中心付近には、古い家並みや立派な蔵が残っています。

 

 東に進む高平回りの道筋は、大原宿の先で北に向きを変え、片品川の峡谷を渡って「追貝(おっかい)宿」に至ります。信之はここに「追貝刎橋(はねばし)」を架橋して上杉氏の侵攻に備えました。刎橋とは、深い峡谷に岸から水平に梁を渡す形式の橋で、敵が迫ってきた際に、橋のある箇所を外すと簡単に解体されて峡谷に落ちる仕掛けになっていました。写真は、追貝刎橋があった場所に架けられた旧道上の「千歳橋」です。

 

 千歳橋付近の峡谷は、約900万年前の火山噴火に伴って発生した火砕流が冷えて固まり、約1万年前頃から片品川の浸食により形成された地形で、「吹割渓(ふきわれけい)ならびに吹割瀑(ふきわればく)」として国の天然記念物及び名勝に指定されています。上流部の中州に建つ「浮島観音堂」には、日光東照宮の「眠り猫」を彫った左甚五郎が日光からの帰途に追貝宿に一泊し、一夜にして彫ったと伝わる「浮島如意輪観音」があり、この浮島を含む渓谷の周囲には遊歩道が整備されていて、様々な角度から渓谷美を楽しむことができます。

 

 「日本の滝百選」に選ばれている「吹割瀑」は、一般的には「吹割の滝」と呼ばれ、その迫力のある様子から「東洋のナイアガラ」とも称されています。凝灰岩や花崗岩の川床上を流れる片品川の清流が、岩質の柔らかい部分を侵食して多数の割れ目を生じさせたものですが、高さ7m、幅30mに及ぶ溝に三方から河水が流れ落ちる様は、上から下に流れ落ちる通常の滝とは異なり、その名称のとおり滝が吹き割れたように見えます。

 

 一方、日本百名山の武尊山(ほたかやま)の南麓に位置する川場村を経由する川場回りの道筋は、更に、薄根(うすね)川上流で北から背嶺(せみね)峠、千貫(せんがん)峠、赤倉峠越えの3本の道筋に分かれ、片品村の花咲(はなさく)集落で合流していました。このうち「背嶺峠」は「花咲峠」とも呼ばれ、険しい川場回りの峠の中では比較的楽に越えることができたため、当時は里人や旅人に最も多く利用されたようです。現在は県道の「背嶺トンネル」が通じ、川場回りのメインロードとなっています。

 

 川場回りの「赤倉峠」は、背嶺峠に向かう県道沿いの「小住(こじゅう)温泉」で分かれて薄根川の支流・赤倉川の渓谷沿いを東に遡り、峠を越えて北に向きを変えて花咲集落に至る道筋でしたが、現在は峠を越えて南に向きを変えて栗生トンネル付近に至る林道が通じています。渓谷沿いの林道は「赤倉八景」を有する景勝地となっていますが、渓谷美を保護するために車両は進入禁止となっています。

 

 

 川場回りの「千貫峠」は、初代沼田城主で川場村に隠居していた沼田顕康(同第38回参照)が、1569年に跡目相続の内乱に敗れて会津に落ち延びる際に越えたと言われ、追手に追撃されて憔悴しきった顕康が峠の岩の立松を見て「われ世にある時ならば千貫文の領地にも替えがたし」と感慨に耽ったことに由来すると伝わります。写真は、小住温泉の先で県道から分かれて千貫峠に向かう旧道ですが、現在は廃道となっています。

 

 

 川場回りの「花咲集落」には、古くから山伏の修験場となっていた信仰の山・武尊山への登山口があって各地の文化が流入し、また、大正9年に栗生隧道が開削されるまでは、片品村への東入りの玄関口として旅人の往来で賑わいました。写真は、武尊山を御神体とする「武尊神社」の総鎮守ですが、武尊山に住みついて作物を荒らした猿に手を焼いた村人が、猿を神様に祀り上げて被害を収めようと追い回した「猿追い祭り」が伝わっています。

 

 花咲集落の中ほどには、集落名の由来となった「花咲石」と呼ばれる巨石があります。かつて日本武尊が東征の折、村人を困らせていた武尊山にはびこる「悪勢」(おぜ)と呼ばれる賊と戦い、砦を囲んで火を放ち、助けを乞う長(おさ)の妻子までもが焼け死にます。すると妻子の体は大きな石となり、その表面には牡丹が咲いたような模様が浮き立ちますが、この年から村には疫病が流行ったため、村人たちは鳥居を建てて「丹花石明神」として祀り、悪勢の霊を慰めたそうです。

 

 (参考図書等:「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、「真田道を歩く」(上毛新聞社)、観光パンフレット、現地の説明板等)