本部長の群馬紀行
第63回 信州街道

 皆様、こんにちは。
お盆が過ぎ、暑さは幾分和らいできたようです。

 自衛官候補生、一般曹候補生、航空学生の試験受付を行っています。このうち、自衛官候補生(女子)、一般曹候補生、航空学生の試験受付は9月8日(火)までとなっていますので、自衛官志望の方はもとより公務員志望の方、民間企業との併願の方などたくさんの応募をお待ちしています。

 

 さて、群馬紀行第63回は、江戸と北信濃を結ぶ最短ルートとして中山道を凌ぐほどの賑わいをみせた「信州街道」沿いの景観と史跡をご紹介します。

 

 「信州街道」は中山道の北を通る脇往還で、北国街道(中山道の追分宿から善光寺を経て越後国に至る道)筋から江戸に出るのは中山道よりも10里も短かかったようです。中山道の高崎宿の先の「上豊岡の道しるべ」(群馬紀行第51回参照)を右に分かれて神山(室田)、三ノ倉、大戸、須賀尾、狩宿、鎌原、大笹の各宿を通り、鳥居峠を越えて信州に入りました。須賀尾宿までは概ね国道406号と重なっており、三ノ倉宿までは烏川の両岸の道筋が利用されました。写真は、高崎市上里見町の「神山(かみやま)宿」ですが、対岸には「室田宿」がありました。

 

 高崎市倉渕町三ノ倉の「三ノ倉宿」は、江戸時代末期の幕臣・小栗忠順(ただまさ)の終焉の地(同第18回参照)や「権田栗毛」(ごんだくりげ)と呼ばれた名馬の産地として知られる権田村に隣接しています。写真は、三ノ倉宿の東端付近ですが、武蔵国熊谷郷(埼玉県熊谷市)出身の鎌倉武士・熊谷直実(なおざね)の愛馬「権田栗毛の終焉の地」と伝えられています。1184年、一ノ谷の合戦の鵯越(ひよどりごえ。鹿がやっと通れる断崖絶壁を馬で駆け下りた奇襲戦)で勇名を馳せた直実は、傷ついた権田栗毛を介抱して故郷に放しますが、その生家は既になく主人の元に帰る途中で最期を遂げ、村人が馬頭観音を建てて葬りました。

 

 信州街道は榛名山西麓を北上して東吾妻町に入り、「忠治とまどいの松」(同第18回参照)や「忠治地蔵」を通過して見城川に沿って下ると「大戸宿」に至り、西から流れる吾妻川の支流・温(ぬる)川に突き当たります。大戸宿は、温川と見城川が直角に交わる断崖上の要害に位置し、温川に沿って下流に進むとかつての真田氏の軍用道路「真田道」(国道145号)に合流して三国街道の中山宿(同第42回参照)に至る交通の要衝でもあるため、1631年に「大戸関所」が置かれました。江戸時代末期の侠客・国定忠治は、1836年に大戸関所を避けて山越えをした罪で1850年にこの地で処刑されました。

 

 大戸宿の加部安左衛門(世襲、通称:加部安)は、農業、酒造業、鉱山業、金融業などの多角経営を行って上州一の富豪となり、上州の分限者(財産家)として「一加部、二佐羽、三鈴木」と称されました。また、1783年の浅間山の大噴火に際しては窮民救済のために私財を投じ、幕末には足尾銅山の再興や外国貿易にも尽力しました。忠治は処刑直前に加部安の酒を所望して「上州の酒を飲み、上州の土となる、ああいい気持ちだ」と言ったとそうです。写真は、街道沿いの屋敷跡ですが、十万石の格式を真似たといわれる石垣や「うだつ」が当時の繁栄の面影を残しています。

 

 信州街道は、大戸宿で西に向きを変えて温川沿いを上流に進みますが、東吾妻町本宿(もとじゅく)の坂上中学校近くの断崖には大きな岩穴があって、岩に突き出ている形が臍(へそ)に似ていることから「へそ石」と呼ばれています。穴の直径は、上下20m、左右30m、奥行き10mもあって、臍の部分は直径10mで岩壁面より8m突き出ており、街道からその様子が良く見えます。また、へそ石の右隣には、釜を伏せたような形の「釜岩」があります。

 

 信州街道は、江戸に送られる北信濃国三藩(飯山、須坂、松代)の廻米や大豆、蕎麦、小豆、酒など、信濃国に送られる塩、茶、干魚などの物資の他、草津温泉への湯治客、善光寺参りの旅人、文人墨客などが往来しました。「須賀尾(すがお)宿」は、へそ石のある本宿から、万騎峠や須賀尾峠の峠下に位置する東吾妻町須賀尾に1624年に計画的に移転、整備されました。写真は、峠に向かって緩い上り坂が続く街道の両側に建ち並ぶ須賀尾宿の家並みで、各家がかつての屋号を掲げています。

 

 須賀尾宿を出ると、国道406号は北に向かい、標高1,048mの須賀尾峠を越えて長野原町に入ります。一方、信州街道は須賀尾峠の手前で林道に分け入って西に進み万騎峠を越えて長野原町に入ります。写真は、林道を少し進んだ地点にある「草津道」(須賀尾峠を越えて草津温泉に向かう道)との分岐点で、当時の道しるべには「右 くさつ道 左 志ん州道」と刻まれています。草津道は廃道になっていますが、かつては草津温泉への湯治客が往来し、江戸の8代将軍吉宗に草津温泉の献上湯(同第25回参照)が運ばれました。

 

 須賀尾峠の南西に位置する標高1,281mの「万騎(まんき)峠」は、源頼朝が1193年に浅間山の麓の三原野(嬬恋村)で巻狩りを行った際、宿泊地(狩宿)から万騎の兵を従えて峠を越えたことに由来すると伝えられています。江戸時代には、須賀尾宿と狩宿宿の中間にあって人馬の往来で賑わいましたが、林道の峠となった現在は訪れる人はほとんどなくひっそりとしています。写真は、旅人の目印になったと伝わる万騎峠のブナの大木です。

 

 万騎峠を長野原町側に下った所が長野原町応桑(おおくわ)の「狩宿(かりやど)宿」で、その手前の信州街道沿いには「朝比奈三郎義秀の墓」があります。義秀は鎌倉幕府の有力御家人・和田義盛(同第46回参照)の三男で、生母は木曽義仲の愛妾で女武将の・巴御前(同第58回参照)とも伝わり、武勇の猛者でしたが、1213年の和田合戦で一族が討たれると、巴御前の兄の子孫で馬庭念流の祖となったで樋口氏など、木曽義仲の残党が移り住んだこの地に隠棲したと伝わります。

 

 「狩宿宿」は、中山道の沓掛宿(長野県軽井沢町)と草津温泉を結ぶ「沓掛街道」が交差する要衝の地にあり、1652年に沼田藩の真田氏は小規模な私設の関所を置きました。1681年の真田氏改易後は幕府直轄の関所となりますが、大戸関所と大笹関所の間に位置する「番所」的なものだったようです。写真は、狩宿宿の本陣跡(左)と応桑小学校の校庭隅に建てられた「狩宿関所跡之碑」(正面)です。

 

 

 応桑交差点で国道146号(沓掛街道)との交差した信州街道は県道を進み、馬庭念流発祥の地(同第58回参照)と伝わる小宿集落を経て、嬬恋村鎌原(かんばら)の「鎌原宿」(同第23回参照)に至ります。写真は、鎌原宿の信州街道沿いの道しるべで「右すかを 左ぬまた ミち」と刻まれ、右に進むと狩宿を経て須賀尾、大戸、高崎へ、左に進むと羽根尾を経て中之条、沼田に至ることを示しています。なお、この道しるべは、1783年の浅間山の大噴火の土石なだれで押し流された宿内の「延命寺」の石標の欠片が利用されています。

 

 鎌原宿の先で国道144号に合流した信州街道は、上野国最後の宿である「大笹宿」に向かいます。大笹宿の西端の吾妻川の支流・鹿野籠(しかのろう)川の崖沿いにある「大笹関所」は、狩宿関所と同じく真田氏が1662年に置き、真田氏改易後は幕府直轄となりました。なお、この関所には抜道があって、1852年に建てられた「抜道の碑」には「揚げひばり 見聞てここに 休ふて 右を仏の 道と知るべし」と刻まれ、善光寺への抜道を暗示しています。写真は、保存されていた当時の門扉を使って信州街道沿いに再現された関所跡です。

 

 鳥居峠は、上信国境にある標高1,362mの峠で、かつて日本武尊が東征の際に峠に立って亡き妻・乙橘姫(同第62回参照)を偲んで「吾嬬者耶」(あづまはや。「ああ我が妻よ」の意)と嘆き、吾妻郡や嬬恋村の由来になりました。鳥居峠の名は、峠の北に位置する日本百名山の「四阿山」(あずまやさん)に日本武尊を祀る吾妻権現があり、そこに鳥居が建てられたことに由来します。また、戦国時代には、信濃国を平定した武田氏の命を受けた真田氏が、この峠を通る真田道を使って吾妻郡、利根郡に攻め込み沼田城を攻略(同第38回参照)しました。

 

 (参考図書等:「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、「群馬の川と道 その姿にふれる」(上毛新聞社)、「真田道を歩く」(上毛新聞社)、観光パンフレット、現地の説明板等)