本部長の群馬紀行
第62回 沼田街道

 皆様、こんにちは。
本格的な雨天になって、気温が幾分下がっています。

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 さて、群馬紀行第62回は、沼田市と前橋市を結ぶ「沼田街道」沿いの景観と史跡をご紹介します。

 

 江戸時代、沼田と前橋を結ぶ「沼田街道」にはいくつかの道筋がありましが、沼田藩主の参勤交代路として沼田と江戸を結んだ公道は、沼田から前橋方面に南北に流れる利根川の東岸を通ることから「東通り」と呼ばれていました。その道筋は、沼田城下から沼須集落に下って片品川を渡り、森下、南雲、溝呂木、米野、前橋、駒形、柴の各宿を経て利根川を渡り、五料宿を経て本庄宿で中山道に合流しました。写真は、沼田城下から沼須集落に下る道筋にある沼田市坊新田町(ぼうしんでんまち)の「金剛院の大燈籠」です。

 

 

 沼田街道(東通り)の最初の宿場である「森下宿」は、片品川を挟んで沼田台地の対岸の昭和村森下にあります。戦国時代には、周辺に長井坂(ながいさか)城、森下城、阿岨(あぞ)城があり、真田氏と北条氏が争奪戦(群馬紀行第39回参照)を繰り広げますが、江戸時代前半には宿場町として繁栄しました。写真は、昭和村川額(かわはけ)の長井坂城跡を横切る沼田街道ですが、森下宿を出ると利根川から離れ、赤城山西麓の丘陵上に登る険しい山道になりました。

 

 

 関越自動車道・長井坂トンネルの真上に位置する長井坂城跡を通過した沼田街道(東通り)は、平成18年に渋川市に合併した旧赤城村の農道を進みますが、街道の2番目の宿である「南雲(なぐも)宿」は、渋川市赤城町長井小川田の利根川の支流・沼尾川の北側斜面上にありました。写真は、本陣があった宿の中心付近の辻ですが、東西に流れる沼尾川に沿って家並みが続く集落の中を、当時の街道は南北に横切っていました。

 

 農道を辿ってきた沼田街道(東通り)は、南雲宿の先で再び県道に合流し、更に渋川市赤城町溝呂木(みぞろぎ)の交差点で吾妻郡中之条町と桐生市を結ぶ国道353号に合流します。この交差点付近が街道の3番目の宿である「溝呂木宿」で、脇道に入ると本陣跡や問屋跡などの家並みが当時の面影を伝えています。写真左は、宿の中心付近の街道沿いに建てられた鎮守「諏訪神社」の境内にある「溝呂木の大ケヤキ」で、樹齢約800年と伝えられています。

 

 国道353号に合流した沼田街道(東通り)は、渋川市に合併した旧北橘(きたたちばな)村を通過し、平成21年に前橋市に合併した旧富士見村で県道に分け入ると街道の4番目の宿である「米野(こめの)宿」に至ります。森下、南雲、溝呂木、米野の4宿には本陣や問屋が置かれ、継立用の人足10人、馬8頭が用意されました。沼田街道(東通り)は物資の輸送路としても利用され、沼田方面から農産物や炭、煙草など、前橋方面から生活用品である砥石、畳表、小間物、砂糖などが運ばれました。写真は、前橋市富士見町米野の交差点ですが、東に向かう道は日光裏街道の大胡宿(同第57回参照)にも通じており、街道一番の要路として繁栄しました。

 

 県道を南下する沼田街道(東通り)は、前橋市日輪(にちりん)町の「日輪寺」を通過して前橋市荒牧町で国道17号と交差し、その先の「荒牧神社」を通過して前橋城下に向かいました。一方、「前橋中道」とか「中通り」と呼ばれた沼田街道の別の道筋は、前橋市田口町で国道17号と分かれ、橘山(たちばなやま)の東を通って北上しました。写真は、前橋市田口町の国道17号ですが、正面に見える標高228mの橘山は、かつて日本武尊が東征の際にこの小高い山から亡き妻・乙橘姫(おとたちばなひめ)を偲んだことから名付けられたと伝わります。

 

 橘山を通過した沼田街道(中通り)は、旧北橘村、旧赤城村を北上して国道353号に合流し、東に進んで溝呂木宿に至ります。街道沿いの渋川市北橘(ほっきつ)町下箱田の「木曽三社神社」は、1184年に近江国で討たれた木曽義仲(同第58回参照)所縁の神社で、木曽三社のご神体を入れた箱を背負ってこの地に落ち延びた家臣が、泉の脇の石に腰かけたところ急に重くなり動けなくなったため、この地に建立したものと伝えられています。富岡市の貫前神社と同様、下り参道の神社で、社殿前には「腰掛石」が置かれています。

 

 赤城山西麓の農村地帯を通る沼田街道沿いでは、農民の娯楽の一つとして地芝居(じしばい)が流行し、多くの歌舞伎舞台が造られました。写真は、国道353号と合流する渋川市赤城町上三原田(かみみはらだ)にある「上三原田の歌舞伎舞台」ですが、この地に生まれた名人大工・永井長治郎が工夫考案して1819年に創設したもので、全国で唯一の2重せり上がりの廻り舞台でした。なお、長治郎は明治2年に前橋藩知事に招かれ、利根川の大渡に錦絵にも描かれた「万台(まんだい)橋」(現大渡橋)を架橋したことでも知られています。

 

 利根川東岸を通っていた沼田街道は、江戸時代中期以降になると、利根川西岸を北上する「西通り」も利用されるようになりました。その道筋は、橘山の北側を通って旧北橘村八崎(はっさき)の「船戸(ふなと)の渡し」で利根川を渡り、対岸の白井宿(同第7回参照)から北上するものでした。写真は、渋川市北橘町八崎の「八崎宿」を通る沼田街道(西通り)ですが、浮き彫りの「六地蔵」がある「雙玄寺」(そうげんじ)が見えています。八崎宿は、白井城(同第7回参照)の支城として築かれた「八崎城」の城下町として形成され、1590年の北条氏の滅亡により白井城と運命を共にして廃城となりますが、後に宿場町として繁栄しました。

 

 沼田街道(西通り)は、子持山(こもちやま)山系の東麓を進みますが、途中「十八坂七曲」と呼ばれる難所があり、旅人は難渋していました。このため、最初の写真で紹介した沼田市坊新田町の「金剛院」の住職・江舟は、1846年に岩盤をくり抜いて延長17m、直径2.4mの「穴道」と呼ばれる隧道を開削し、その後、明治34年には穴道の隣に「綾戸隧道」が貫通して大幅に時間が短縮されました。写真は、渋川市上白井の「綾戸橋」から見た国道17号「綾戸トンネル」です。

 

 沼田街道にはこの他、八崎宿から利根川の東岸をそのまま北上し、津久田、棚下(たなした)の集落を経由して森下宿で合流する「川通り」がありました。津久田集落には1723年以来の伝統がある3人遣いの人形芝居が伝わり、渋川市赤城村津久田の「上の森八幡宮」には、1811年に歌舞伎舞台として建造され、後に人形芝居用に改造された「津久田の人形舞台」があります。写真は、八幡宮の一角に自生した「敷島のキンメイチク」と呼ばれる竹林で、竹の節のくぼみに並行に黄色の模様が規則正しく並び、国の天然記念物に指定されています。

 

 沼田街道(川通り)を上流に進むと、利根川は大きく蛇行を繰り返しますが、街道もそれに沿って険しい道を進みます。渋川市赤城町棚下には「幕岩」と呼ばれる約100mに及ぶ断崖があり、その崖下には「日本の滝100選」に選ばれた約40mの断崖を一気に流れ落ちる「棚下不動の滝」(雄滝)と不動明王を祀るお堂があります。写真は、棚下集落を通る沼田街道(川通り)から見た「幕岩」です。

 

 

 結局、利根川の東岸を通る道筋はあまり発展せず、渋川から先の現在の沼田街道(国道17号)は西岸を通っています。一方、大正10年に前橋〜渋川間が開通した「上越線」は、群馬総社駅、八木原駅など全ての駅が利根川西岸に開業しますが、同13年に路線が沼田駅まで延伸される際には、利根川東岸に位置する村々の誘致運動により、敷島駅が東岸に開業しました。写真は、八崎宿に近い渋川市赤城町三原田の沼田街道(川通り)の陸橋から写したものですが、渋川〜敷島駅間で上越線が利根川東岸に移ります。敷島駅から先の上越線は、蛇行する利根川の両岸を縫うように進み沼田駅に至ります。

 

 (参考図書等:北橘歴史資料館、赤城歴史資料館、「まんが北橘村誌」(まんが北橘村誌刊行会議)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、「群馬の川と道 その姿にふれる」(上毛新聞社)、観光パンフレット、現地の説明板等)