本部長の群馬紀行
第61回 銅山街道(その3)

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 さて、群馬紀行第61回は、銅山街道(その3)として、県東部を南北に縦断する銅山(あかがね)街道のうち、前回に引き続き北部街道沿いの景観と史跡をご紹介します。

 

 みどり市(旧大間々町)から桐生市(旧黒保根村)に入っていた銅山街道と「わ鐡」は、水沼駅の先で渡良瀬川の支流・小黒川を越えると再びみどり市(旧東村)に入ります。写真は、みどり市東町萩原の国道122号から写したものですが、左下の渡良瀬川から右上の段丘にかけて順に、銅山街道、「わ鐡」、国道122号の3つの交通路が並んでいます。段丘上を通っていた銅山街道は、ここで坂を下って「わ鐡」と交差して川沿いに移ります。

 

 

 渡良瀬渓谷沿いの開発によって銅山街道の大部分がその面影を失いましたが、みどり市東町の萩原から花輪にかけての銅山街道は、国道122号から離れた位置にあって当時の面影を良く残している貴重な個所です。写真は、銅山街道の5宿の一つ「花輪宿」の中ほどにある銅問屋・高草木家所有の「御用銅蔵」で、昭和8年に現在の姿に改修されました。銅蔵の右の家屋は国の有形登録文化財となった「高草木家住宅」で、左後方の山(要害山)にはかつて「五覧田城」(前回参照)がありました。

 

 

 幕末の1865年に花輪宿で生まれた石原和三郎は、教育者として旧花輪小学校の教員や校長を勤めたほか、明治期の難しい文章体ではなく子供達にも解り易い「言文一致」の唱歌の推進に努め、童謡詩人として「うさぎとかめ」「金太郎」「はなさかじじい」等の代表作を始めとする百余の詩を発表し「童謡の父」と称されました。写真は、花輪宿の中央に位置する「花輪駅」ですが、ホーム上にはうさぎとかめの石像が置かれています。

 

 同じく、幕末の1867年に花輪宿で生まれた今泉嘉一郎は、明治25年に東京帝国大学工学部を卒業後、農商務省で官立八幡製鉄所の建設、運営等に携わり、退官後の明治45年には渋沢栄一らの協力を得て日本鋼管株式会社を創立するなど日本鉄鋼業界の発展に尽力し、「近代製鉄の父」又は「近代産業の父」と称されました。写真は、銅山街道沿いの嘉一郎の生家「旧今泉家住宅」で、国の登録有形文化財となっています。

 

 

 石原和三郎や今泉嘉一郎などの著名な卒業生を輩出した旧花輪小学校は、花輪宿の北側斜面上に明治6年に開校し、嘉一郎の寄付金を基に昭和6年に建て替えられました。平成13年に小学校の統廃合により廃校となりましたが、同15年に「旧花輪小学校記念館」として開館し、石原和三郎・今泉嘉一郎展示室のほか、教育や鉄道関連の資料が数多く展示されています。なお旧校舎は、木造2階建、切妻造、洋風瓦葺、腰折れ屋根窓など建築当時の姿を留めており、国の登録有形文化財となっています。

 

 「わ鐡」の開業に伴って新設された4駅の一つ「中野駅」を経て、みどり市東町小中の「小中駅」正面で、国道122号から分かれる小中川沿いの道を車で20分ほど登った所に落差96mの「小中大滝」があります。昔、この地を訪れた弘法大師が人々を苦しめていた源太和尚を戒めると、お経を唱えながら岩の下で亡くなったため、亡骸に袈裟を掛けると白蛇となって滝に住みつき今も人々を守っているという伝説があります。駐車場から滝(写真左)に至る遊歩道に伝説に因んだ「けさかけ橋」(写真右)が架かっていますが、長さ51m、最大斜度44%のスリル満点の階段式つり橋です。

 

 小中駅の先のみどり市東町神戸(ごうど)の「神戸駅」は、国鉄足尾線時代には兵庫県の神戸(こうべ)駅との混同を避けるため「神土駅」と表記されていましたが「わ鐡」の開業に伴い改称されました。上神梅駅と同じく足尾鉄道業以来現役で活躍している神戸駅は、本屋、休憩所、上下線プラットホーム、危険品庫が国の登録有形文化財となっており、上り線ホームには東武鉄道日光線で活躍していた特急列車を改造した「レストラン清流」が開業しています。

 

 神戸駅の先にはかつて国鉄足尾線の「草木(くさき)駅」がありましたが、草木ダムの建設に伴う足尾線の新線付け替えにより廃止されました。新線は、全長5,242mの草木トンネルによって草木ダムの西側を迂回し、神戸駅とダム湖との高低差約140mを登ります。一方、廃線となった「琴平トンネル」は、ダムサイト直下の旧線や銅山街道跡に整備された遊歩道「森の散策路」の入り口となっていて、頭上のダムサイト付近を通る国道122号にも繋がっています。

 

 草木ダムは、首都圏の水がめである利根川系8ダムの一つとして渡良瀬川に建設された多目的ダムで、昭和51年に竣工しました。このダムの完成により、草木駅、国鉄足尾線の旧線、銅山街道がダム湖である「草木湖」の湖底に沈みました。写真は、ダムサイト上から見た草木湖ですが、湖畔には水彩の詩画で著名な「富弘美術館」や温泉のある「国民宿舎サンレイク草木」のほか、公園や散策路などが整備されています。

 

 草木トンネルを抜けた「わ鐡」は、鉄橋で草木湖を渡り、群馬県側最後の「沢入(そうり)駅」に至ります。国鉄足尾線時代には「そおり」と呼ばれていましたが「わ鐡」の開業に伴い改称されました。駅舎に簡易郵便局が併設されているのが特徴で、開業以来の上下線プラットホームと昭和初期建造の木造平屋建ての待合室が国の登録有形文化財となっています。なお、周辺の袈裟丸山(けさまるやま)や渡良瀬川上流域は「沢入御影石」(みかげいし。石材として使用される花崗岩)の特産地で、国道が整備されるまでは沢入駅がその運搬拠点でした。。

 

 一方、銅山街道の5宿の一つ「沢入宿」は、当地の名家・松島家が銅問屋を勤め、足尾を出て最初の中継地として四日市が開かれて栄えました。後年は、沢入御影石の石材業や林業が盛んになり、宿内には趣のある古民家が点在しています。宿の中心は、渡良瀬川を挟んで沢入駅の対岸上部を通る国道122号沿いの「大沢(だいたく)寺」付近にあり、かつて寺の正面にあった旧松島家の銅蔵は現存していませんが、旧松島家跡から渡良瀬川方向に下る銅山街道には、当時のままの石畳が良く残っています。

 

 袈裟丸山は、栃木県との県境に位置する標高1,878mの山で、その中腹には巨大な御影石の岩場に浮彫りされた「寝釈迦」(ねしゃか)があります。大沢寺の横から林道に入り、沢入城跡(前回参照)を通過して「塔ノ沢登山口」に車を置き、徒歩1.8km、約50分の行程です。寝釈迦像は縦368cm×横130cmの大きさで、右手枕で右脇を下にした安楽の姿勢で、北枕に西向きで横たわっています。誰がいつ彫ったかのか不明ですが、かつて弘法大師が彫ったとも言われ、また、江戸時代に足尾銅山に送り込まれて病死した多くの囚人の菩提を弔うために密かに彫られたとも言われています。

 

 銅山街道の沢入宿と足尾の間、上野国と下野国の国境にはかつて「大名(おおな)峠」とか「大難峠」と呼ばれた難所がありましたが、現在は渡良瀬川の西岸を通る国道122号の「沢入トンネル」を抜けると栃木県境となります。一方、沢入駅を出た「わ鐡」は、白い花崗岩の河原が続く渡良瀬川の東岸を通って栃木県側の「原向(はらむこう)駅」に向かいます。

 

 (参考図書等:「銅街道 村のアルバム」(勢多郡東村教育委員会)、「わたらせ渓谷鉄道」(まつやま書房)、「足尾銅山街道」(群馬県教育委員会)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、観光パンフレット、現地の説明板等)