本部長の群馬紀行
第60回 銅山街道(その2)

 皆様、こんにちは。
猛暑が続いていますので、熱中症には十分注意して下さい。

 8月1日から自衛官候補生、一般曹候補生、航空学生の試験受付が始まりました。自衛官志望の方はもとより公務員志望の方、民間企業との併願の方などたくさんの応募をお待ちしています。

 

 さて、群馬紀行第59回は、銅山街道(その2)として、県東部を南北に縦断する銅山(あかがね)街道のうち、北部街道沿いの景観と史跡をご紹介します。

 

 大間々宿から歩いて10分程度のごく近い渡良瀬川には、吾妻峡(群馬紀行第10回参照)と並んで「関東の耶馬渓」とも称される渓谷「高津戸(たかつど)峡」があります。下流の赤く塗られた「高津戸橋」から、水の飛散する様子が滝のように見えることから名付けられた上流の「はねたき橋」まで30分程度で巡る遊歩道が整備され、新緑や紅葉の季節には市街地近郊とは思えない素晴らしい景観が広がります。写真は、はねたき橋から高津戸橋方向を見たところです。

 

 

 渡良瀬川はかつて黒川と呼ばれており、大間々方面口を守る深沢城主・阿久沢氏や足尾方面口を守る沢入(そうり)城主・松島氏などをリーダーとする黒川衆と称する武士団が黒川郷(渡良瀬川上流域)において半独立の形勢を維持していました。更に、沼田方面から赤城山の東北麓を回って黒川郷に抜ける沼田方面口を守るため、渡良瀬川の西岸に位置する標高593mの要害山に「五覧田(ごらんだ)城」を築いて黒川郷の守りを固めます。写真は、みどり市東町荻原の五覧田城跡から俯瞰した黒川郷です。

 

 一方、高津戸峡の東岸に位置する標高270mの要害山には、山田氏が1088年に築いたと伝わる高津戸城があり、1351年に桐生国綱(同行第45回参照)によって滅ぼされるまで二百数十年間城主としてこの地を治めます。戦国時代になると、新田源氏の末裔で房総に逃れていた里見氏の一族・里見勝広が桐生氏の家臣となって高津戸城主となりますが、関東管領となった上杉謙信に好を通じて子の勝政・勝安兄弟を人質として託したことを桐生氏に咎められ、1570年に勝広の家臣・石原石見守(いわみのかみ)に謀殺されます。写真は、要害山頂の高津戸城跡に祀られた「要害神社」です。

 

 その桐生氏は、下剋上で戦国大名となった新田源氏の末裔・由良成繁(同第49回)に1573年に滅ぼされますが、石原石見守は由良氏の家臣となって生き延びます。これを知った里見兄弟は、石原石見守を討つため、上杉謙信の助けを借りて1576年に高津戸城を再興し、阿久沢氏に黒川衆の与力を願い出ます。しかし、由良氏を敵に回すことを怖れた黒川衆に拒否され、翌年、逆に由良氏の大軍に囲まれると少ない兵力で討って出ますが勝安は討死、勝政は自害します。写真は、要害山(右手後方)の麓の高津戸橋に近い「山田氏および里見兄弟の墓」です。

 

 1578年に上杉謙信が病死すると、由良氏は北条氏と手を結んで高津戸城、深沢城、五覧田城などを手に入れますが、1582年に厩橋城に入った関東管領・滝川一益の呼び掛けに応じて北条氏から離反します。神流川の合戦(同第52回参照)の結果、上野国の大部分を勢力下に置いた北条氏は、黒川衆を使って由良氏を攻め落としますが、1590年に北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると黒川衆はその地位を失い、黒川郷で帰農しました。写真右は、「阿久沢氏累代の墓」がある桐生市黒保根町宿廻(しゅくめぐり)の「正円寺」ですが、道路の左側が「深沢城跡」です。

 

 

 銅山街道と日光裏街道(同57回参照)が合流する深沢宿に近いみどり市大間々町上神梅には、黒川郷における戦国時代の戦死者を葬った「千人塚」があり、1752年に正円寺の住職が地蔵堂を建立し、石工に仏像を彫らせました。ところが、不思議なことが起こるので石工が逃げ出して頭部が四角いままの未完成の地蔵が残り「深沢の角地蔵」と呼ばれるようになりました。地元では、寸法違いの未完成を意味する「間違い地蔵」とも呼ばれているそうです。

 

 

 全盛期には年間1200トンの産出量を誇った足尾銅山も乱屈の結果、江戸時代末期にはほぼ休山状態となっていましたが、明治時代になると民営化され、後に鉱山王と呼ばれた古河(ふるかわ)市兵衛が有望鉱脈を発見して生産を急速に伸ばし、明治中期には日本一の銅山となりました。市兵衛は銅を輸送する鉄道を計画しますが、その夢は大正元年に大間々〜足尾間に開通した「足尾鉄道」で実現し、大正7年に国有化されて「国鉄足尾線」となりました。写真は、みどり市大間々町上神梅(かみかんばい)の「上神梅駅」ですが、足尾鉄道開業当時のままの姿を残す数少ない駅舎で、本屋(駅舎)と間地石(けんちいし。6つで1間・180cmの長さになる石材)よる割石積みのプラットホームは国の登録有形文化財となっています。

 

 

 昭和になると、足尾銅山は産出量の減少と時代の流れの中で衰退の一途を辿り、昭和48年に閉山します。足尾線も主力の貨物輸送が激減して廃線が危ぶまれましたが、平成元年に第3セクターの「わたらせ渓谷鐡道株式会社」に引き継がれました。写真は、本社と車庫がある「大間々駅」と要害山ですが、昭和16年に建て替えられた駅舎には当時のモダンな雰囲気が残されており、本屋とプラットホームは国の登録有形文化財となっています。

 

 

 「わたらせ渓谷鐡道」は「わ鐡」の愛称で親しまれ、JR両毛線との接続駅となる桐生駅から栃木県の間藤(まとう)駅までの44.1kmを約1時間半かけてのんびり走ります。平成23年に開業100年を迎え、沿線の38施設が国の登録有形文化財になりました。写真は、東武鉄道桐生線との接続駅となっている桐生市相生町の「相老駅」ですが、「わ鐡」のレトロな1両編成のディーゼルカーと東武鉄道の近代的な特急「りょうもう号」が並ぶ姿が対照的です。

 

 

 乗ってみたいローカル線として全国的に注目を集めている「わ鐡」は、土曜日や休日には窓ガラスの無いオープン列車で渓谷の景色を楽しめる「トロッコわたらせ渓谷号」や「トロッコわっしー号」が運転されています。写真は、渡良瀬川と国道122号の間の渓谷沿いを走る「トロッコわっしー号」ですが、上神梅駅と本宿駅間にある全長30mの「深沢橋梁」(国の登録有形文化財)を通過中です。橋を越えると旧黒保根(くろほね)村に入りますが、赤城山の古名「くろほ嶺」から名付けられたと言われる旧黒保根村は、平成17年に旧新里村とともにみどり市を挟んで飛び地となる桐生市になりました。

 

 

 桐生市黒保根町宿廻(しゅくめぐり)の本宿駅は、国道沿いに併設された駐車場から階段を下りた崖の途中に、へばりつくように造られています。写真は、桐生市黒保根町下田沢の「水沼駅」ですが、温泉記号が描かれているとおり、群馬県が「わ鐡」の経営支援のための施設として赤城山東麓の猿川温泉から引湯して開業した「水沼駅温泉センター」が駅舎の中に併設されていて、日帰り入浴が可能となっています。

 

 

 水沼駅の先の高台にはかつて村役場があり、現在は桐生市立「黒保根歴史民俗資料館」となっていて、黒保根の歴史や人々の暮らしを紹介しています。資料館の裏には代々村役人を勤めた豪農の「星野家長屋門」があり、その敷地内には星野長太郎が明治7年に創設した工女養成施設「水沼製糸所」がありました。教育熱心で敷地の中に工女のための夜間学校も開設した長太郎は、生糸の直輸出にも尽力しますが、楫取素彦の支援を受けて渡米した青年実業家・新井領一郎(同第48回参照)は長太郎の実弟です。

 

 

 一方、かつては宿から宿へおよそ1日かけて馬1頭に約90キロの銅を積んで運んだと言われる銅山街道は、大間々宿や桐原宿を過ぎると渡良瀬川の渓谷に沿った険しい山道になります。落石や土砂崩れも多く発生し、明治になっても通行に困難を極めた旧街道は、新銅山街道・国道122号が開通し、上流に草木ダムが完成すると様相は一変し、旧街道の大部分は使用されなくなって荒廃し又は行き止まりとなって、かつての面影を辿ることは難しくなっています。写真は、みどり市大間々町下神梅の旧街道の分かれ道で、左手の旧街道を登った先の斜面上が深沢宿です。

 (参考図書等:コノドント館、黒保根歴史民俗資料館、「まんがおおままの歴史」(大間々町)、「わたらせ渓谷鉄道」(まつやま書房)、「足尾銅山街道」(群馬県教育委員会)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、観光パンフレット、現地の説明板等)