本部長の群馬紀行
第59回 銅山街道(その1)

 皆様、こんにちは。
梅雨が明け、いよいよ夏本番となります。気温が更に上昇しますので、熱中症には十分注意して下さい。

 間もなく自衛官候補生、一般曹候補生、航空学生の試験受付が始まります。現在、県内各地で地本の自衛官等募集事務担当者(広報官)が募集広報活動を行っていますが、受験資格があり、自衛官という職業に関心のある方は、是非一度耳を傾け、ご検討頂けますようお願い申し上げます。

 

 さて、群馬紀行第59回は、銅山街道(その1)として、県東部を南北に縦断する銅山(あかがね)街道のうち、南部街道沿いの景観と史跡をご紹介します。

 

 江戸時代初期の1610年に下野国(栃木県)の足尾山中に銅鉱が発見され、当初は商人が日光経由で輸送していましたが、幕府は1648年に銅山奉行を置いて銅の採掘から精錬、輸送、納入まで直轄で行うこととし、銅を輸送するための産業道路として足尾から利根川の河岸までの約60kmを銅山街道として整備しました。写真は、銅山街道の中ほどに位置するみどり市役所大間々(おおまま)庁舎付近ですが、渡良瀬川が赤城山噴火の泥流物などを運んで形成された桐原面、藪塚面という段差のある新旧の合成扇状地となっており、急斜面を意味する「間々」が地名の由来となっています。

 

 銅山街道が通過する旧東村、旧大間々町、旧笠懸町は平成18年に合併してみどり市となりました。このうち旧大間々町は、大間々扇状地の要に位置し、砂礫層が堆積して地下水位が低いため水田は開かれませんでしたが、谷口集落として南に向かって細長い街並みを形成し、江戸時代前半には銅山街道の宿場町として栄えました。写真は、1787年に「河内屋」の屋号を掲げて創業以来、現在も操業中の醤油醸造業「岡直三郎商店」ですが、明治の大火時には、少ない水を補ってここの醤油が大量に火消しに使われて延焼を防いだと伝えられています。

 

 銅山街道には沢入(そうり)、花輪、大間々、平塚の宿場が整備され、それぞれに銅の継ぎ送りを行う銅問屋と銅を保管するための銅蔵が置かれました。このうち「大間々宿」は1747年に前橋藩領となったため、西側の河岸段丘上の幕府直轄領に改めて「桐原宿」が整備されました。写真は、新・銅山街道沿いに1813年頃に置かれたみどり市大間々町桐原の銅問屋・藤生家所有の「桐原銅蔵」で、街道を挟んだ向いの世音寺境内には、天災や飢饉などの非常時に備えて穀物を貯えることを目的として1847年に幕府が造った「桐原郷蔵」があります。

 

 一方、大間々宿は、銅の継ぎ送り機能が桐原宿に移った後も近隣の物資が集積する市場町として発展しました。写真は、昭和63年に「みどり市大間々博物館」として開館した「コノドント館」ですが、昭和33年にこの地で発見された1ミリほどの微化石・コノドントは、近年になって初期の魚類の歯と判明し、脊椎動物の進化の謎を解く手がかりとなる化石として注目されています。コノドント館の前身は、明治16年開業、大正10年建築の旧大間々銀行で、木造の骨組みに大谷石を積み外側にレンガ風タイルを張った「木骨石積タイル張り工法」で造られており、そのモダンな外観は、当時の大間々地域の活発な経済活動と繁栄を伝えています。

 

 旧大間々町周辺には、JR両毛線、わたらせ渓谷鉄道、東武鉄道桐生線、上毛電気鉄道の4つの鉄道路線が集中していますが、相互の接続駅は二つの路線が一つずつの3駅しかなく、乗り換えは非常に複雑で便利とは言えませんが、鉄道ファンにはそれが逆に魅力のようです。写真は、わたらせ渓谷鉄道の「大間々駅」から南に約1km離れた大間々宿の南端に位置する「赤城駅」で、上毛電気鉄道と東武鉄道桐生線が接続しており、東京方面から来る東武鉄道の特急「りょうもう号」などが入線しています。なお、赤城駅はかつて「新大間々駅」という名称でしたが、赤城山へ向かうバスが出ていたために改称され、その後バスが廃止されたそうです。

 

 旧大間々町の南に位置する旧笠懸町は、かつて源頼朝が新田源氏の祖・新田義重の館に立ち寄った際、旧笠懸町の原野で催された流鏑馬(やぶさめ)の最中に在郷武士が風に舞った笠を射落としたことに感激して「笠懸野」と名付けことに由来すると伝わります。武蔵国に生まれ、1662年に笠懸野に代官として赴任した岡上景能(おかのぼりかげよし)は、渡良瀬川に取水口を設けて水利の悪い大間々扇状地に水を引く難工事に挑みました。写真は、みどり市笠懸町鹿(しか)のJR両毛線の踏切近くの「岡上景能公陣屋跡」ですが、銅山街道沿いに西側の堀を寄せ、南北320m、東西は北側で190m、南側で250mの広さを持っていたと推定されています。

 

 1668年に銅山奉行に抜擢された景能は、銅山街道の輸送の効率化を図るため、大間々扇状地の水利工事に併せて、大間々宿から真っすぐに南下する新しい道路を開削し、笠懸野の原野に「大原宿」を整備しました。大原宿に置かれた銅問屋や銅蔵は現存しませんが、写真の太田市大原町付近は、新たに開削された銅山街道に整然と宿割りされた当時の面影が残っています。街道脇には、地元農民たちが景能公のご恩に報いるために1752年に神明宮境内に創建した「岡登霊神社」があります。

 

 生来剛直で人のためになることならば世論に関せずに実行する景能は、幾多の困難を乗り越え10年以上の年月を費やして1672年に用水路を完成させました。旧大間々町の渡良瀬川で取水された用水は、旧笠懸町阿左美の「三俣分水口」で分流して南の「阿左美沼」と西の「鹿(か)の川沼」に落とされ、更に西の用水路は笠懸野の原野を経て銅山街道沿いに大原宿に流れ、近隣7ヶ町村が恩恵を受けました。写真は、南の用水路沿いに整備されたみどり市笠懸町阿左美の「岡登親水公園」です。

 

 しかしこの大事業も、心なき人々の悪口、同僚官吏による嫉妬、下流住民の余水の湧き出し等の苦言により幕府に召喚され、1687年に切腹を申し付けられました。用水路は景能の失脚後に廃絶されましたが、明治6年に「岡登用水」として再興され、更に拡張されて現在に至っています。写真は三俣分水口跡ですが、再興時のものは埋没保存され、地上には再興時の図面から復元した実物大の分水口の施設が展示されています。

 

 大原宿を経た銅山街道は、更に南下して「矢田神水源」「江田館跡」「総持寺境内」「長楽寺境内」「東照宮境内」など新田荘園遺跡(群馬紀行第16、17回参照)の近くを通り、伊勢崎市境平塚の「上部大橋」近くの「平塚河岸」に至ります。ここから船便で川を下り、浅草に設けられた御蔵に運ばれました。平塚河岸の船問屋に生まれ新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」のモデルとなった弘前歩兵第31連隊の福島大尉の墓がある「天人寺」(同第30回参照)の境内には、「右 太田 大間々 日光道 左 いせさ記 まやばし」と刻まれた銅山街道の道しるべがあります。

 

 平塚河岸は、当初は銅の積出河岸として使用され銅問屋が置かれましたが、水深が浅く大船の着岸が困難になると、幕府は1688〜1703年に下流の前島河岸に積出河岸を変更し、銅問屋は前島河岸に近い亀岡に設けられました。その後平塚河岸は、1783年の浅間山の噴火による泥流で水深が浅くなった上流への運航が可能な小船の積替河岸として繁栄しました。写真は、太田市亀岡町の銅問屋・高木家所有の「亀岡の銅蔵」で、1843年の記録に残り、屋根が瓦葺(当時は板葺)になったことを除けば、ほぼその原型を留めています。

 

 前島河岸が銅の積出河岸になると、銅山街道は太田市新田上江田町で東に分かれて日光例弊使道の木崎宿(同第21回参照)を経由する道に変わりました。当時の利根川は現在よりかなり北側を流れており、前島河岸跡は今は畑の中にあります。前島河岸には「上の河岸」と「下の河岸」の二つがあり、利根川支流の早川を挟んで向かい合っていますが、写真は国道17号(上武道路)の「新上武大橋」に近い現在の下の河岸跡の様子です。

 

 (参考図書等:コノドント館、「まんがおおままの歴史」(大間々町)、「まんが岡上景能公」(笠懸町岡上景能公顕彰会)、「わたらせ渓谷鉄道」(まつやま書房)、「足尾銅山街道」(群馬県教育委員会)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、観光パンフレット、現地の説明板等)