本部長の群馬紀行
第58回 信州姫街道(吉井宿)

 皆様、こんにちは。
 梅雨の晴れ間が続き、関東各地は気温が上昇しています。熱中症には十分注意して下さい。

 現在、県内各地で地本の自衛官等募集事務担当者(広報官)が募集広報活動を行っていますが、受験資格があり、自衛官という職業に関心のある方は、是非一度耳を傾け、ご検討頂けますようお願い申し上げます。

 

 さて、群馬紀行第58回は、信州姫街道(吉井宿)として、高崎市吉井町周辺の景観と史跡をご紹介します。

 

 

 女性の旅人が多く利用したことから名付けられた「信州姫街道」は、中山道の脇往還で、本庄宿から分かれて藤岡、吉井、福島、富岡、一の宮、南蛇井、下仁田の各宿を通り、西牧道と南牧道に分かれて信州に入ります。これまでの群馬紀行で吉井宿以外の宿は既にご紹介していますのでこれで完結です。写真中央は、十石峠道と信州姫街道の交差点(藤岡市藤岡の4丁目交差点)に建つ藤岡宿の里程標で、左が十石峠道の鬼石宿方向、右が信州姫街道の吉井宿方向です。

 

 

 「上野三碑」の一つ「多胡碑」(群馬紀行第9回参照)がある高崎市吉井町には、律令時代には多胡郡が置かれ、平安時代には多胡荘が成立しました。平安時代末期には源氏が東国へ下り、1140年頃には源氏嫡流の源義朝の弟・義賢(よしかた)が多胡荘に館を築いて治めていましたが、一族の勢力争いの中で、1155年に義朝の長男・義平に武蔵国の大蔵(埼玉県嵐山町)で暗殺されます。写真は、義賢の居館があった高崎市吉井町多胡の「多胡館跡」で、100m四方の広さがあります。

 

 

 3歳の二男・駒王丸は乳母夫の中原兼遠(かねとう)に伴われて信濃国の木曽谷に逃れ、兼遠の子で兼光・巴(ともえ)兄妹とともに育てられます。成長した駒王丸は木曽義仲と称して1180年に平氏討伐の兵を挙げ、義仲四天王の一人で樋口村に居住して改称した樋口兼光や女武将となった巴御前を伴って京に上り「朝日将軍」の称号を得ますが、治安維持に失敗するなどして人望を失い、1184年に従兄弟の源範頼・義経に討たれました。同時に兼光は討たれますが、巴御前は東国に落ち延びたとも伝えられ、藤岡市藤岡の「一行寺観音堂」(写真)には、兼遠が女子誕生を祈願して成就し巴の持仏となったと伝わる観音菩薩があります。

 

 

 

 一方、樋口村に残った兼光の子孫・11代兼重は、相馬四郎(念大和尚)の高弟となって「念流」を学び、その子孫は上野国吾妻郡応桑(おうくわ)を経て先祖所縁の多胡荘の馬庭(まにわ。高崎市吉井町馬庭)に移ります。17代定次は念流八世を印可されて「馬庭念流」を興し、1600年に天真流・村上天流との試合に勝利しました。室町幕府の名家の山名氏の祖・新田義範(同第9回参照)が勧請した高崎市山名町の「山名八幡宮」には、参篭して試合に臨んだ定次が木剣で断ち割ったと伝わる石があります。写真は、参道横に置かれた「たちわりの石」と参道を横切る「上信電鉄」で、線路の下を潜ってお参りします。

 

 

 

 馬庭念流は守りに重点を置いた流派で、門人には、赤穂浪士中随一の剣客で「高田馬場の決闘」で有名な堀部(中山)安兵衛などの武士もいますが、多くは農民、町民などで、庶民の護身術として関東各地に広く受け入れられました。写真は、1867年に門人達により建てられた「馬庭念流道場・こう士館」ですが、念流宗家・樋口氏とともに今日に引き継がれています。

 

 

 

 律令時代、高崎市吉井町周辺には、多胡郡のほか、現在の藤岡市を中心とする「緑野郡」(同第56回参照)や富岡市を中心とする「甘楽郡」が置かれていました。安芸国(広島県)の赤松則景は、1180年の頼朝の挙兵に応じて鎌倉に上り、その子・氏行は甘楽郡司となって奥平郷(高崎市吉井町下奥平)に城を築いて奥平氏を称しました。6代定政は1333年の新田義貞の鎌倉攻めに参陣して南朝方として活躍しますが、8代貞俊は北朝方に押されて奥平城を出て三河国作手(つくて)郷に移り、その子孫は徳川氏家臣となりました。写真は、奥平郷に建つ「奥平家叢祥之地」の碑です。

 

 

 

 高崎市吉井町神保の「仁叟寺」(じんそうじ)は、奥平郷に残った貞俊の弟・貞訓が1428年頃に奥平郷に創建し、三河国に移った奥平氏の子孫・貞能(さだよし)が1522年に現在地に移して本堂を再建したと伝わり、その後、各時代の藩主、領主から手厚い保護を受けました。写真は、再建以来約5百年の間、一度も兵火等に遭うことなく改修護持された本堂と樹齢5百年以上と伝わる「仁叟寺のカヤ」です。

 

 

 

 「平井城」(同第56回参照)を拠点に、多胡荘周辺に一郷山城、八束城、天引城、国峰城、長根城などを築いて西の守りを固め上野国を支配していた関東管領・上杉憲政が北条氏に追われて1552年に越後に逃れると、上野国は北条氏、長尾(上杉)氏、武田氏の勢力争いの場となりますが、1590年に徳川家康が関東入りして、多胡荘には三河国出身の菅沼定利を2万石で封じます。定利は城を築き、城下の町割りを行って「吉井」と改め、宿場を整備しますが、関ヶ原の戦いで徳川秀忠に従軍した後、1602年に亡くなります。写真は、城下にある定利の菩提寺である「玄太寺」の「菅沼定利墓碑」です。

 

 

 

 子の無かった定利は、奥平貞能の子で隣の小幡城主となっていた信昌の三男・忠政を養子に迎え2代藩主としましたが、1610年に信昌の後継として美濃国に移封となったため、吉井藩は廃藩となりました。その後は暫く旗本領や直轄領となりますが、定利が整備した「吉井宿」は、吉井藩、小幡藩、七日市藩の人馬の継立てのほか、旅人の往来や信濃国佐久の米、砥沢の上野御用砥、下仁田の麻、藤岡の絹など各地の特産品の輸送で賑わいました。写真は、当時の面影を残す信州姫街道と吉井宿です。

 

 

 

 旗本領時代の1667年、旗本・倉橋内匠(たくみ)の悪政に対し、緑埜(みどの)村(藤岡市緑埜)の名主・堀越三右衛門は妻子に別れを告げて幕府に直訴を行いますが、捕縛され磔の刑に処せられて二人の子供も打首となりました。その後、黒熊村(高崎市吉井町黒熊)の三木市右衛門も直訴を企てますが事前に発覚し8年間獄舎に繋がれた後国払いの刑に処せられました。しかし、この二人の義民の犠牲により、倉橋内匠は改易となり村には減税が行われました。写真は、高崎市吉井町黒熊の信州姫街道沿いにある「光心寺」ですが、二人の霊を弔うために村人が三右衛門の処刑場跡に建てたものです。

 

 

 

 光心寺の近くの白石の地(藤岡市白石)は、1650年から1703年までの間、高家旗本の吉良氏が712石を領し、信州姫街道沿いに陣屋を建てて治めていました。吉良若狭守義冬の正室が伊香保温泉への湯治の帰途、陣屋に滞在して嫡子・義央(よしなか)を生みますが、この際産湯を汲んだと伝わる井戸が残っています。義央は後に吉良上野介となり、赤穂藩主・浅野内匠守との刃傷沙汰を経て1703年に赤穂浪士によって討たれますが、この地では上野介を敵役とする忠臣蔵は禁物とされたそうです。

 

 

 1674年、関白・鷹司(たかつかさ)信房の子・信平は紀伊徳川氏との姻戚関係を結んで松平氏を賜姓されて吉井藩1万石に封ぜられ、以後歴代藩主は参勤交代のない江戸定府を許されて陣屋支配を行いました。陣屋は当初は矢田(高崎市吉井町矢田)に置かれましたが、1752年に吉井城跡に移されました。幕末には11代信発(のぶおき)が出て名君と謳われますが、尊王思想の強い信発は、松平氏を返上して1868年に吉井氏に改称しました。写真は、民間に払い下げられた後、昭和48年に陣屋跡に復元された「吉井藩陣屋の表門」ですが、後方に「吉井郷土資料館」が見えています。

 

 

 吉井の特産品として知られた「火打金」(ひうちがね。高度な技術で焼きを入れた鋼で火を起こす道具)は、江戸時代初期に武田氏配下の子孫・近江守助直という刀鍛冶が伝え、これを受け継ぐ者が吉井宿で売り出したのが始まりで、街道を往来する人が道中土産に買い求めて江戸で評判になりました。特に、江戸時代後期に中野屋一族が「上州吉井中野屋孫三郎」などと刻まれるブランド品を売って有名になりますが、信越線が開通して街道筋の往来が減りマッチが普及すると衰退し、明治30年頃には製造中止となりました。写真は、吉井郷土資料館の中嶋さんに火打金による火起こしの実演をしてもらっているところです。

 

 (参考図書等:吉井郷土資料館、「まんが吉井町の歴史」(吉井町)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、観光パンフレット、現地の説明板等)