本部長の群馬紀行
第57回 日光裏街道と赤城山南麓の景観と周辺の史跡

 皆様、こんにちは。
 梅雨の晴れ間が続いていましたが、7月になり再び雨が強まってきました。

 今後、県内各地で地本の自衛官等募集事務担当者(広報官)による募集広報活動を行いますが、受験資格があり、自衛官という職業に関心のある方は、是非一度耳を傾け、ご検討頂けますようお願い申し上げます。

 

 さて、群馬紀行第57回は、日光裏街道と赤城山南麓の景観と周辺の史跡をご紹介します。

 

 

 「日光裏街道」は、「日光例弊使道」(群馬紀行第21回参照)の五料宿から利根川を渡り、柴宿から分かれて北上し、駒形、大胡、室沢、板橋、深沢の各宿を経て「銅山(あかがね)街道」に合流する道で、赤城山南麓を横切る険しい道ながら日光への近道なので、日光街道や日光例弊使道の脇往還として利用されました。また、一般庶民の参詣道であるばかりでなく、赤城山麓の村々と利根川の五料河岸を結ぶ輸送路でもありました。写真は、「駒形宿」の中心に位置する前橋市駒形町の「駒形神社」ですが、この地に数戸が移り住んで新田を開いたのがその発祥です。

 

 

 上毛かるた「裾野は長し赤城山」と詠まれる赤城山南麓で鎌倉時代から室町時代にかけて勢力を持った大胡(おおご)氏は、藤原秀郷の子孫で渕名太夫兼行(同第56回参照)の孫・重俊が前橋市堀越町の「養林寺」の辺りに館を構えたのが始まりです。重俊の孫・隆義は鎌倉幕府の御家人となり、源頼朝に随行して上洛した際、法然上人の教えを受けるなど浄土宗を篤く信仰し、その子・実秀も教えを受けたと伝わります。大胡実秀の開基と伝えられる前橋市堀越町の「長善寺」には、実秀のものと伝わる異型多宝塔の墓石があります。

 

 

 

 その後大胡氏は衰退しますが、源氏一族の一色(いっしき)義秀が足利将軍の命により関東に下向し、大胡氏を再興した後、1455年に大胡城近くの前橋市上泉(かみいずみ)町に「上泉城」を築城して上泉氏を称しました。代々兵法に長じていた上泉氏の4代伊勢守信綱は、日本を代表する剣「新陰流」を創始する一方、上泉城主として箕輪城主・長野氏(同第14回参照)に与力して武田信玄の侵攻を防ぎます。1566年に箕輪城が落城すると、信玄からの仕官の勧めを断って浪々の身となり、新陰流を広めるために京に上り、将軍・足利義輝に剣を指導し、正親町天皇の模範試合天覧という名誉を受け「剣聖」と謳われました。写真は、上泉城跡に建つ信綱の像ですが、後方には、天災や飢饉などの非常時に備えて穀物を貯えることを目的として1796年に前橋藩が建てた「上泉郷蔵」です。

 

 

 

 新陰流の精神は「人を生かす剣」で命を大切にする信綱は、竹の上半分を割って革袋を被せた「袋竹刀」を考案し、木刀による「寸止め」を行うことなく思う存分打ち込みが可能となり、稽古に改革をもたらしました。信綱は、大和国柳生の柳生但馬守宗厳(むねよし)に新陰流の全てを伝授して1577年頃に亡くなりますが、その精神は徳川家の剣術指南役となった柳生氏によって引き継がれ、徳川260年の泰平の基礎となり、現在に伝わっています。上泉城域にある「西林寺」には、信綱のものと伝わる墓石があります。

 

 

 

 大胡城は、赤城山麓の南北に連なる丘陵上に築かれた南北670m、東西310mの規模を持つ平山城(阜の上に築かれた城)で、大胡氏の居城でした。戦国時代の大胡氏は、上杉氏家臣で厩橋城代・北城高広(同第47回参照)の動向に追随し、三大勢力が凌ぎを削る狭間の中で武田氏、北条氏と主を変え、やがて歴史の中に埋没しますが、一部は武蔵国牛込(東京都新宿区)に移住して徳川氏に仕え、旗本となって牛込氏を称しました。写真は、大胡城跡から赤城山方向を見たところです。

 

 

 関東入りした徳川家康は、1590年に歴戦の将・牧野康成を大胡城主2万石に封じ、康成は大胡城を近世の城郭に改修するとともに城下町を整備しました。康成は関ヶ原の戦いで徳川秀忠に従軍して活躍しますが1609年に亡くなり、2代忠成は大坂の陣で武功をあげて、1616年に5万石を加増されて越後国長嶺藩に転封し、更に長岡藩主となって幕末まで存続しました。なお、初代伊勢崎藩主・稲垣長茂(同第55回参照)は、牧野氏の重臣でした。写真は、大胡城の「枡形(ますがた)門」と呼ばれる石積みの門で、攻撃と防御の要素が取り入れられています。

 

 

 牧野氏が転封した後は厩橋藩領となり、大胡城には厩橋藩主・酒井氏の城代が置かれますが、1749年の酒井氏の姫路への転封に伴い、大胡城は廃城となります。大胡城の直下に整備された日光裏街道の「大胡宿」は、前橋方面からも道が通じ、赤城山南麓の交通の要衝として栄えました。写真は、日光裏街道と前橋からの道が合流する三差路に建つ道しるべで「西 前橋米野、南 五料伊勢崎、北 日光大間々」と刻まれています。前方方向にかつて大胡城があり、その後方に赤城山が見えています。

 

 

 江戸時代末期、国定忠治(同第5回参照)と並び上州の侠客として知られる大前田栄五郎は、1793年に旧宮城村大前田に生まれ、博徒だった父の血筋を受けて各地を転々と旅して縄張り争いの仲裁などを行いました。剣術、体格、人格とも優れて「天下の和合人」と呼ばれ、関東、東海、甲州など全国224ヶ所の縄張りと3千人の子分を持つ大親分となりました。晩年は大胡宿に住んで明治7年に82歳で亡くなり、生誕地と終焉地に墓石が建てられました。写真は終焉地の「大前田栄五郎墓地」ですが、国定忠治の墓石同様、勝負に強い栄五郎にあやかろうと墓石の一片を持ち帰る人がいるので丸くなっています。

 

 

 大胡宿と室沢宿の間にある前橋市馬場町の十字路は、日光裏街道と赤城神社に通じる「赤城道」が交差する要衝で、1831年に常夜灯としての大燈籠が建てられました。写真は、十字路から100mほど離れた場所に移設された「馬場の大燈籠」ですが、前方方向に十字路があり、日光裏街道が横切っています。

 

 

 

 赤城道を北上した前橋市三夜沢(みよさわ)町の「三夜沢赤城神社」は、関東一円に分布する3百余りの分社の総本社です。上野十二社中の二の宮で、赤城信仰の中心を成し、かつて日本武尊が東征の際、この地に3夜泊ったことから「三夜沢」と名付けられたと伝わります。境内には、藤原秀郷(俵藤太)が寄進したと伝わる3本の杉「たわら杉」がありますが、その子孫の大胡氏も赤城神社を深く尊崇しました。

 

 

 「室沢宿」は、県道「上神梅(かみかんばい)・大胡線」沿いの前橋市粕川町室沢付近に成立した宿で、今は静かな集落ですが、かつては赤城山南麓で収穫された農産物の集散地として市が立つほど賑わいました。現在も傾斜のある県道の両側に石垣で囲まれた立派な家や蔵が南北約500mの間に点在して、当時の繁栄が偲ばれます。

 

 

 

 室沢宿から先は次第に道が細くなり「板橋宿」を経て険しい山道を越えて下った所に「深沢宿」があり、ここで銅山街道(国道122号)と合流しました。当初は上の台地上にあり「上の宿」と呼ばれましたが、銅山街道の賑わいとともに台地を下ったみどり市大間々町上神梅(おおままちょうかみかんばい)に「新(あら)宿」として生まれました。道端には立派な石造物が建ち並んで、当時の面影を残しています。

 

 

 

 昭和3年に赤城山南麓を横切る上毛電気鉄道株式会社の中央前橋駅〜西桐生駅間の鉄道が開通し、同時に「大胡駅」も開業しました。開業当時の姿を留めている駅舎は木造平屋建ての板張り、車庫は木造板張りでトラス構造を採用して広い作業空間を確保しており、変電所などの施設と共に国の登録有形文化財となっています。写真は、開業以来運転を続けている「デハ101」の車両とトラス構造の車庫です。

 

 (参考図書等:「まんが大胡町史」(大胡町)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、観光パンフレット、現地の説明板等)