本部長の群馬紀行
第56回 絹と瓦の町の景観と周辺の史跡

 皆様、こんにちは。
 夏至を迎えましたが、大気の状態が不安定な日が続いていますので、注意が必要です。

 自衛隊幹部候補生の第2次試験を受験した皆様の合格を祈念します。

 

 さて、群馬紀行第56回は、かつて絹市や瓦を焼く窯業が栄えた藤岡市の景観と周辺の史跡をご紹介します。

 

 

 藤岡市は、西を「赤久縄山」(あかぐなやま)や「御荷鉾山」(みかぼやま)などの山、北を鏑川と烏川、東と南を神流川に囲まれ、中央に鮎川が流れる緑と清流に囲まれた地です。古墳時代の史跡が多く、藤岡市上落合の「七輿山(ななこしやま)古墳」は、6世紀に造られた全長145mの前方後円墳で、国の史跡に指定されています。この地方に伝わる「羊太夫伝説」(群馬紀行第11回参照)によると、朝廷に攻められた羊太夫の奥方一行7人が、逃げる途中で落ち合って自害し、村人が7つの輿に入れて大きな塚に葬りますが、その場所が「落合」で、塚は「七輿山」と名付けられたというものです。

 

 

 古墳には多数の埴輪が使われますが、藤岡市本郷には、職業集団・土師(はじ)氏が埴輪を焼いて各地に供給した「本郷埴輪窯址(ようし)」があります。また、土師氏の末裔で相撲の元祖と言われる「野見宿禰」(のみのすくね)が祀られる「土師(どし)神社」の境内には、伏せたすり鉢状の「土師の辻」と呼ばれる相撲の土俵があり、江戸時代には出世力士が披露相撲を行いました。

 

 

 

 律令時代には緑野(みどの)郡が置かれ、仏教思想が広まった奈良時代末には「鑑真和上」(がんじんわじょう)の高弟・道忠禅師(どうちゅうぜんじ)が藤岡市浄法寺(じょうほうじ)に「緑野寺」を建てました。道忠に招かれた伝教大使・最澄は、緑野寺を東国の仏教布教の拠点として815年に「相輪(そうりん)塔」を建てました。写真は、緑野寺(現在は「浄法寺」)の「相輪塔」ですが、塔の前で行われた最澄の説教を聞くために、毎日9万人もの民衆が詰めかけて賑わったそうです。

 

 

 

 平安時代末には、武蔵国秩父出身の高山氏がこの地に居住していましたが、東国を支配した源義朝は1131年に伊勢神宮に寄進してこの地に「高山御厨」(みくりや。荘園の一種)を成立させ、高山氏に管理を任せました。写真は、藤岡市本郷の「椿杜(つばきもり)神社」ですが、この付近は「御厨の里」と呼ばれており、高山御厨の中心地だったと考えられています。その後、高山氏は木曽義仲や源頼朝に従軍し、子孫の高山重栄(しげひで)は1333年の新田義貞の鎌倉攻めに参陣して武功を立て、新田十六騎に数えられました。

 

 

 

 足利尊氏から上野国の守護に任ぜられた上杉氏は、やがて鎌倉公方を補佐する関東管領職を独占しますが、1438年に上杉憲実(のりざね)と鎌倉公方・足利持氏が争った「永享(えいきょう)の乱」が勃発し、憲実は藤岡市西平井の鮎川の断崖上に「平井城」を築き、幕府からの援軍を得て勝利します。関東管領の居城となった平井城は、顕定(あきさだ)の代に最大勢力を誇り、周辺は城下町として繁栄しました。写真は、平井城の土塁跡ですが、後方に見える標高331mの金山には戦闘用の詰城「金山城」が築かれました。

 

 

 

 戦国時代になると、北条氏康に攻められた憲政(のりまさ)は、1552年に越後に逃れて長尾景虎の援助を乞います。要請を受けた長尾景虎は三国峠を越えて上野国に進出し、平井城を一望する標高561mの子王山(こおうざん)などを足掛かりして平井城を奪還しますが、上杉氏を継承した景虎は、その後厩橋城を関東進出の拠点としたので平井城は廃城となりました。写真は、登山道が「藤岡二千階段」として整備された子王山の麓にある藤岡市下日野の「蛇喰(じゃばみ)渓谷」ですが、大蛇が岩を噛み砕いて流れを堰き止めた所が渓谷になったという伝説から名付けられました。

 

 

 

 信濃国佐久郡出身の芦田(依田)信守は、武田信玄の上野国侵攻に参陣して1566年に浄法寺に居住します。武田氏が滅んだ後は徳川家康に仕え、佐久や諏訪など10万石を領します。関東入りした家康は、父や兄を戦で失った信守の孫・康貞に祖父の遺領など3万石を与え、康貞は1591年に藤岡市藤岡に「芦田城」を築きました。城に近い「富士浅間神社」は、1274年に日蓮上人が佐渡から鎌倉に戻る際に富士山の分霊を勧請した「富士岡」に由来しますが、芦田城築城に際し北面の守護として拡張し、庶民が神社を中心に富士山詣を行いましたが、この「富士岡」が転じて「藤岡」になったとも言われています。

 

 

 

 藤岡藩主として城下町を整備した康貞は、1600年、関ヶ原の戦いに参陣するために大坂に宿泊していましたが、旗本・小栗氏との間で、碁が原因の刃傷沙汰を引き起こし、藤岡藩は改易、芦田城は僅か10年で廃城となりました。芦田氏が去った後の藤岡は、前橋藩領となり、その後は幕府直轄領や旗本領の代官支配となりました。写真は藤岡市立第1小学校の裏手にある城址公園(芦田城跡)です。

 

 

 

 芦田氏には、内山家や関家など「芦田五十騎」と称された優れた家臣が居ましたが、上毛かるた「和算の大家 関孝和」と詠まれる関孝和(せきたかかず)は、1637年に内山家の子として藤岡に生まれ、後に関家の養子となり、甲府の徳川綱豊(後の6代将軍・家宣)に仕えて幕府の「御納戸組頭」(金品出納役)の職に就きました。孝和は生涯を通じて和算(日本古来の数学)の研究を続けて「算聖」(さんせい。数学の神様)と称され、ライプニッツやニュートンとともに世界三大数学者の一人に数えられています。写真は、藤岡市民ホール前に建つ「関孝和の座像と算聖の碑」です。

 

 

 

 藤岡では、昔から農家の副業として養蚕、製糸、織物が一貫して行われ、その絹は「藤岡絹」「日野絹」と呼ばれて、桐生の「仁田山絹」(同第45回参照)と並び称されました。江戸時代には十石峠街道と信州姫街道が分岐する藤岡宿が成立して絹の集積地となって「十二斎市」(月に12回の「絹市」)が立ち、諸国の呉服問屋が絹の買い付けなどを行う「絹宿」を出店して、上野国一の取引量を誇って賑わいました。写真は、1722年に絹宿を出店した江戸の呉服問屋「三井越後屋」(現三越)が「諏訪神社」に奉納した常夜灯で、台座には「三井店」の名前が刻まれています。

 

 

 

 十石峠街道は、中山道新町宿から神流川に沿って藤岡、鬼石、万場、中里、上野、白井の各宿を通って上信国境の十石峠を越えて信州に入ります。このうち藤岡市鬼石(おにし)の「鬼石宿」は、武蔵国秩父にも通ずる交通の要衝で、大きな問屋が建ち並んで栄えました。鬼石の由来は、昔、御荷鉾山に住んでいた鬼を弘法大師が退治した時に、鬼は持っていた石を投げて逃げ去りますが、その石が落ちた場所を鬼石と呼ぶようになり、鬼石神社に御神体として祀られているそうです。

 

 

 

 高山御厨を管理した高山氏の子孫で、1830年に藤岡市高山に生まれた高山長五郎は、先祖伝来の屋敷を壊して蚕室を建てて研究を行い、明治16年に、通風を重視した田島弥平の「清涼育」(同第30回参照)と温湿度管理を調和させた「清温育」という飼育方法を確立しました。翌年、自宅に「養蚕改良高山社」を設立して社長に就任し、同19年に亡くなった後は、2代社長の町田菊次郎が意志を継ぎ、同34年に「甲種高山社養蚕学校」を開校してその技術を全国及び海外に広めました。写真は、新田十六騎の高山重栄や長五郎の墓所がある「興禅院」から世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成遺産の一つとなった「高山社跡」を見下ろしたところです。

 

 

 

 かつて土師氏が埴輪を焼き、金山の麓の斜面を利用して造られた登窯で上野国分寺(同第12回参照)の屋根を葺く瓦が焼かれたように、良質の粘土、粘土をこねる水、燃料の薪、天日乾燥に適した空っ風などの条件が揃う藤岡は瓦の産地としても知られ、前橋藩領であった江戸時代中期には、藩主・松平朝矩(とものり。同第47回参照)が瓦作りを奨励して「窯業」(ようぎょう)が盛んになりました。写真は、達磨大師が座禅を組む姿に似ていることから名付けられた「達磨窯」で藤岡瓦の伝統を継承する藤岡市藤岡の「達磨窯瓦工房」です。代表の五十嵐さん曰く「藤岡瓦は水を吸い生きている。」(保水性があり結露しない。)そうです。

 

 

 (参考図書等:「まんが藤岡の歴史」(藤岡市)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、観光パンフレット、現地の説明板等)