本部長の群馬紀行
第55回 銘仙織出す伊勢崎市の景観と周辺の史跡

 皆様、こんにちは。
 関東地方も梅雨入りし、九州では激しい雨が降りました。

 自衛隊幹部候補生試験第1次試験に合格された皆様、おめでとうございます。来週実施される第2次試験の健闘を祈念しています。

 

 さて、群馬紀行第55回は、上毛かるた「銘仙織出す伊勢崎市」と詠まれる伊勢崎市の景観と周辺の史跡をご紹介します。

 

 

 

 伊勢崎(いせさき)市は、赤城山麓の南面に位置し、北部に丘陵地があるほか全体はほぼ平坦地で、南部には利根川が流れ、その支流である広瀬川、粕川などの河川や沼地があります。土地は火山灰地(関東ローム層)で水はけが良く、桑の成長に適していたため古くから養蚕が盛んで、江戸時代には「太織」(ふとり)の産地として知られ、明治以降は「伊勢崎銘仙(めいせん)」が全国的に有名になり、織物の街として発展しました。写真は、上野十二社中の九の宮である伊勢崎市東上之宮町の「倭文(しどり)神社」ですが、「倭織」(しずおり)という麻などを用いた織物の職業集団「倭文部」(しどりべ)が織物の神、農耕養蚕の神として信仰したものです。

 

 

 律令時代以降は、概ね広瀬川を挟んで東の「佐位(さい)郡」と西の「那波(なわ)郡」に分かれ、藤原秀郷(群馬紀行第22回参照)の子孫で佐位郡に勢力を持つ渕名太夫兼行(ふちなたゆうかねゆき)は、1108年の浅間山の大噴火で荒廃した土地を再開発して「渕名荘」が成立しました。写真は、兼行などが開削した伊勢崎市下触(しもふれい)町の「女掘」(おんなぼり)です。前橋市上泉(かみいずみ)町付近の旧利根川(現桃木川)から取水した全長約13km、幅25mの灌漑用水路ですが、通水された痕跡が無く未完成に終わりました。「女掘」は昭和58年に国の史跡に指定され、現在は「赤堀花しょうぶ園」となっています。

 

 

 藤原系渕名氏は、兼行の直系の子孫で下野国足利に勢力を持つ足利俊綱が家臣の桐生六郎(同第45回参照)に討たれて没落し、鎌倉幕府の役人で京都から派遣された中原氏が渕名氏を継承します。一方、兼行の別の子孫は那波郡に勢力を持ち那波氏を称していましたが源平合戦で没落し、中原氏の一族・大江広元が那波氏を継承します。写真は、伊勢崎市堀口町の「名和小学校」の校庭隅にある「那波城跡」の碑ですが、別名「堀口城」とも言われ、鎌倉時代から戦国時代にかけて大江系那波氏の居城となりました。

 

 

 

 伊勢崎市の中心付近は、広瀬川が伊勢崎台地を侵食して崖を形成し、その崖が関東ローム層の赤土なのでかつては「赤石」と呼ばれ、戦国時代には大江系那波氏の末裔・那波宗俊が崖上に「赤石城」を築きました。1560年、上杉謙信が三国峠を越えて上野国に進出すると、宗俊は北条氏に従って抵抗しますが、赤石城は落城、本拠の那波城は囲まれて降伏します。写真は、赤石城跡に開校した伊勢崎最古の小学校「赤石学校」(現・伊勢崎市立北小学校)前に建つ「旧時報鐘楼」ですが、県内最古の鉄筋コンクリート造の構造物で、大正4年に横浜で貿易商を営んでいた伊勢崎出身の小林圭助氏が寄贈したものです。

 

 

 赤石城攻略の手柄により謙信から那波氏の旧領を与えられた上野国の戦国大名・由良成繁(同第49回参照)は、日頃から信仰していた伊勢神宮の御加護と考え、伊勢神宮に那波郡の一部を寄進し、赤石城内には「伊勢宮」を勧請します。やがて庶民の信仰の利便のため伊勢宮が城外に移されると、人々が集まって門前町を形成し「伊勢の前(さき)」と呼ばれて現在の「伊勢崎」の由来となりました。写真は、広瀬川に架かる「新橋」という歩道橋から「伊勢の前」方向を見た所ですが、江戸時代初期には木橋が架けられて前橋へ向かう街道筋となりました。なお、歩道橋の路面の模様は、「伊勢崎銘仙」の図柄となっています。

 

 

 関東の覇権を争う大勢力の狭間にあった由良成繁は、その後上杉氏から離れて北条氏に近づいたため、1573年に上杉氏によって赤石城は焼かれてしまいます。1590年の北条氏の滅亡とともに由良氏が常陸国牛久に去ると、由良氏の旧領には徳川家康の家臣が入りますが、初代伊勢崎藩主は、関ヶ原の戦いの論功行賞で1601年に1万石で入封した稲垣長茂でした。写真は、伊勢崎市曲輪町の「同聚院(どうじゅういん)の武家門」で、通常の寺院の山門とは異なり、瓦葺屋根の切妻造りの薬医門の形式をとっており、長茂の屋敷門であったと推定されています。

 

 

 長茂は、藩の陣屋を赤石城跡に築き、その東側と南側に町屋を置いてこれを囲むように土塁を巡らし、周辺には寺院を配置して十字路は筋違いにするなど軍事的防御の観点から城下町を整備して、現在の伊勢崎市中心付近の骨格が形成されました。写真は、伊勢崎市大手町の駅前通りですが、S字状に道が曲がっているのは「雁木(がんぎ)折り」の名残りで、敵が一気に駆け抜けられないようにして、横合いからも弓矢、鉄砲を射かけることができるように工夫されたものです。道の左側には、「大谷石の蔵」が見えています。

 

 

 伊勢崎藩は、2代・稲垣重綱が1616年に越後国藤井に転封となった以後は、那波藩や厩橋藩に組み込まれますが、その後厩橋藩主の酒井氏が分家して藩主となり、1749年に酒井氏が姫路藩に転封した後も、その支藩的な存在で明治維新まで存続しました。写真は伊勢崎市連取(つなとり)町の「旧森村家住宅」で、この辺りを領した旗本・駒井氏の地方代官を勤めた豪農の旧家です。寺院のような巨大な2階建ての主屋には、1801年建築の酒井氏時代の伊勢崎藩陣屋の式台(玄関先)や書院が取り込まれ、明治9年に再建されました。

 

 

 江戸時代には、「新橋」の下流に架かる「永久橋」の東岸付近に「伊勢崎河岸」が開かれ、1819年には荷主や船主の寄進により、水運の神である住吉大明神、大杉大明神を奉献して航路安全を願い、同時に航路標識の役目を担う巨大な石灯籠が建てられました。写真は、現在地に移設された「伊勢崎河岸の石灯籠」で、後方に見える藁葺の民家は、1663年の開業以来、明治10年代まで二百数十年に亘り船問屋を営んだ「武孫平(たけまごへい)家住宅」です。

 

 

 1213年の創建と伝わる「飯福神社」は、代々の赤石城主が崇敬しましたが、後に「伊勢宮」など数社が合祀されて大正15年に「伊勢崎神社」に改称されました。一間社流造(いっけんしゃながれづくり)の本殿は1848年に再建され、手の込んだ彫りの深い彫刻が随所に施されています。戦前の伊勢崎には「中島飛行機株式会社」(現・富士重工業)の工場があり、戦勝祈願や航空安全を願い、飛行機のプロペラが拝殿正面に奉納されています。

 

 

 伊勢崎市三光(さんこう)町の「相川(あいかわ)考古館」は、1866年に金物商家に生まれた相川之賀(しが)が、かつて脇本陣(巡検使などの宿泊所)として利用された自宅を改造して、多年に亘り収集した考古資料等を展示したものです。敷地内にある瓦葺2階建ての茶室「觴華庵」(しょうかあん)は、1861年に竣工した県内最古の茶室建築物です。

 

 

 養蚕農家の農閑期の副業として手製で作られた「太織縞」(ふとりじま)は、残り物の繭から引き出した太糸を用いて草木染めして縞柄などを織り出したもので、江戸時代中期以降は織物専門の「元機屋」(もとばたや)や糸染めを行う「紺屋」(こうや)が現れて製品化され、江戸や大坂にも出荷されるようになりました。更に江戸時代後期には、前もって染め分けた絣糸を経糸(たていと)や緯糸(よこいと)又は両方に使用して織り上げて文様を表する「絣」(かすり)の技術が確立されて市場から高い評価を受けました。

 

 

 明治時代になると、染め、織りの技術が進歩して様々な絣の技法が考案され、明治21年頃から繊細かつ洗練された絣模様は「伊勢崎銘仙」と呼ばれるようになり、昭和初期にかけて日本女性の代表的な着物や家庭着として一世を風靡しました。なお「銘仙」は、経糸の数が多く筬目(おいめ)が千もある緻密な織物を意味する「目専」「目千」が転化したものと言われています。その後、日本人の着物離れなどによって伊勢崎銘仙は衰退しますが、昭和50年には「伝統工芸品・伊勢崎絣」として国の指定を受け、現在に引き継がれています。写真は、伊勢崎銘仙の企画展示(前の写真)が行われている伊勢崎市曲輪町の「いせさき明治館」ですが、明治45年に「今村医院」として建てられた伊勢崎を代表する木造洋風建築物で、平成14年に現在地へ曳き家移転して修復改装されました。

 

 

 (参考図書等:「いせさき明治館」「旧森村家住宅」「相川考古館」「まんが伊勢崎の歴史」(伊勢崎市)、「伊勢崎歴史散歩」(伊勢崎郷土文化協会)、「伊勢崎散歩」(伊勢崎郷土文化協会)、観光パンフレット、現地の説明板等)