本部長の群馬紀行
第54回 三国街道(その2)

 皆様、こんにちは。
 6月になり、梅雨入り前の暑い日が続きます。

 自衛隊幹部候補生試験を受験された皆様の第1次試験突破を祈念しています。

 

 さて、群馬紀行第54回は、三国街道(その2)として後半の「中山宿」から「永井宿」の先の「三国峠」間をご紹介します。

 

 

 旧三国街道は、「中山宿」から金毘羅峠(群馬紀行第42回参照)を越えてみなかみ町上津(かみづ)の「塚原宿」に下りますが、明治7年に「切ヶ久保新道」が開削されて「中山宿」と「下新田宿」が直接結ばれると街道筋から外れ、峠から「塚原宿」に下る道は通行が困難になりました。上津には6〜7世紀に造られた古墳が多く分布していることから古来より「塚原(つかばら)」と呼ばれていますが、写真は「塚原古墳群」の中を通る旧三国街道沿いに開かれた「塚原宿」で、傾斜地に南北に家並みが続いています。

 

 

 旧三国街道は、「塚原宿」から赤谷(あかや)川の段丘を下り、かつては「弁天の渡し」で対岸のみなかみ町羽場(はば)に渡りました。ここから国道17号に合流して進むと短い区間に「下新田宿」「今宿」「布施宿」が順番に現れますが、これらの宿は「継立場」(本陣や旅籠屋はなく、人馬の乗り継ぎを行う所)で、3宿で組合を作って月のうち10日ずつ分担して継立を行っていました。写真は、炭屋で財をなした塩原太助(同第42回参照)の生家があった「下新田宿」です。

 

 

 「布施宿」を出て国道17号と分かれて南の段丘を登り切った所が「須川(すがわ)宿」で、直線状に約600m続く町並みに本陣、脇本陣、問屋、旅籠屋、茶屋などがあって賑わいました。明治7年に「赤岩新道」が開削されて「布施宿」と「相俣(あいまた)宿」が直接結ばれると「塚原宿」と同様に街道筋から外れますが、その結果当時の町並みが残され、平成8年に建設省(現国土交通省)から「歴史国道」(歴史的に重要な幹線道路のうち、歴史的・文化的価値を有する道路)に選定され、現在は木工、竹細工、和紙などの手作り体験ができる「たくみの里」の一部として大勢の観光客で賑わっています。

 

 

 

 1552年の春、越後の上杉謙信は三国峠を越えて初めて関東進出を果たしますが、この時、みなかみ町相俣の「日枝神社」の境内に越後から持参した桜の鞭を逆さに挿すと根付いて数年ならずして花が咲いたと伝えられています。謙信はこの後14回も三国峠を越えたと言われますが、この桜は「相俣のさかさザクラ」と呼ばれ、後に花の咲き具合で年の作柄を占ったことから「豊年桜」とも言われています。写真中央がその桜ですが、右側方向に「相俣宿」があり、桜の左側に小さく頭を出している山が「三国山」です。

 

 

 「相俣宿」は「猿ヶ京関所」や赤谷川の手前に位置していたため、関所が閉じる夜間や赤谷川の増水で川止めになると旅人は宿泊を余儀なくされ、本陣、問屋を兼ねた脇本陣、旅籠屋、茶屋などが軒を並べて繁栄しました。昭和33年に洪水調節を主目的とした「相俣ダム」が建設されると、宿から関所に至る部分の旧三国街道は赤谷湖底に沈みました。写真はその辺りの様子ですが、赤谷湖を挟んで右手に関所跡があり、湖に突き出した半島の先端にはかつて上杉氏が築いた「猿ヶ京城」がありました。

 

 

 「猿ヶ京」の地名は、庚申の年、申(さる)の月、申の日に、申年生まれの謙信がこの地で縁起の良い夢を見て「申ヶ今日」と名付けたことがその由来であるとも伝わります。北の守りとして重要視された「猿ヶ京関所」は、当初は沼田藩・真田氏の管理下に置かれましたが、真田氏改易後は幕府直轄領となり、高野氏、木村氏、戸部氏、片野氏が関守を世襲しました。写真は「猿ヶ京関所跡並びに旧役宅」ですが、関守の一人・片野氏の子孫は昭和57年まで旧役宅に居住していたそうです。現在は資料館として活用され、関所に常備されていた武具類や関所手形など多数の古文書が展示されています。

 

 

 関所から越後方向に国道17号を数百m進んだ所に、旧三国街道の旧状が残る「下馬のまがめ」と呼ばれる箇所があります。国道は緩く右にカーブしていますが、旧三国街道は小道をそのまま直進し、直角に右に折れ曲がっていました。ここにかつて下馬の高札があり、越後方向から騎乗してきた者はこの場所で馬から降りて関所まで歩いて行ったそうです。なお、直角に右折した旧三国街道は、写真のとおりすぐ左の小道に入ります。

 

 

 「民宿通り」と呼ばれる旧三国街道の小道を進むとやがて「猿沢の上り」と呼ばれる山道になり、沢に降りて急坂を登り返して「吹路」(ふくろ)と呼ばれる集落に至ります。放浪の歌人・若山牧水(同第25回参照)は、大正11年10月、「渋川宿」から三国街道を通って三国山の谷間深くにある「法師温泉」の一軒宿に向かいますが、その帰路の「猿沢の上り」の情景を「みなかみ紀行」に綴っています。写真は、旧三国街道の猿(申)沢に架かる「申沢橋」です。

 

 

 三国街道の上野国最後の宿場である「永井宿」は、標高760mの狭い急斜面に鉤の手状に街道を通して、その両側に家屋を配しました。「永井宿」は、越後米の関東への流出口であって米の取引場として隆盛を極め、陸の船着き場とも言われました。写真は、吹路集落から旧三国街道を登った所にある「永井宿」の入り口付近ですが、左上の建物は廃校になった「猿ヶ京小学校永井分校」を改修した「永井宿郷土館」で、宿を往来した大名や文人墨客に関する資料が多数展示されています。

 

 

 「永井宿」を出た旧三国街道は、いよいよ最大の難所である「三国峠」に向かう山道に入りますが、昭和34年の国道17号開通まではこの道が本道で、現在は「三国路自然歩道」となっています。1740年、長岡藩士・永井磯七ほか7人と人足4人が長岡藩内の罪人を江戸で捕えて護送中、この付近で表層雪崩に遭い、大きな岩の下にいた罪人と人足は助かりましたが、藩士は全員亡くなりました。写真は、冬の三国峠の厳しさを象徴する「長岡藩士なだれ遭難の墓」です。

 

 

 1868年4月24日未明に戊辰戦争の一つとして勃発した「三国戦争」は、新政府軍となって会津藩征討のため「永井宿」に陣を進めた前橋藩、高崎藩、吉井藩、沼田藩、佐野藩などの上野国・下野国の諸藩約1200人と、「三国峠」付近に陣を進めて越後侵入を防ぐ会津藩約120人が旧三国街道の山中で戦ったものですが、多勢に無勢の会津藩は敗れて退却します。この時、会津藩の副将格で若冠17歳の白虎隊士・町野久吉は、得意の長槍を振って単身敵軍の突入して壮烈な戦死を遂げます。写真は、永井宿近くの国道17号と旧三国街道が接する場所に建つ久吉の墓所です。

 

 

 「三国峠」は、上野国と越後国の境界にある標高1244mの峠で、旧三国街道の最高地点です。峠には、かつて征夷大将軍・坂上田村麻呂が草津白根山に籠る山賊を討伐するために陣を置き、上野国・赤城神社、越後国・弥彦神社、信濃国・諏訪神社を勧請して祈願したと伝わる「三国大権現」があり、以後峠を越える旅人の守り神として崇拝され、明治になって「御坂(みさか)三社神社」と改称されました。なお、長野県を加えた3県の県境は、西に連なる標高2140mの「白砂山」(しらすなやま)にあります。写真は、残雪が残る峠から見た標高1636mの三国山で、山頂からは上越の山々を見渡すことができます。

 

 

 表日本と裏日本を結び、物資の流通、人々の通行、文化の伝播などに貢献した三国街道も、明治26年の信越線・碓氷峠の開通、昭和6年の上越線・清水トンネルの開通によって寂れ、昭和34年の国道17号・三国トンネルの開通によって三国峠の役割は終わりました。写真は、群馬県側の三国トンネルの入り口付近ですが、右上の山が三国山で、その左の鞍部が三国峠です。

 

 

 (参考図書等:須川宿資料館、猿ヶ京関所資料館、永井宿郷土館、「三国街道を歩く」(上毛新聞社)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、観光パンフレット、現地の説明板等)