本部長の群馬紀行
第52回 中山道(その3)

 皆様、こんにちは。
 立夏が過ぎ、職場はクールビズの季節となりました。

 自衛隊幹部候補生へのたくさんの応募ありがとうございました。試験当日の健闘をお祈りします。

 

 さて、群馬紀行第52回は、シリーズ最終回の中山道(その3)として、倉賀野宿と新町宿周辺の史跡と自然をご紹介します。なお、高崎宿については同第46回をご覧ください。

 

 

 旧中山道を高崎宿から倉賀野(くらがの)宿に向かう途中で烏川方向に右折すると高崎市上佐野町ですが、この地には平安時代の観阿弥・世阿弥の作と言われる謡曲「鉢木」(はちのき)と「船橋」の題材となった話が伝わります。「鉢木」は、執権・北条時頼の廻国伝説に基づくもので、一族の不祥事で領地を奪われ、あばら家に隠棲しつつも「いざ鎌倉」に備える鎌倉武士・佐野源左衛門常世(つねよ)は、大雪の夜に泊めた旅僧のために秘蔵の鉢の木(梅、桜、松の盆栽)を焚いてもてなしますが、後日幕府の動員令を受けて駆けつけると、時頼(旅僧)から恩賞として加賀国梅田荘、越中国桜田荘、上野国松井田荘を賜ったという話です。写真は、常世の屋敷跡に祀られた「常世神社」です。

 

 

 「船橋」は、万葉集の東歌「かみつけの佐野の船橋とりはなし 親はさくれどわはさかるがへ」に基づくもので、烏川を挟んだ二つの村の若い男女が恋仲となって船橋(佐野の渡し。船を繋いで板を渡した浮橋)を渡って夜間に忍び逢っていましたが、これを知った親が板を外して渡れないようにしたところ、二人は気付かずに川に転落して亡くなってしまうという話です。写真は、佐野の渡し跡に架けられた木造の「佐野橋」(車は通行不可)で、右に並行して走る「上信電鉄」が見えていますが、昨年末に新駅「佐野のわたし駅」が開業しました。

 

 

 

 戦国時代になると烏川の河岸段丘上に「倉賀野城」が築かれ、武蔵国の児玉氏の一族が城主となって倉賀野氏を称し、関東管領の上杉氏に属していましたが、武田氏の上野侵攻により次第に劣勢となり、倉賀野氏の重臣で「倉賀野十六騎」の一人・金井淡路守秀景の寝返りなどにより1565年に落城して越後に逃亡します。武田氏配下となった秀景は倉賀野氏を継承して城主となり、後に滝川氏、北条氏に仕えますが1590年の北条氏滅亡とともに滅び、倉賀野城は廃城となりました。写真は、烏川を望む高崎市倉賀野町の公園内に建つ倉賀野城跡の碑で、右側の崖下に烏川が流れています。

 

 

 

 倉賀野城跡の西に位置する「倉賀野河岸」は1561年頃開かれ、江戸時代には利根川水系最上流の河岸として「倉賀野宿」とともに水陸交通の拠点として繁栄しました。河岸から江戸に運び出す船荷は、上信越方面から中山道、三国街道、脇往還を通じて運び込まれた米、麻、生糸、たばこ、砥石、薪炭、木材などで、江戸から運び込まれる船荷は、塩、砂糖、油、海産物、日用品などでした。高崎藩や安中藩をはじめ50余の大名・旗本が利用し、最盛期には9軒の河岸問屋と150艘余の船で賑わった河岸も、明治17年の高崎線の開通によってその役割を終えました。写真は、かつての河岸跡に架かる「共栄橋」付近ですが、前方が下流(江戸)方向で、左手に河岸や宿場がありました。

 

 

 

 倉賀野宿には本陣1、脇本陣2、旅籠屋が32軒ほどありましたが、隣の高崎宿が城下町で取り締まりが厳しかった分、遊興の宿場としても栄え、飯盛女と呼ばれた女性が多くいたようです。写真右手の旧家は、旧中山道沿いに残る河岸問屋・須賀家が務めた「脇本陣跡」ですが、1階屋根と2階屋根の間に「うだつ」(防火壁。江戸時代中期以降は自己の財力を誇示する手段として上方商家などで競って造られた。)が上げられ、なかなか出世しないことを表す諺「うだつが上がらない。」とは逆で、当時の倉賀野河岸の大問屋の繁栄を物語っています。

 

 

 

 倉賀野宿の東端で日光例弊使道(同第21回参照)を左に分けて旧中山道を進むとやがて県道と交差し、そのまま直進すると烏川の北岸で途切れます。ここにはかつて渡船場がありましたが、現在は県道を右折して柳瀬橋を渡り南岸に出ます。この先も旧中山道は判然とせず堤防上を下流に進むと、川側に僅かの欅が残っているだけですが「お伊勢の森」と呼ばれるが所があります。「新町(しんまち)宿」の西端にあたり、江戸時代の浮世絵師・安藤広重の「木曽街道(中山道)六十九次・新町宿」はこの辺りの風景を描いたもので、同じ構図で写してみました。前方が倉賀野宿方向で、右手に烏川が流れ榛名山が見えています。

 

 

 

 倉賀野宿と武蔵国・本庄宿の間の中山道は、当初は烏川の北側で日光例弊使道の玉村宿を経由する道筋でしたが、参勤交代で中山道を利用していた加賀藩前田家が、川の南側のお伊勢の森付近を通る新しい道を開拓しました。その後、新道沿いの落合新町と笛木新町に伝馬役(同第50回参照)が命ぜられ、1724年に二つの町を合わせた宿場が形成され、中山道で最も遅く成立した宿なので「新町宿」と呼ばれました。写真左の標柱は、旧中山道沿いの落合新町と笛木新町の境に建てられていた「高札場跡」です。

 

 

 

 江戸時代末期になって栄えた新町宿には、本陣2、脇本陣1、旅籠屋が43軒ほどあり、倉賀野宿同様、飯盛女と呼ばれる女性が多くいました。その一人で、宿場一の美人、情け深く客にも評判の良い「お菊」という女性が病に罹ったため、お菊が日頃から信仰していた落合新町の稲荷の境内に旅籠屋の主人が小屋を建てて住まわせると快癒したことから「於菊稲荷神社」と呼ばれるようになりました。神社は多くの参詣人で賑わい、鳥居、絵馬、算額などが奉納されました。

 

 

 

 宿の東端にある「新町八坂神社」は、中山道沿いに武蔵国から上野国に入る玄関口に位置し、疫病の侵入蔓延を防ぎ、諸悪から身を護り長寿を祈願する神社として建立されました。その隣には柳の大木があって往来する旅人は傍らの茶屋で休みながら眺めたことから「柳の茶屋」と呼ばれるようになりました。写真は、土蔵造りの神社と新町の俳人仲間が柳に因む芭蕉の句を選定して建てた句碑です。

 

 

 

 新町宿の先は烏川の支流である「神流川」(かんながわ)が流れ、武蔵国を隔てていましたが、洪水の度に渡船場の位置が変わるなど道筋が分かりにくかったため、川の両岸に一対の常夜灯が建てられました。その後1742年の洪水で流されてしまいますが、宿客から8年間も浄財を集めて1815年に新たな石造りの燈籠が建てられました。この燈籠は、明治24年に高崎市大八木町の諏訪神社に移設されますが、昭和53年に国道17号(左)と旧中山道(右)の合流点に「見通し燈籠」として復元されました。

 

 

 

 群馬紀行第47回でも概要を触れましたが、新町周辺で、関東における戦国史上最大の合戦とも言われる「神流川合戦」が勃発しました。1582年3月の武田氏の滅亡により織田信長の重臣・滝川一益(かずます)が関東管領を称して厩橋城に入り上野国の諸将を従えますが、同年6月2日の本能寺の変により信長が急死すると、この機に乗じて上野国を狙う北条氏と雌雄を決することとなります。一益の下には、倉賀野秀景を筆頭に、小幡重頼(同第31回参照)、由良国繁(同第45回参照)、真田昌幸(同第39回参照)などの上野国の諸将約1万5千が参集しました。写真は、両軍が対峙した神流川の河原を国道17号の「神流橋」から見たところです。

 

 

 

 一益は、6月16日に諸将を集めて城下の「長昌寺」の境内で能を舞い、17日早朝に厩橋城を出陣し、和田城(後の高崎城)を経て、玉村町上茂木の「御弊山(ごへいやま)古墳」に本陣を置き、倉賀野城を後方支援の拠点と定めます。一方、武蔵国鉢形(はちがた)城主の北条氏邦(うじくに。当主・氏政の弟)は、小田原からの主力約4万を待たずに約2千5百を率いて神流川に進出し、対岸の金窪城(埼玉県上里町)に入りました。18日の緒戦は、神流川を渡って金窪城に攻め込んだ滝川・上野連合軍約6千が優勢で、城は落ち氏邦は後退します。写真は、本陣となった御弊山古墳で、一益がここで軍配を振って全軍を指揮したことから「軍配山古墳」とも呼ばれています。

 

 

 決戦となった19日は、氏邦が小田原からの主力の一部と合流して盛り返しますが、真田昌幸の迂回攻撃などにより午前中は滝川・上野連合軍が優勢のうちに推移します。午後になって北条氏政・氏直親子の主力約4万が到着すると形勢は逆転しますが、炎天下の上、急行軍で駆けつけた北条軍の疲労も激しく戦線は膠着し、両軍の戦死者が4千人とも言われる激戦は終わりました。厩橋城に引き上げた一益は、城下の長昌寺で戦死者の供養を行い、20日夜に酒宴を開いて諸将をねぎらった後、主君信長の仇を討つため僅かな手勢を率いて碓氷峠を越えて京に向かいました。写真は、旧中山道(国道17号)の自衛隊新町駐屯地の外柵近くに建つ「神流川古戦場跡」の碑です。

 

 

 (参考図書等:「まんが滝川一益と神流川合戦」(新町商工会)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、「武州路・上州路をゆく」(学習研究社)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、観光パンフレット、現地の説明板等)