本部長の群馬紀行
第51回 中山道(その2)

 皆様、こんにちは。
 5月に入り天候が安定して、初夏の陽気です。

 自衛隊幹部候補生へのたくさんの応募ありがとうございました。試験当日の健闘をお祈りします。

 

 さて、群馬紀行第51回は、前回に引き続き中山道(その2)として、安中市と高崎市にまたがる板鼻宿周辺の史跡と自然をご紹介します。

 

 安中宿を過ぎると北側から崖状の台地が迫るので碓氷川を渡り、旧中山道を再び碓氷川方向に進みますが、その中州(安中市中宿)に鎌倉時代の名僧・栄朝(えいちょう)禅師が開いた「蓮華(れんげ)寺」があります。1165年に上野国那波郡(伊勢崎市)に生まれた栄朝禅師は、京都・建仁寺の栄西に学んで臨済宗を修め、新田荘・世良田の長楽寺(群馬紀行第16回参照)の開祖として新田義季(よしすえ)に招かれますが、その途上に中宿で仮寝した際に時ならぬ蓮華が咲く夢を見て一寺を建立したと言われています。写真は、蓮華寺近くに埋もれる「牛石」(うしいし)という巨岩ですが、栄朝禅師が連れて来た牛が動かなくなり、そのまま岩と化したと伝わるものです。牛石の後方は碓氷川で、その背後の崖状の台地にかつての板鼻宿がありました。

 

 

 中宿を過ぎて再び碓氷川を渡りますが、初期の幕府は江戸防衛のために架橋を制限していたため、ここには橋がなく、渡船による渡し場もありませんでした。このため旅人は、人足の肩車か蓮台(れんだい。数人の人足が担ぐ乗り物)による「徒(かち)渡り」で川越えをしていました。しかし、川が増水するとすぐ川止めになり、冬の徒渡りは人足にとって極めて過酷な条件だったので、1747年には冬季間のみ仮土橋を架けるようになり、5年後には通年で仮土橋が架けられるようになりました。写真は、旧中山道に架かる「鷹之巣橋」の袂から対岸の中宿を写したものですが、当時はこの付近に徒渡り場がありました。

 

 

 板鼻の台地には、陸奥に至る東山道と鎌倉に至る鎌倉道が分岐する交通の要衝として鎌倉時代には既に宿が形成され、戦国時代には信濃国・依田氏が板鼻城や鷹之巣城を築いて城下町としても繁栄しました。平安時代末期、京都の鞍馬寺を脱出した源義経は、陸奥国・藤原秀衡を頼って弁慶らとともに東山道を進む途上、板鼻の山賊・伊勢三郎義盛(いせのさぶろうよしもり)の家に宿泊しますが、義経の容貌や振舞いに心服した義盛は家来になることを懇願し、後に義経四天王の一人となりました。写真は、安中市板鼻の台地上に残る義盛の屋敷跡「伊勢殿跡」(いせどのあと)です。

 

 

 江戸時代になって碓氷川沿いに中山道が整備されると、板鼻宿も台地下に移されますが、碓氷川の徒渡しを控える板鼻宿は、一旦増水になると川止めとなり、多くの旅人が宿泊を余儀なくされました。また城下町でもあった両隣の安中宿と高崎宿は旅人が宿泊を敬遠して旅籠屋が少なかったため、板鼻宿には旅籠屋が54軒も建ち並んで、中山道の宿の中でも希に見る繁栄を見せました。写真は、江戸時代初期に稲作振興と宿場用水のために碓氷川と九十九川から取水し、中山道沿いに造られた「板鼻堰用水路」です。

 

 

 尊王攘夷で騒然とする幕末、公武合体の政略実現のため孝明天皇の妹・皇女和宮(かずのみや)は14代将軍・家茂(いえもち)に御降家されることになりますが、政情不安な折から経路は東海道を避けて中山道に決定され、1861年10月20日に京都を出立しました。延べ2万9千人の大行列となった一行は順調に旅を続け、11月9日に碓氷峠を越えて上野国に入るとその日は坂本宿で宿泊し、翌10日に安中宿で昼食の後、同日夕方に板鼻宿本陣に到着しました。写真は、本陣跡の板鼻公民館裏に再現された「皇女和宮宿泊所」で、板鼻本陣家屋の一部「奥上段の間書院」が宿泊所になりました。

 

 

 板鼻宿で宿泊した一行は翌11日には武蔵国に入り、京都を出立してから25日目の11月15日に江戸に無事到着し、翌年の2月に共に17歳で婚儀を挙行されました。その後1867年に家茂が病死し、皇女和宮は落飾して静寛院和宮となりますが、姑の「天璋院篤姫」(てんしょういんあつひめ。薩摩藩・島津斉彬の養女で13代将軍・家定の正室)と力を合わせ沈みゆく幕府を見捨てることなく江戸城無血開城などに尽力しました。現在、宿泊所は「皇女和宮資料館」として保存・整備され、平日には見学が可能ですが、板鼻公民館長(写真)に案内していただいているのは、2人の忍者が宿直(とのい)をした床下の小さな空間です。

 

 

 高崎市藤塚町の中山道(国道18号)沿いにある「藤塚の一里塚」は、県内で唯一残っている一里塚で、江戸から28里(約112km)の距離にあります。一里塚は、1604年に徳川家康が2代将軍・秀忠に命じて東海道、中山道、北陸道の3街道の両側に一里(約4km)毎に築かせた塚で、5間(約9m)四方の盛り土をして中央に榎を植えるのが一般的でした。写真は、一里塚を高崎方向から写したものですが、左側(南)の塚には当時の榎が残っていますが、右側(北)の塚は国道の拡張の際に移設され、現在は神社が建っています。

 

 

 一里塚のやや手前の中山道沿いに大鳥居が見え、ここから参道を北に登った高崎市八幡町に「八幡(やわた)八幡宮」があります。957年に京都の石清水八幡宮を勧請したもので、源頼義・義家親子が前九年の役に出陣する際に戦勝を祈願し凱旋後に社殿を寄進したと伝えられ、その後も源頼朝、新田義貞、武田信玄など清和源氏一族の崇拝を受け、江戸幕府も上野国では貫前神社(同第44回参照)に次ぐ100石の朱印地を与えて保護しました。写真は、1757年に再建された「本殿」と高崎や横浜の生糸商人などが1867年に寄進・奉納した「八幡八幡唐銅(からがね)燈籠」です。

 

 

 上毛かるたで「縁起だるまの少林山」と詠まれる「少林寺達磨寺」は、碓氷川を挟んで八幡八幡宮の対岸の丘陵にあり、1697年に前橋城主・酒井忠挙(ただたか。同第47回参照)が、城の南西方向にあたるこの地に裏鬼門除けの寺院を建立し、徳川光圀(水戸黄門)が帰依していた中国の渡来僧・心越禅師を開基として招きました。心越禅師は自ら描いた「一筆書きの達磨像」を1年の災いを除くお札として近在の家に配っていましたが、9代東嶽和尚は、1783年の浅間山の大噴火に続く大飢饉に苦しむ農民の副業にするため、この像を基に木型を彫って紙貼りだるまの製法を伝授し、それが正月の「七草大祭」に売り出されて「縁起だるま」の起源となりました。

 

 

 達磨寺境内には、世界的な建築家・工芸家のブルーノ・タウトが居住した「洗心亭」(せんしんてい)があります。1880年にドイツのケーニヒスブルグに生まれたタウトは、ナチスの台頭を避けて祖国を離れ、昭和8年5月に日本インターナショナル建築会の招聘を受けて来日しました。洗心亭は東京帝国大学教授・佐藤博士の別荘として建てられましたが、昭和9年8月からタウトの居住地となり、地場産業育成のために様々な工芸品のデザインを行って品質向上を図るとともに日本研究を行い、著名な「日本文化私観」「日本美の再発見」など多くの著書をここで執筆しました。昭和11年10月にトルコのイスタンブール大学教授に招聘され、2年3ヶ月を過ごした洗心亭を後にしました。

 

 

 一里塚の先で再び旧中山道に入り、しばらく進むと「上豊岡の茶屋本陣」(高崎市上豊岡町)があります。前回ご紹介した「五料の茶屋本陣」と同様に宿と宿の間にあって大名、上級武士、公家などの休憩や昼食に利用された施設で、皇女和宮御下向の際にも一行の公家が立ち寄った記録があるそうです。休憩所となった8畳2間の座敷は、材木や米を商う飯野家の母屋に接続する離れとして19世紀初頭に増築されたもので、写真は、書院造の様式を留める違棚(ちがいだな)や床の間が設けられた「上段の間」(手前)と「次の間」を写したものです。

 

 

 写真は、茶屋本陣の先の高崎市下豊岡町付近の旧中山道ですが、道路の左側に見えているのは「下豊岡の道しるべ」で、その先の三叉路で中山道の脇往還である「信州街道」(同第18回参照)が分岐していました。三叉路の二又部分に小さな自然石で造られた道しるべが見えますが、ここには「右 はるなみち くさつみち」と刻まれ、右の信州街道を進むと草津温泉に至り、途中で更に榛名山や伊香保温泉方面に至る道が分岐することを示しています。道しるべを先に進むとやがて烏川に至り、橋を渡ると高崎宿に入ります。

 

 (参考図書等:皇女和宮資料館、上豊岡の茶屋本陣、「まんが安中の歴史」(上毛新聞社)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、「武州路・上州路をゆく」(学習研究社)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、観光パンフレット、現地の説明板等)