本部長の群馬紀行
第50回 中山道(その1)

 皆様、こんにちは。
 4月に入って天候不順の日が続き気温の変動が大きくなっていますので、風邪などひかないように注意して下さい。

 

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 群馬紀行の掲載を始めて約1年が経過し、おかげさまで第50回を迎えることができました。この間、取材にあたっては、市町村役場や資料館等の職員の方を始め県内在住の多くの方にお世話になりましたが、この場をお借りして御礼申し上げます。これからも広く県内各地を見聞して、皆様に群馬県の魅力をご紹介したいと考えていますので、引き続き宜しくお願いします。さて、群馬紀行第50回は、中山道(その1)として旧中山道周辺の史跡と自然をご紹介します。

 

 

 中山道は五街道の一つで、延長132里余(約530km)に69の宿場を有する江戸と京都を結ぶ幹線道路です。上野国には新町、倉賀野、高崎、板鼻、安中、松井田、坂本の7宿があり、高崎〜坂本間は概ね国道18号と重なっています。既に群馬紀行第20回で坂本宿をご紹介していますので、今回は江戸に向かって松井田、安中の順にご紹介します。写真は、妙義山の麓にある安中市松井田町五料(ごりょう)の「五料の茶屋本陣」です。坂本宿の先の碓氷関所と松井田宿の中間にあり、大名・公家が休憩や昼食などに利用した施設で、本陣は2軒ありましたが、両家とも中島姓の名主宅だったため「お西」「お東」と区別していました。写真手前が「お東」です。

 

 

 「松井田宿」は、国道18号バイパスから分岐した一直線の旧道沿いに約700m続く宿場で、信州各藩から集まる年貢米の中継地として賑わったことから別名「米宿」とも呼ばれ、年貢米の半分はここで米商人によって換金され、残り半分は中山道を進んで倉賀野宿の河岸から利根川を下る船で江戸に送られました。一方、江戸から京都に向かう旅人は、日のあるうちに面倒な碓氷関所を越えておきたいと宿を通過してしまう場合が多かったようです。写真は宿の中心付近ですが、古い家並みが続き、昔の面影を良く残しています。

 

 

 

 宿の北側の山には鎌倉時代に築かれた「松井田城」があり、1487年に越後国・新発田から安中忠親(あんなかただちか)が移り住みますが、その後武田氏の支配下に置かれます。1582年に武田氏が滅亡し、関東管領となった滝川一益が本能寺の変によって去ると、北条氏の重臣・大道寺(だいどうじ)政繁が城主となり、大増築して守りを固めますが、1590年の小田原攻めに際し前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの大軍に攻められて落城し、政繁は北条氏政、氏照らとともに切腹させられました。写真は、政繁の居館があって墓所にもなった「補陀寺」(ほだじ、安中市松井田町)ですが、総門、中門、本堂を結ぶ一直線上に懸額があるのが特徴です。

 

 

 

 松井田宿と安中宿の間には「原市」(はらいち)という間(あい)の宿(群馬紀行第21回参照)があり、旅人が強い陽射しを凌げるように杉の大木が植樹されていました。原市の杉並木は1844年には475本、安中宿の杉並木257本と合わせて732本となり、昭和8年に国の天然記念物に指定されましたが、落雷、台風、火災、交通公害などで安中杉並木は全滅(現在は石碑のみ存在)し、原市杉並木も枯損が進んで昭和42年には指定が解除されました。上毛かるたでは「中仙道しのぶ 安中杉並木」と詠まれますが、古木は14本を残すのみとなっています。

 

 

 

 明治11年に開業した県内初の組合製糸「碓氷座繰製糸社」(後に「碓氷社」と改称)は、養蚕農家に古くから伝わる「座繰製糸」の技術を生かしながら弱い立場の農家を束ねることで安定した高品質の生糸を大量に生産し、その質と量は富岡製糸場などの器械製糸に勝るとも劣らないものでした。写真は、明治38年に建設された「旧碓氷社本社事務所」(安中市原市)で、外観は和風、構造は洋式の大規模な建造物で「百畳敷き」と呼ばれる大広間があり、各種会議や講演会などが開催されました。

 

 

 

 碓氷川の清流沿いに開かれた「磯部温泉」は、古くは「塩の窪」と呼ばれたように塩水が湧き出るところとして知られ、1783年の浅間山の大噴火によって湯量が増したとも言われますが、薬効があり、中山道を往来する多くの旅人や文人墨客に利用されてきました。写真は、JR信越本線・磯部駅前広場の「日本最古の温泉記号」の石碑ですが、1661年の絵図に描かれていた磯部温泉を示す記号が温泉記号として日本最古のものであることが判明し、温泉記号発祥の地となりました。

 

 

 

 話は前後しますが、松井田に移住した安中忠親の甥・忠政は、1559年に「野尻の郷」と呼ばれていた地に城を築き、地名を「安中」に改めました。忠政は武田氏の侵攻に備えて子の忠成を「安中城」に入れ、自らは松井田城に入って守りを固めますが、武田氏の猛攻の前に1564年に降伏します。その後は武田氏に臣従して各地で戦いますが、1575年の長篠の戦で一族はほぼ全滅し安中城は廃城となります。それから40年後の1615年、井伊直政(同第46回参照)の長男・直勝は病弱のため近江国・彦根藩18万石を弟・直孝に譲って安中藩3万石に分家し、陣屋形式の安中城を再築して城下町を整備しました。写真は「安中城本丸跡」付近ですが、現在は安中市文化センターとなっています。

 

 

 

 安中の城下町は、城を中心に東西に細長く広がった台地上にあり、南に碓氷川、北に九十九川(つくもがわ)が台地を沿うように流れています。写真は、安中城内に祀られた「八重が淵の碑」から北の九十九川や国道18号バイパスを俯瞰したところです。4代藩主・水野元知の寵愛を受けた女中の「八重」は、正室に妬まれて元知の食膳に針を入れたとの疑いを掛けられ、桶に蛇とともに閉じ込められて九十九川に沈められて亡くなります。この夫婦喧嘩は刃傷沙汰にまで発展し、元知は1667年に藩主乱心を理由に改易処分となってしまいました。

 

 

 

 江戸防衛の要である「碓氷関所」を管理(同第20回参照)する安中藩には、井伊、水野、堀田、板倉、内藤など徳川譜代の大名が入部しましたが、藩の規模としては3万石の小藩だったので家臣団は約300人と少なく、そのうち約100人が江戸藩邸に居住し、残り約200人が安中城下に居住していました。写真は、移築復元後一般公開されている「旧安中藩武家長屋」ですが、一戸建ての屋敷に住むことができたのは一握りの上級藩士で、ほとんどの藩士はこのような同じ間取りの4軒長屋で慎ましい暮らしをしていたようです。

 

 

 

 城下町には中山道が整備されて「安中宿」が置かれますが、人口や家が少なくて経済的に苦しい宿場だったので、常備することを義務付けられた伝馬(使者や物資を馬で運ぶ交通制度)のための50人、50疋の人馬を揃えることができず、継立(つぎたて。宿場での人馬の乗り継ぎ)に苦労していました。度重なる宿民の嘆願を受けた幕府道中奉行・石川忠房は、1822年に宿の常備人馬を25人、25疋の半分に減らしました。写真は、宿沿いの「三社神社」にある「石川忠房の生祠の碑及び生祠」ですが、宿民は忠房を生き神様として祀り、15代藩主・板倉勝明(かつあきら)は、1834年に生祠の碑を建てました。

 

 

 

 板倉勝明は学者大名としても有名で、新井白石や荻生徂徠(おぎゅうそらい)といった古今の学者の未刊の書を集めた「甘雨亭叢書」(かんうていそうしょ)を刊行し、藩士に洋学を学ばせました。また1855年(安政2年)には、藩士の心身を鍛えるため、50歳以下の藩士に安中城から碓氷峠の「熊野神社」(同第20回参照)まで約29kmの遠足(とおあし。現在のマラソン)を命じました。写真は、安中城跡にある「安政遠足覗き石」で、中央の覗き穴から見える先は、ゴール地点の碓氷峠だそうです。

 

 

 上毛かるた「平和の使い 新島襄」と詠まれるキリスト教徒で、同志社英学校(後の同志社大学)を開校したことで有名な「新島襄」(にいじまじょう)は、1843年に安中藩士の子として江戸藩邸に生まれました。幼名を七五三太(しめた)といい、勝明に認められて幕府の海軍操練所に入り数学、航海術、英語を学びますが、海外事情に開眼した七五三太は、1864年に函館からアメリカに向けて国外脱出します。脱出船の中で「ジョー」と呼ばれたことから後に「襄」と名乗ったようですが、約10年間大学や神学校で勉強した後、明治7年に帰国しました。帰国後、人力車3台を仕立てて中山道を走り、城下の「新島襄先生旧宅」で両親に再会しますが、襄が旧宅に滞在したのはこの時の3週間だけだったようです。

 

 

 湯浅治郎は、安中藩の御用商人として1832年より味噌、醤油の醸造を行っていた「有田屋」の3代目で、新島襄に師事し、襄亡き後の同志社英学校の運営などに尽力しました。写真右は、旧中山道沿いに昔ながらの天然醸造法で操業している有田屋で、明治15年には新島襄・八重夫妻も滞在しました。写真左の石碑は、治郎が明治5年に設立した日本最初の私設図書館「便覧舎」(べんらんしゃ)跡で、和洋中の3千冊にも及ぶ蔵書は誰でも自由に無料で閲覧ができたそうですが、治郎を含む男女30人がここで襄からキリスト教の洗礼を受け、明治11年の安中教会設立の原動力となりました。

 

 

 (参考図書等:「まんが安中の歴史」(上毛新聞社)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、「武州路・上州路をゆく」(学習研究社)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、観光パンフレット、現地の説明板等)