本部長の群馬紀行
第49回 新田荘遺跡(その3)

 皆様、こんにちは。
 市内の桜はピークを過ぎましたが、まだたくさんの花を付けています。

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 さて、群馬紀行第49回は、第17回以来しばらく間が空きましたが新田荘遺跡(その3)として新田義貞没後の新田荘関連の史跡を中心にご紹介します。

 

 新田一族が故郷の新田荘を遠く離れて各地を転戦している間、鎌倉を占領して建武の新政に反旗を翻した足利尊氏は、上杉憲房を上野国守護に任じて新田一族の所領を奪い味方に分配するとともに、斯波(しば)家長を上野国に派兵して新田本家の居館などを攻め落とします。義貞が越前国(福井県)で最期を遂げた後の1338年、尊氏は北朝の光明天皇から征夷大将軍に任じられ、足利幕府を正式に発足させました。写真は、新田氏初代義重が標高239mの金山(かなやま、太田市金山町)に築いた「金山城」跡に、義貞を祀るために明治8年に建てられた「新田神社」です。

 

 

 義貞亡き後の南朝方を束ねたのは義貞の弟・義助でした。脇屋(わきや、太田市脇屋町)の地を領していたことから脇屋義助と称し、生品神社の旗挙げ以来、義貞の副将として行動を共にし、義貞の死後も幕府軍に抵抗します。1341年に四国・西国の総大将として一族の大館氏明(おおだちうじあき)や篠塚重広(群馬紀行第41回参照)とともに伊予(愛媛県今治市)に渡りますが、翌年同地で病死しました。写真は、義助の菩提寺「正法寺」(しょうほうじ、太田市脇屋町)にある遺髪塚ですが、病床で最期を看取った南朝方の忠臣・児島高徳(同第43回参照)が義助の故郷に遺髪を持ち帰ったと伝えられています。

 

 

 義貞には長男・義顕(よしあき)、二男・義興(よしおき)、三男・義宗(よしむね)の3人の子がいましたが、義顕は義貞に先立って戦死し、義興は側室の子であったため、新田氏本家の家督は義宗が継ぎました。足利氏によって新田荘を追われた義宗は、越後の新田一族に匿われて育ったと伝えられ、成長して兄・義興や脇屋義助の子・義治とともに越後や関東で南朝方を指揮しました。1368年、鎌倉の足利氏を討つために義治とともに越後国で挙兵した義宗は、利根(川場村)で北朝方の大友氏(同第32回参照)を破りますが、沼田で上野国守護・上杉憲顕の大軍に囲まれ、一矢に右目を射抜かれてうつぶしに落馬して壮烈な最期を遂げました。写真は、沼田市白沢町高平の義宗討死の地ですが、義宗の遺骸は近くの「雲谷寺」に葬られ、この地は「うつぶしの森」と名付けられました。

 

 

 一方、新田本家に代わり新田荘の惣領の地位に就いたのは分家の岩松氏でした。岩松氏は、新田本家2代義兼の娘に足利氏2代義兼の子・義純が婿入りしてできた子・時兼が初代で、岩松(太田市岩松町)の地を領したことから岩松時兼と称しました。写真は、新田義重が創建した「岩松八幡宮」ですが、山城国(京都府)の「石清水(いわしみず)八幡宮」に参詣した際に持ち帰った松の小苗を犬間(いぬま)の地に植えたことから「岩松」と改名し八幡宮を建てました。八幡宮は源氏の守護神でとして崇敬され新田荘各地にありましたが、岩松八幡宮は、岩松氏の勢力拡大とともに総鎮守となりました。

 

 

 新田一族でもあり足利一族でもあった岩松氏は、4代経家(つねいえ)の時に新田義貞の鎌倉攻めに参陣しますが、鎌倉幕府滅亡後は義貞と袂を分けて鎌倉に留まり、足利尊氏の傘下に入りました。1347年、5代直国(ただくに)は尊氏から新田本家の旧領だった由良(ゆら、太田市由良町)、成塚(太田市成塚町)などを与えられ、新田荘の支配を任されました。写真は、義重の父・源義国(同第16回参照)が創建した太田市岩松町の「青蓮寺」(しょうれんんじ)ですが、義国、義重、義兼が境内に居館を構えて居住したと伝えられ、以後、岩松氏代々の居館となりました。

 

 

 その後、岩松氏は南北朝の動乱の中で一時期新田荘を追われますが、復帰を果たした家純は、1469年に金山城を再築して居城としました。しかし1494年に家純の跡を継いだ孫の尚純(ひさずみ)は、翌年、執事の横瀬氏との抗争に敗れて子の昌純に家督を譲り、岩松に隠居しました。写真は、青蓮寺近くの「尚純萩公園」にある「岩松尚純夫妻の墓」ですが、この頃、応仁の乱で荒廃した都から地方に文化が流出しており、武士の座を降りた尚純は「静喜庵」(じょうきあん)と号してその生涯を連歌の世界に投じたそうです。

 

 

 横瀬氏は、新田本家最後の当主である義宗の子・貞氏が家臣の横瀬氏の娘婿になり横瀬氏を称したことが始まりと伝えられますが、その孫の3代貞国が岩松氏の家臣となり、4代国繁、5代成繁は執事となって実力を付け、1495年には主君・尚純を廃してその子・昌純を傀儡に立てて岩松氏の実権を握りました。1528年、7代泰繁の時に下剋上により昌純を廃して金山城主になると、8代成繁は1565年頃から新田本家の領地名から「由良氏」を称するようになりました。写真は、太田市金山町の由良氏の菩提寺「金龍寺」にある「由良氏五輪塔並びに新田義貞公供養塔」ですが、初代貞氏は1417年に祖父・義貞の遺骨を北陸の地から移して廟所としました。

 

 

 日本百名城の一つに数えられる金山城を拠点に新田荘を支配し戦国大名に成長した由良氏は、桐生、館林、足利なども手中に収め(同45回参照)隆盛を極めました。その後も関東の覇権を争う上杉氏、北条氏、武田氏の大勢力の中を巧みに泳ぎ、また金山城は上杉氏、武田氏の度重なる攻撃を受けますが、一度も落城することもなくその堅固さを誇りました。その後9代国繁は、北条氏の謀略によって小田原城に軟禁され金山城は接収されますが、1590年の北条氏滅亡とともに解放されると、徳川家康から常陸国牛久(茨城県牛久市)5400石を与えられ、由良氏は後に高家(こうけ)に列せられて明治維新を迎えました。写真は、金山城の城郭の出入口「大手虎口」ですが、迷路のように入り組んで敵の勢いを削いだそうです。

 

 

 新田荘は、江戸時代には幕府の直轄領や旗本領などとなり、廃城後の金山は将軍家に献上する「松茸」の御料林となりました。また、世良田(太田市世良田町)は、新田義重の四男の義季(よしすえ)を祖とする徳川発祥の地として幕府の手厚い庇護を受けて繁栄しました。写真は、江戸時代に鎌倉の「東慶寺」とともに幕府公認の「縁切寺」とされた太田市徳川町の「満徳寺」です。義季の娘「浄念尼」(じょうねんに)が尼寺として開き、新田氏の没落とともに衰退しますが、大坂夏の陣の後、徳川秀忠の娘で豊臣秀頼の正妻「千姫」が豊臣氏と縁を切るために入寺して離婚後再婚した例により縁切寺としての特権を与えられて復活しました。隣接する資料館で江戸時代の離婚について学習することができます。

 

 

 江戸時代中期の勤王思想家・高山彦九郎は1747年に細萱村(太田市細萱町)の豪農の二男として生まれ、子供の頃に南北朝時代を描いた「太平記」を読んで勤王思想に芽生え、京都や江戸を中心に全国各地を遊歴して公家、武士、学者、商人、農民など様々な人々と交流し克明な日記を残しました。そして九州訪問中の1793年に筑後国(福岡県久留米市)で謎の自刃を遂げますが、その思想と情報は、後に維新の原動力となった吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、中岡慎太郎、西郷隆盛ら多くの幕末の志士に影響を与えました。写真は、国の史跡に指定された「高山彦九郎宅跡と遺髪塚」で現在は畑となっていますが、隣接する「太田市立高山彦九郎記念館」でその足跡を辿ることができます。

 

 明治維新後、新田荘一帯は地場産業も少なく沈滞していましたが、大正6年、海軍を退官した中島知久平(ちくへい)が尾島町(太田市尾島町)に「飛行機研究所」を開設し、昭和6年には「中島飛行機株式会社」に改称して世界有数の航空機メーカーに発展して町の様相を一変させました。戦後解体され富士重工業株式会社などに別れますが、太田市は北関東屈指の工業都市として発展しています。なお、知久平は政治家としても活躍し、鉄道大臣、軍需・商工大臣を歴任しました。写真は、知久平が昭和7年に故郷の太田市押切町に築いた「中島知久平邸」ですが、近代和風の大規模邸宅として市の重要文化財に指定され、地域交流センターとして使用されています。

 

 

 (参考図書等:「新田一族の盛衰」(あかぎ出版)、「新田一族の戦国史」(あかぎ出版)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、観光パンフレット、現地の説明板等)