本部長の群馬紀行
第48回 県都前橋の景観と周辺の史跡(その2)

 皆様、こんにちは。
 市内の桜の蕾が大きくなってきました。

 現在、自衛隊幹部候補生の試験受付を行っています。幹部候補生とは、自衛隊組織の骨幹となる幹部自衛官に必要な知識、技能等を習得するための教育課程で、将来は指揮官等として活躍することになります。是非、ご検討ください。

 

 さて、群馬紀行第48回は、前回に引き続き自衛隊群馬地方協力本部が所在する県都・前橋市の景観と周辺の史跡(その2)をご紹介します。

 

 藩主不在の寂れた前橋が再び活気を取り戻したのは1858年、日米修好通商条約が締結されて翌年横浜が開港し、生糸の取引価格が急騰したことが契機でした。後背地に広い養蚕地域を有する前橋は、江戸時代から繭、生糸の集散地であり、海外との取引で生糸商人は躍進しました。写真は、広瀬川に架かる国道17号の現代の「厩橋」(まやはし)とその袂に建てられた「前橋残影の碑」ですが、街灯には外国商人から「マエバシ」と呼ばれた提糸(さげいと、生糸の荷造り形態)と生糸の取り枠のレプリカが吊るされていて、往時の前橋を象徴する景観となっています。

 

 

 生糸商人の活躍で活気を取り戻した前橋藩は、1863年、松平氏6代直侯(なおよし)が幕府から前橋城再築の許可を得て工事を開始し、藩主の帰城を願う生糸商人からの莫大な献金と近村からの労力奉仕により7代直克(なおかつ)の時に城が完成、初代朝矩が川越に移城してから百年を経た1867年に多くの藩士を引き連れて帰城が実現しました。再築前橋城は旧前橋城三の丸を本丸としており、城郭面積は同規模でしたが、完成を急いだため城門や建物は簡素なものであったようです。写真は、県警察本部東側に残る再築前橋城土塁跡です。

 

 

 藩主が帰城した前橋藩は間もなく明治維新を迎えることとなりますが、その勢いは止まらず、明治2年には横浜に藩営の生糸直売所を開設します。さらに明治3年4月には、スイス人技師ミューラーの指導を受けた前橋藩士・深沢雄象(ゆうぞう)と速水堅曹(はやみけんそう)らによって、イタリア製6人繰りの器械を備えた日本最初の器械製糸である「前橋藩営器械製糸所」を開業しました。これは、富岡製糸場に先立つこと2年6月前のことで、全国に器械製糸の技術を広める根拠地となり、速水堅曹は後に富岡製糸場設立にも貢献しました。写真は、前橋市住吉町1丁目交差点に建つ「明治三年日本最初の器械製糸場跡」の碑です。

 

 

 明治4年7月の廃藩置県により、前橋県など9県併存の時期を経て同年10月に「群馬県」(第1次)が成立して高崎、後に前橋に県庁が置かれますが、明治6年6月には「熊谷県」が成立し、県庁は熊谷に移ります。更に明治9年8月に「群馬県」(第2次)が成立して高崎に県庁が置かれますが、県令・楫取素彦(かとりもとひこ)は、廃城となった前橋城本丸御殿への仮移転を行います。この前後、高崎と前橋の激しい県庁争奪戦が繰り広げられますが、素彦の様々な要求を満たす下村善太郎ら「前橋25人衆」の積極的な資金援助が功を奏し、明治14年2月に正式に前橋が県庁所在地となりました。写真は、前橋市役所前の「下村善太郎」の銅像ですが、前橋を代表する生糸商人で、生糸で蓄えた富を惜しみなく前橋に注ぎ、県庁誘致、鉄道敷設、臨江閣建設などに貢献し、明治25年に初代前橋市長となりました。

 

 

 楫取素彦は長州藩の藩医の二男として生まれ、12歳の時に藩校の儒者・小田村家の養子となって伊之助と名乗りました。幼少から学問に秀で、盟友・吉田松陰亡き後の「松下村塾」を任されますが、後に藩主から抜擢されて「時代の舵(かじ)取りに」との意から「楫取」の名が与えられて藩の中枢で活躍し、明治維新後は新政府高官、熊谷県令などを経て初代群馬県令となりました。松陰から送られた「至誠にして動かざるは、いまだこれあらざるなり」(孟子)の言葉どおり至誠を尽くして県政にあたり、産業振興、教育、文化財保護などに力を注ぎました。写真は、明治25年に下村善太郎らによって建てられた「前群馬県令楫取素彦君功徳碑」(昨年、前橋公園内に移設)です。

 

 

 前橋市大手町の「清光寺」は、素彦・寿子(ひさこ)夫妻が群馬県に赴任するにあたり、念仏不毛の地であることを憂い、東京築地の本願寺に依頼して明治12年に「本願寺説教所」として前橋城三の丸の地に創設したものです。寿子は松陰の長妹で、幼少の頃から浄土真宗の信仰が篤く、内助の功で素彦を支え、素彦が生糸の直輸出の道を拓くため青年実業家・新井領一郎の渡米を助けて送り出す際には「兄の魂は太平洋を渡ることで救われる」と松陰の形見の短刀を託すなど「烈婦」と言われました。寿子は明治14年に亡くなり、妹の「文」(ふみ)が後妻となりました。

 

 

 明治17年5月、全国3番目の路線(高崎線)が上野〜高崎間に開通しますが、素彦や下村善太郎らの請願により同年8月には前橋まで延長されました。しかし、当初は利根川に架橋できず、川の手前(西岸)の内藤分村(戦国時代に武田氏家臣・内藤昌豊の領地で「分」とは領分の意)に駅が置かれました。写真は、前橋市石倉町の両毛線の高架脇にある「内藤分ステーション跡」で、生糸を運ぶ出発駅として栄えますが、明治22年に「利根川鉄橋」が完成すると「両毛線」(栃木県・小山〜前橋間を結ぶ全国4番目の路線で桐生、伊勢崎などの絹織物産地を経由することから「シルク鉄道」とも呼ばれた。)の前橋駅に統合され、内藤分ステーションは廃止されました。

 

 

 臨江閣(りんこうかく)は、素彦の提言により、明治17年に下村善太郎ら地元有志等の寄付で建設された迎賓館で、明治天皇行幸の際の行在所や多くの皇族方のご滞在所として使用されたほか、戦後は前橋市庁舎戦災による仮庁舎としても使用されました。また、明治43年に前橋市で開催された「一府十四県連合共進会」に先立ち「貴賓館」として建設された別館は150畳の大広間を有し、大公開堂として現在も使用されています。10年に及ぶ在任の後、臨江閣の落成を待たずに県令を退任することとなった素彦は、県職員との寄付によって茶室を建てて前橋市に寄贈したそうです。

 

 

 明治27年、江戸時代初期に総社城主・秋元長朝が開削した天狗岩用水(前回参照)の僅かな落差を利用した「総社水力発電所」が前橋電灯会社によって建設され、約50キロワットの電力で前橋市内一千灯が光り輝きました。水力発電所は県下では最初、全国でも東京、京都、日光、豊橋に次いで5番目で、アメリカで一般家庭に送電が行われるようになってから僅か12年後のことでした。写真は、総社城西木戸跡(前橋市総社町)から見た天狗岩用水脇(右側)の発電所跡に残る煉瓦積みです。

 

 

 上毛かるたで「県都前橋、生糸の市」(いとのまち)と詠まれる前橋の製糸業は、昭和30年代半ば頃まで基幹産業として繁栄し、市内には当時を偲ぶ建造物が多く残されています。写真は、前橋25人衆の一人・勝山宗三郎が創設した「勝山社」の生糸の保管倉庫として明治36年に建設された前橋市本町の「旧勝山社煉瓦蔵」ですが、外壁には硬い黒焼煉瓦が使用された貴重なもので、国の登録有形文化財となっています。

 

 

 写真は、前橋市住吉町の「旧安田銀行担保倉庫」で、銀行の担保物件として集められた生糸や繭の保管倉庫として大正2年に建設されたものです。高さ約10m、長さは54mもあり、煉瓦を長手だけの段と小口だけの段と一段おきに積む「イギリス積み」(富岡製糸場の繭倉庫は、長手と小口を交互に積む「フランス積み」)の煉瓦造で、国の登録有形文化財となっています。

 

 

 一方、前橋市は「水と緑と詩のまち」とも言われ、利根川の支流で市内の中心部を東西に流れる「広瀬川」は「水」のシンボルの一つとなっています。かつては利根川の本流でしたが、戦国時代の頃の度重なる洪水により変流し、本流は市内西側を南北に流れるようになったと言われています。江戸時代には広瀬河岸が設けられて物資の集積場となって賑わい、明治になって製糸業が盛んになると、川のいたるところでその動力となる水車が回っていたそうです。河畔の散策路には「広瀬川白く流れたり・・・」と詠んだ前橋出身で日本の近代詩を代表する詩人「萩原朔太郎」(さくたろう)の詩碑が建ち、四季を感じさせる樹木を眺めながら気持ち良く散策することができます。

 

 (参考図書等:前橋市HP、大河ドラマ館、「まんが・前橋の歴史」(前橋市)、「両毛を結んで」(上毛新聞社)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、観光パンフレット、現地の説明板等)