本部長の群馬紀行
第47回 県都前橋の景観と周辺の史跡(その1)

 皆様、こんにちは。
三寒四温、一雨ごとに暖かくなるようです。

 現在、自衛隊幹部候補生と予備自衛官補の試験受付を行っています。幹部候補生とは、自衛隊組織の骨幹となる幹部自衛官に必要な知識、技能等を習得するための教育課程で、将来は指揮官等として活躍することになります。また、予備自衛官補は、一般の社会人や学生といった自衛官未経験者を「予備自衛官補」として採用し、教育訓練終了後に「予備自衛官」として任用する制度です。是非、ご検討ください。

 

 さて、群馬紀行第47回は、自衛隊群馬地方協力本部が所在する県都・前橋市の景観と周辺の史跡(その1)をご紹介します。

 

 前橋はかつて「厩橋」(まやはし)と言われ、律令国家時代の東山道の駅家(うまや)の近くにあった車川(現在の利根川)に架かる橋を「駅家橋」と呼んだことがその起源のようです。当時の中心地は、上野国府があったと推定される前橋市元総社(そうじゃ)町の「宮鍋様」(宮鍋神社、群馬紀行第12回参照)付近で、室町時代には上野国守護代となった長尾氏が城郭化して蒼海(おうみ)城と称しました。

 

 

 1485年、総社長尾氏(白井長尾氏に対する呼称)は前橋市石倉町の利根川西岸に「石倉城」を築き本拠としますが、要衝の地であったため戦国時代には上杉氏、北条氏、武田氏による攻防の的となり、1590年の北条氏滅亡により廃城となりました。なお、1534年の洪水で利根川が西に変流したため、城の主要部分が崩落したとも言われています。写真は石倉城二の丸公園となった石倉城跡です。

 

 

 一方、西上州の武士団をまとめて勢力を拡大し、後に箕輪城を本拠とする長野氏(群馬紀行第14回参照)は、1470年頃、変流によって新たに要害の地となった利根川東岸に厩橋城を築き、東上州進出の拠点としました。その後、1560年には越後の上杉謙信が関東進出の拠点とし、北条(きたじょう)高広(同第38回参照)を城代とします。写真は前橋市紅雲町の「龍海院是字寺」にある「陣屋杉跡」ですが、箕輪城、蒼海城、石倉城などを攻略した武田氏が北条氏と連合して1567年に利根川西岸に布陣して対峙した際、謙信が陣屋を張りこの杉の上から敵情を偵察したと伝えられています。この際、城下は広く焼き払われますが、城の守りは堅く謙信は連合軍を撃退します。

 

 

 1578年に謙信が病死すると城代・北条高広は武田氏に寝返って厩橋城は武田氏の支配となりますが、1582年に武田勝頼が織田信長に滅ぼされ、信長の重臣・滝川一益(かずます)が厩橋城に入って関東管領を称します。しかし、その僅か3か月後の本能寺の変により信長が急死すると、厩橋城を狙う北条氏の大軍が高崎市新町付近の神流川(かんながわ)に進出して対峙します。一益は、大戦を前に桶狭間の戦いにおける信長にあやかり上野国の諸将を集めて前橋市紅雲町の「長昌寺」の境内で能を舞いますが、これが県内の記録に残る初めての演能で、群馬県における能の発祥の地とされています。

 

 

 激戦の末敗れた一益は本国に去り、厩橋城は蒼海城、石倉城とともに北条氏の支配となりますが、1590年の小田原攻めで落城し、徳川氏家臣・平岩親吉が3万3千石の城主となります。関ヶ原の戦いで勝利した家康は親吉を甲府城代とし、川越城主・酒井重忠に「汝に関東の華をとらせる」として厩橋城主に封じ、九代150年間その治世が続きます。城下の龍海院是字寺は、徳川家康の祖父・清康が「是」の字を握る夢を見て、これを「日の下の人=天下人」の瑞夢であると予言した摸外(もがい)和尚を開山として岡崎城下に建立した寺で、その外護者となった酒井氏の菩提寺となり川越、前橋と移転しますが、酒井氏の姫路移封後もこの地に留まって、歴代城主の墓を守っています。

 

 

 酒井氏は、厩橋城を城域15万坪、三層の天守閣を有する近世の城郭に改修し、川越城、忍城、宇都宮城とともに関東の四名城と称されるまでに拡大整備しました。酒井氏は2代忠世、3代忠行の時に15万石に加増されて老中となり、4代忠清は大老となって「下馬将軍」と呼ばれるほど権勢をふるいますが、5代将軍継嗣問題で失脚します。1649年に「前橋」に改称された城下町は、無役となって藩政に力を注ぎ名君と謳われた5代忠挙(ただたか)の時に最も繁栄したと言われています。写真は、前橋市大手町の路地裏にある「前橋城車橋門跡」ですが、前橋城の数少ない遺構の一つです。

 

 

 一方、関ヶ原の戦いで戦功のあった上総国の秋元長朝(おさとも)が1601年に1万石で蒼海城に封じられると、父・景朝ゆかりの地に総社城を築き、二代約30年間善政を施しました。それより前、景朝は関東管領上杉氏に仕えて上野国植野勝山(前橋市総社町)の地を与えられており、1590年に長朝は父の供養のために同地に「元景(げんけい)寺」を建立していました。写真は、元景寺にある景朝の墓(左奥)ですが、手前右は、1615年の大坂城落城の際に長朝の陣に助けを求めてこの地に匿われた淀君の墓で、対岸の敷島公園にある「お艶(えん)が岩」は、世を儚んだ淀君が利根川に身投げをした岩であるとの話が伝わります。

 

 

 総社藩主となった長朝は、総社城の築城と領内の荒れた土地を潤すために利根川の上流から用水を引く工事を始めます。取水口は他領であり、領民の年貢を3年間免除して実施した工事は困難を極めますが1604年に完成し、取水口付近の巨岩を取り除く際に山伏に化けた天狗が指示をしたという伝説から「天狗岩用水」と呼ばれるようになりました。2代泰朝は1633年に甲斐国・谷村に移封となり総社城は廃城、秋元氏は館林城主として明治維新を迎えます。秋元氏を追慕する領民は172年も経た1776年に、感謝を込めて秋元氏の菩提寺・光厳寺に「力田遺愛碑(りょくでんいあいのひ)」を建てました。

 

 

 江戸時代、前橋城の西を流れる利根川の対岸には、三国街道の脇往還「佐渡街道」(群馬紀行第29回参照)が通り、中山道から分岐して利根川沿いの玉村、上新田、小相木(こあいぎ)、石倉、総社などを経て渋川で三国街道に合流していました。架橋技術が稚拙だった当時、対岸への往来は渡船が利用され、藩領の街道沿いには「五料」「福島」「実正(さねまさ)」「大渡」の4つの渡船場が設けられ、関所や番所が置かれました。写真の石碑は、高崎と前橋を繋ぐ「東道」(あずまみち、東山道の後継道)とも交差する交通の要衝にあった前橋市小相木町の「実正の渡し跡」で、対岸の南町には船頭が水難防止を願った「水神社」があります。なお、明治3年に船橋が出来て渡船が廃止され、同12年に長さ155mの「就安(しゅうあん)橋」が架けられますが直ぐ流失し、現在の「南部大橋」が開通したのは昭和53年です。

 

 

 「坂東太郎」とも呼ばれる利根川は、その名のとおり日本一の流域面積に多くの恵みをもたらす一方、洪水になると「暴れ川」となって人々を苦しめてきました。4代忠清の頃、女中の「お虎」が城主の寵愛を受けたことを同輩に妬まれ、城主の食膳に針を入れた疑いで蛇の入った木箱に閉じ込められて利根川の淵に沈められた話が伝わりますが、その後、毎年秋には利根川は洪水となって城を直撃し、城郭の破壊が進みました。人々はこれを「お虎」の怨念と信じ、その霊を慰めるために「お虎稲荷大明神」を祀ったそうですが、現在、県庁脇の川岸には「お虎観音」が建っています。

 

 

 1749年に9代忠恭(ただずみ)が姫路に移封となり、姫路から松平朝矩(とものり)が入封しますが、この頃には本丸にまで被害が及びその修復に苦しみます。1767年、ついに朝矩は幕府に願い出て川越へ移城し、以後約百年間、前橋は川越藩の分領として陣屋支配を受けることになります。前橋城は取り壊され、城主を失った城下町は衰退し、さらに1783年の浅間山の大噴火による泥流は利根川を埋め尽くし、それに続く飢饉により領民の暮らしは困窮しました。写真は、平成25年9月の台風通過直後に県庁32階の展望室から写したものですが、利根川が氾濫し、城跡に整備された前橋公園は水浸しとなっていました。

 

 (参考図書等:前橋市HP、「まんが・前橋の歴史」(前橋市)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、観光パンフレット、現地の説明板等)