本部長の群馬紀行
第46回 城下町・宿場町・市場町高崎の景観と周辺の史跡

 皆様、こんにちは。
 春の陽差しが暖かく感じられます。

 来春の採用に向けた企業の会社説明会が解禁され、防衛省・自衛隊においても大卒者等を対象とした自衛隊幹部候補生試験の受付が始まりました。幹部候補生とは、自衛隊組織の骨幹となる幹部自衛官に必要な知識、技能等を習得するための教育課程で、将来は指揮官等として活躍することになります。
 今月14日(土)に前橋市民文化会館で行われる平成26年度群馬県自衛隊入隊予定者激励会の第二部「陸上自衛隊第12音楽隊演奏会」の一般公募は終了しましたが、まだ余席がありますので、群馬地本にお問い合わせの上、ご来場下さい。

 

 さて、群馬紀行第46回は、前橋市内から約10km、30分の城下町・宿場町・市場町として繁栄した高崎市中心部の景観と周辺の史跡をご紹介します。

 

 高崎城の前身となった和田城は、鎌倉幕府の有力御家人で1213年の和田合戦に敗れてこの地に落ち延びた和田義盛の一族が烏川沿いの赤坂荘(高崎市赤坂町)に築いた城で、和田氏は室町時代には関東管領の上杉氏、戦国時代には武田氏、北条氏に属して良く城を守りましたが、1590年の北条氏滅亡とともに落城し和田氏は滅びました。写真は、高崎市役所21階の展望室から北西方向を俯瞰したところですが、烏川(右上の榛名山方向から流れる川)と碓氷川(左上の浅間山方向から流れる川)の合流点の手前に架かる和田橋の袂付近が和田城跡(高崎城本丸付近)です。

 

 徳川四天王の一人で箕輪城12万石の城主・井伊直政(群馬紀行第14回参照)は、徳川家康から信濃、越後を重視した体制を築くように命ぜられると、交通の要衝にある和田城跡に築城、移転することにします。1598年の移転に際し、直政から「松ヶ崎」に改名したい旨の相談を受けた龍光寺の住持・白庵は、「諸木には栄枯があるので、成功高大の意味から高崎としてはどうか。」と説き、直政は直ちに「高崎」に改名したと伝わっています。写真は、高崎城近くに建立された龍光寺ですが、城の防備(戦時の集結宿泊所)のために多くの寺社が箕輪から移設、建立されました。

 

 

 1600年の関ヶ原の戦いで戦功があった直政が近江国・佐和山に去り、その後酒井氏、松平氏など数代を経て、1619年に将軍・秀忠、家光にも仕えた安藤信重が近江国・神崎から5万6千石で入封しました。その後三代77年の間に城は改修され、計画的に城下町の整備がなされるなど高崎藩の基盤が確立されました。写真は、本丸を取り囲むように四隅に建てられた櫓(やぐら)のうち、乾(いぬい、北西)の方角にあった「乾櫓」と「東門」で、明治になって農家に払い下げられて納屋として使用されていましたが、昭和52年に城址公園に移築復元されました。

 

 

 

 安藤氏2代重長の時、3代将軍家光の弟・忠長が高崎城で自刃するという事件が起こりました。忠長は2代将軍秀忠の三男で幼名を国千代と言い、幼少の頃から兄・竹千代(家光)より才気が優れるとして父母からも愛されますが、長幼の序を説く乳母・春日局の家康への直訴により竹千代が将軍を継いだため、甲斐、信濃、駿河、遠江55万国の大名となり駿河大納言と称しました。しかし父母が亡くなると、忠長は数々の乱行があったという理由で1632年に高崎城に幽閉され、重長の数度の助命嘆願も叶わず翌年28歳の若さで生涯を閉じました。写真は、高崎市通町の大信寺にある忠長の墓です。

 

 

 1695年、松平(大河内)輝貞が下野国・壬生より7万2千石で入封し、一時期越後国・村上に移封されて間部詮房が入封しますが、1717年に再び高崎城主に返り咲き、以後十代161年間続いて明治維新を迎えます。写真は、輝貞が平安時代末期に以仁王(もちひとおう)を奉じて平家追討を図り宇治平等院で自刃した祖先・源頼政を祀って建てた「頼政神社」で、輝貞の異動に伴って神社も高崎と村上間を移転しました。

 

 

 城下町として発展した高崎には五街道の一つである中山道が通り、また五街道に次ぐ主要道の三国街道の起点となっており、宿場町としても栄えました。中山道は、武蔵国・本庄宿を経て上野国に入り、新町、倉賀野、高崎、板鼻、安中、松井田、坂本の各宿を経て碓氷峠を越えて信濃国・軽井沢宿に至ります。写真は、高崎宿の出入口付近の高崎市本町一丁目の交差点ですが、奥から手前方向に中山道が通り、左方向に三国街道が分岐し、右方向が高崎城です。

 

 中山道・三国街道を行き来する諸大名や旅人は城下での宿泊を遠慮したため、高崎宿には本陣や脇本陣がなく、旅籠屋も少なかったようです。一方、中山道沿いの本町、田町、あら町には六斎市(一月に六日の市)が立ち、全国各地から商人が集まって生糸、絹、木綿、酒、煙草などが取り引きされました。写真は旧中山道の田町付近ですが、5・10日に市が立ち「お江戸見たけりゃ高崎田町、紺ののれんがひらひらと」と唄われるほど賑わい、明治時代には写真左の建物付近に絹市場が置かれました。なお、この通り沿いのあら町には群馬地本の高崎地域事務所があります。

 

 一方、三国街道は、高崎宿から分かれて榛名山麓を金古宿、渋川宿と北上して吾妻川を渡り、北牧、横堀、中山、塚原、下新田、布施、須川、相俣、永井の各宿を経て三国峠を越え、越後国・浅貝宿に至りました。写真は高崎市飯塚町の新三国街道(国道17号)の飯塚町交差点から見た旧三国街道ですが、正面に高崎市役所(高崎城跡)が見えます。

 

 

 1793年、上野国にある旗本領と直轄領を監督するために交通の便の良い岩鼻(いわはな)村(高崎市岩鼻町)に代官所が設置され、明治維新後の1868年(明治元年)には吉井藩領を加えた領域を管轄する岩鼻県が設置され、その県庁となりました。この段階ではまだ各藩は存在していましたが、明治4年7月の廃藩置県により上州には岩鼻、高崎、前橋、沼田、安中、伊勢崎、小幡、七日市、館林の9県が併存することとなりました。写真は岩鼻代官所(岩鼻県庁)跡です。

 

 

 明治4年10月に9県が統合(東毛地区は栃木県に編入)されて「群馬県」(第1次)が成立して旧高崎城内に県庁が置かれますが、同地に東京鎮台高崎分営(後に歩兵第15連隊が駐屯)が置かれることとなり、翌年5月に前橋城内に移されました。明治6年6月には「群馬県」と「入間県」が合併した「熊谷県」が成立し、熊谷に県庁、高崎に支庁が置かれます。更に明治9年8月、現在の姿の「群馬県」(第2次)が成立し、熊谷県令の楫取素彦が初代群馬県令となり、旧高崎城外の安国寺(高崎市通町)に県庁が置かれました。写真のビルの後方に安国寺があり、直進方向がJR高崎駅です。

 

 楫取素彦は、すぐに手狭な安国寺から広い前橋城跡地への県庁移転を計画し、後に高崎に県庁を戻すとの含みを残して同年9月に移転を行います。この前後、高崎住民と前橋住民の激しい県庁争奪戦が繰り広げられますが、明治14年2月に正式に前橋が県庁所在地となり、高崎に県庁が戻ることはありませんでした。明治17年まで県令(知事)を勤めた楫取素彦は晩年、「前橋は交通の便が高崎より劣り、県庁移転は失政であった。」と親しい人に漏らしたとも伝えられているそうです。写真は、城址公園に残る「三の丸外囲の土居と堀」です。

 

 (参考図書等:「実録たかさき」(上毛新聞社)、「図説・高崎市の歴史」(あかぎ出版)、「まんが・高崎市の歴史」(高崎市)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、「武州路・上州路をゆく」(碧水社)、観光パンフレット、現地の説明板等)