本部長の群馬紀行
第45回 織都桐生の自然と周辺の史跡

 皆様、こんにちは。
 3月になり、春の足音が近づいてきました。

 来春の採用に向けた企業の会社説明会が解禁され、防衛省・自衛隊においても大卒者等を対象とした自衛隊幹部候補生試験の受付が始まりました。幹部候補生とは、自衛隊組織の骨幹となる幹部自衛官に必要な知識、技能等を習得するための教育課程で、将来は指揮官等として活躍することになります。

 

 今月14日(土)に前橋市民文化会館で平成26年度群馬県自衛隊入隊予定者激励会が開催されますが、その第二部「陸上自衛隊第12音楽隊演奏会」の一般公募を行っていますので、群馬地本HPをご確認の上、奮ってご参加ください。もちろん第一部「激励会」を見ていただくことも可能です。

 

 

 さて、群馬紀行第45回は、前橋市内から約30km、1時間の織都(しょくと)・桐生市の自然と周辺の史跡をご紹介します。

 

 桐生市は、東は栃木県、西は赤城山まで達する市域を有し、山間部が約7割を占め、渡良瀬川と桐生川が南北に流れる自然豊かな所です。奈良時代の714年に絹織物を朝廷に献上した記録があり、古くから織物の町として発展してきました。写真は、桐生市川内町の「白瀧神社」の御神体「機音(はたおと)の大岩」ですが、かつて宮中に仕えていた白瀧姫がこの地に嫁いで機織りの技術を伝え、死後大岩の傍に埋葬されて機神様として祀られると、岩から機を織る音が聴こえたという白瀧姫伝説があります。姫が「京で見た山に似た山」と言ったことからこの地域を「仁田山」といい、桐生の織物は江戸時代初期まで「仁田山紬(つむぎ)」と呼ばれ、桐生織物発祥の地と言われています。

 

 

 仁田山紬は1333年の新田義貞の鎌倉攻めの軍旗にも使われたようですが、「桐生」という地名はそれ以前の平安時代末期の頃、桐生六郎という武士が桐生川に沿った地域を開拓したことから始まったと伝えられています。藤原秀郷の末裔で北関東に勢力を張る豪族・足利俊綱に仕えていた六郎は、源平合戦で平家に味方した俊綱が源氏に攻められると、俊綱を討って源氏に寝返りますが、その不忠を咎められ断罪されてしまいました。写真は、桐生市梅田町にある六郎の館跡「梅原館跡」(梅原薬師)ですが、右に見える丸い山は標高361mの柄杓(ひしゃく)山です。

 

 

 1350年、六郎の末裔・桐生国綱という武士が、柄杓山の山頂に城と麓に居館を築き、梅原館を下屋敷として桐生の町屋造りの拠点としました。なお、桐生六郎と桐生国綱の繋がりは必ずしも証明されていないため、国綱以後は「後桐生氏」と呼ばれていますが、後桐生氏は10代223年間に亘りこの地を治めました。桐生市梅田町の西方寺(さいほうじ)は、後桐生氏の菩提寺で累代の墓があります。

 

 

 新田義貞の三男・義宗(群馬紀行第32回参照)の子孫で戦国時代に金山城(太田市)を居城として勢力を拡大する由良(ゆら)成繁は、1573年に柄杓山城を攻めて後桐生氏を滅ぼすと、家督を長男・国繁に譲って柄杓山城に隠居しました。成繁は町屋の整備を行い、鳳仙寺(ほうせんじ)を建てて菩提寺とし、新田荘から青蓮寺(しょうれんじ)や普門寺(ふもんじ)を移設しました。写真は、桐生の中心部が望める柄杓山城跡ですが、遊歩道が整備され、麓にある後桐生氏の祈願所「日枝(ひえ)神社」から1時間、中腹の駐車場から20分程度で登ることができます。

 

 

 桐生市広沢町の「彦部家住宅」は、祖先が足利将軍に関東の動静を伝えるために派遣され、1561年に成繁から当地を与えられて定住した彦部信勝の屋敷で、現在もその子孫にあたる方が居住しており、母屋、長屋門などが国の重要文化財に指定されています。彦部家は江戸時代に帰農して母屋の北側を染織工場とし、明治時代後半から本格的に織物業を始めて、ノコギリ屋根の工場、女工の寄宿舎、医務所などを増築し、近代的な織物工場となりました。

 

 

 北条氏に味方した由良氏が1590年の北条氏滅亡とともに常陸牛久(茨城県牛久市)に去った後、桐生は徳川家康の直轄領となり、旧武田家臣・大久保長安が代官となりました。長安の手代・大野八右衛門は、桐生天満宮を北の起点として南西方向に一本の道を造って両側に短冊状の町割りを施し、後に「桐生新町」(現在の本町)と呼ばれるようになりました。桐生新町は、1600年の関ヶ原の戦いに際して旗絹2400疋(ひき、着物4800着分以上)を徳川氏に上納したことから、戦勝後「御吉例之地」として江戸幕府から手厚く保護され、絹織物業が栄えました。写真は、桐生市梅田町の鳳仙寺にある町の基礎を築いた由良成繁と大野八右衛門の墓です。

 

 

 

 当初は農閑期の副業として絹織物の生産が行われてきましたが、1738年に京都西陣の織物師・中村弥兵衛によって高機(たかはた、腰掛けて織る織機で床に座って織る地機(じばた)に比べ能率が向上)の技術が伝えられると、桐生の絹織物の品質は飛躍的に向上して家業とする人が増え、「西の西陣、東の桐生」と呼ばれるほどの絹織物産地となりました。写真は、桐生市菱町の「機神(はたがみ)様」ですが、1739年に弥兵衛は生き神として祀られたそうです。

 

 

 

 明治時代になると海外の技術を取り入れて機械化による近代化を果たし、桐生新町とその周辺は絹織物工業都市へと発展します。明治20年には「日本織物株式会社」が設立され、ノコギリ屋根を持つ煉瓦造りの工場で水力発電による力織機が稼働し、水力発電所の電気は桐生町内の電灯にも利用されました。現在も桐生市織姫町の桐生市役所・市民文化会館(後方の建物)の近くに、水力発電所と煉瓦積みの遺構が残っています。

 

 

 

 明治35年、全国6か所の模範工場の一つである「模範工場桐生撚糸(ねんし)合資会社」が設立され、大正7年には従業員千人を越える日本最大の撚糸工場「日本絹撚糸株式会社」へと発展し、現在のJR桐生駅南口一帯の広大な敷地には、ノコギリ屋根の工場が建ち並びました。昭和19年に軍需工場となり、戦後再建されることはありませんでしたが、大正6年に建設された事務所棟が「絹撚(けんねん)記念館」として現存し、郷土資料などが展示されています。写真の右後方にJR桐生駅と吾妻山(群馬紀行第1回参照)が見えています。

 

 

 現在、桐生新町の区域内には約400棟の建物があり、その約6割が江戸末期から昭和初期に建てられたもので、伝統的な町屋や土蔵に加え、石造、煉瓦造、鉄筋コンクリート造、ノコギリ屋根など様々で、店舗、事務所、工場、倉庫、住居など形態も様々です。平成24年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。写真は、保存地区の南端から桐生新町を見たところです。右に見える店舗は、1749年に近江商人・矢野久左衛門が構えた「矢野本店店舗及び店蔵」と酒、味噌、醤油などの醸造を行っていた「旧矢野蔵群」で、蔵群は「桐生市有鄰(ゆうりん)館」として一般公開されています。

 桐生新町の周辺には歴史的な建物が多いことから、映画、テレビなどのロケ地となることが多いようです。写真は、大正5年に設立された「桐生高等染織学校」の講堂及び正面玄関の一部で、現在は群馬大学工学部同窓記念館となっています。ハンマービームと呼ばれる独特の屋根構造を持ち、講堂内部は中世の教会堂のようになっており、NHK連続テレビ小説「花子とアン」に登場した女学校のロケ地となりました。

 

 上毛かるたでは「桐生は日本の機どころ」と詠まれますが、昭和52年には「お召織」「緯錦織(よこにしきおり)」など7つの技法が「伝統工芸品・桐生織」として国の指定を受け、現在でも「桐生で揃わない織物はない。」と言われるほど織物関連業の集積地・情報発信地として不動の地位を占めています。写真は、織都桐生の象徴「ノコギリ屋根」を持つ稼働中の織物工場ですが、屋根の北側に向いた斜面にガラスの天窓を設け、北からの採光で1日を通じて均一の明かりを取り入れ、織物の色合いを見るのに適した構造となっています。

 

 (参考図書等:桐生市HP、桐生織物記念館、絹撚記念館、伝建まちなか交流館、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、観光パンフレット、現地の説明板等)