本部長の群馬紀行
第44回 世界遺産がある街の自然と周辺の史跡

 皆様、こんにちは。
 2月も中旬が過ぎ、群馬地本の庭の梅も開花しました。

 今月末に実施する防衛大学校学生の後期試験を除き、平成26年度の自衛官等採用試験はほぼ終わりました。たくさんの受験ありがとうございました。採用予定の皆さんの入隊をお待ちしています。

 

 さて、群馬紀行第44回は、前橋市内から約30km、1時間の世界遺産・富岡製糸場がある富岡市の自然と周辺の史跡をご紹介します。

 

 富岡市は、高崎市、安中市、甘楽町、下仁田町に接し、市の南部を鏑(かぶら)川が東西に流れ、西端には上毛三山の一つで安中市と下仁田町にまたがる標高1,104mの妙義山が聳えます。妙義山は、白雲山、金洞山、金鶏山の三峰からなり、切り立つような奇岩が林立する山容は日本三奇勝にも数えられます。写真は、白雲山の中腹にあって537年の創建と伝わる「妙義神社」(富岡市妙義町妙義)の参道ですが、標石の上の山中に小さく見える「大の字」は5m四方もあり、妙義大権現を省略するものとして江戸時代に建立され、神社に参詣できない人が中山道の安中・松井田宿からお参りしたと言われています。

 

 

 富岡市宮崎の宮崎公園内にある「茂木家住宅」は、戦国時代の1527年の建築で、板葺屋根、屋根まで達した棟持柱、曲がりくねった梁等に特徴があり、現在残されている民家の中では日本最古の建物と考えられ、国の重要文化財に指定されています。茂木家は富岡市神野原(かのはら)にあった大山城主の後裔と伝えられ、住宅も同地にありましたが、昭和52年に現在地に移設され復元の後、一般公開されています。

 

 

 富岡市には戦国時代の城跡などが多くありますが、宮崎公園に隣接する富岡市立西中学校の敷地となった「宮崎城跡」はその代表的なものです。宮崎城は、甘楽郡一帯を支配していた小幡氏の本拠地・国峰城(群馬紀行第31回参照)の支城でしたが、1590年の小田原攻めで敗れ、国峰城とともに落城しました。同年、関東に移封された徳川家康は、小幡氏の旧領の大半を直轄領として代官・中野七蔵を置き、宮崎城には三河の奥平氏を2万石で封じますが、1601年に美濃に転出したために廃城となりました。なお、東西に9つのピークを持つ「神成山」(かんなりやま、標高321m)という里山ハイキングコースがあり、中学校の裏にその東側の入り口があります。

 

 

 富岡市妙義町中里には「菊女之墓所」があり、小幡氏にまつわる伝説が伝わっています。当地に住んでいた小幡氏家臣の娘・お菊は国峰城主・小幡氏の侍女となりますが、その寵愛を受けたことを夫人や同輩に妬まれ、城主の食膳に針を入れたとの疑いを掛けられ、1586年に桶に蛇とともに閉じ込められて悶絶死します。その4年後に国峰城は落城し、逃れた小幡氏の子孫は真田氏や徳川氏に仕えますが、お菊の祟りはその後も小幡一族に続いたそうです。なおこの伝説は、怪談「番町皿屋敷」の原型になったとも言われています。写真は、お菊の墓と伝わる五輪塔と小幡氏末裔の松代藩士・小幡龍蟄(りゅうちつ)がお菊の供養のために1858年に建てた添碑です。

 

 

 

 富岡市一ノ宮にある「貫前(ぬきさき)神社」は、上野十二社中の一の宮で、531年の創建と伝わる格式高い神社です。現在の本殿は1635年に徳川3代家光が造営したもので、国の重要文化財に指定されています。表参道を登り総門をくぐって参道を下った先に本殿が鎮座するという希有な構造が特徴で、写真の総門の奥に本殿の屋根の上部が見えています。なお幕末の頃、養蚕や生糸生産の繁栄を願い、県内外の生糸・絹商人や養蚕製糸家の寄進により、貫前神社や妙義神社に青銅製の大きな燈籠が建てられました。

 

 

 

 

 富岡市七日市の県立富岡高校の敷地は「七日市藩邸跡」で、敷地内には1843年に再建された「御殿」と呼ばれる玄関から書院の部分や「黒門」と呼ばれる藩邸の中門が残されています。七日市藩は、加賀前田藩百万石の祖である前田利家の五男・利孝が大坂の陣で武功をたて、1616年に1万石の領地を拝領したことに始まり、以後七日市前田氏12代は明治維新まで続きました。なお、富岡市上高尾の「長学寺」は前田氏の菩提寺で、藩主5人と家臣等17人の22基の墓があります。

 

 

 

 信州姫街道の宿場町として栄えた富岡市富岡は、旧砥沢村(南牧村砥沢)から産出される砥石「上野御用砥」(群馬紀行第36回参照)を運ぶための中継地として代官・中野七蔵によって新田(都市)開発された町で、「富める岡」として発展することを願い1617年に命名されました。中野七蔵は当地に代官屋敷を建てる予定でしたが1633年に銀山奉行に栄転したために広い土地が残り、後に富岡製糸場の敷地となります。写真は、幕府直轄領だった富岡付近の信州姫街道ですが、前方で道が少しずれているところが七日市藩領との境です。

 

 

 

 富岡市上丹生(かみにゅう)の「岡部温故館」は、江戸時代中期以降にこの地方きっての豪商として砥石や麻などの地方特産物を取引していた岡部家の11代当主が「文化財は地域社会のもの」との趣旨から代々受け継いできた歴史資料や美術品などを同家の蔵を改造して公開したもので、現在は富岡市が管理しています。なお、明治17年には、デフレによる貧困に悩む農民と自由党急進派が妙義山麓に集結し、高崎線開通式のために来県する政府高官を襲う目的で高崎駅に向かう途上、岡部家などを打ち壊した「群馬事件」が勃発しますが、農民が脱落して事件は収束しました。

 

 

 紀元前の中国で発明された絹は、19世紀の欧州で大量生産が始まりましたが、欧州で蚕の病気「微粒子病」が流行し、中国もアヘン戦争で生産が激減したため、外国人はこぞって開国した日本の生糸を求めました。幕末の日本の養蚕業は、幕府が農家の副業として推奨していたため盛んでしたが、伝統的な手動の「座繰り製糸」で外国の買い付けに生産が追い付かず、粗製濫造を生みだして日本の生糸の評価は下がっていました。このため明治政府は、主要輸出品である生糸の品質向上と増産を目指し、横浜のフランス商館勤務のポール・ブリュナを指導者として雇い入れ、明治5年に官営模範器械製糸場を富岡に建設しました。

 

 

 

 ブリュナは、武州、上州、信州の各地を調査し、水、石炭、繭などの原材料や広い土地の確保、住民の理解等の観点から上州富岡を選定しました。繰糸器やガラスはフランスから輸入しましたが、木材は妙義山や吾妻郡、石材は連石山(甘楽町)から調達し、大量の煉瓦はブリュナの指導を受けた日本の瓦職人が旧福島町(甘楽町福島)に窯を築いて焼き上げました。日本の職人によって建てられた建物は、木造の骨組みに煉瓦を積み並べた「木骨煉瓦造」や中央に柱のないトラス構造などの西洋技術と、日本瓦の屋根や漆喰で煉瓦を積む在来技術を結集したもので、繰糸場の長さ140m、幅と高さ12m、繰糸機300釜は世界最大規模を誇りました。

 

 工女は全国から集められ、敷地内の寄宿舎での生活が義務付けられました。彼女達は器械製糸技術を学び、帰郷した後は各地に設立された製糸工場で指導者となり、器械製糸の伝播に貢献しました。模範工場であったため施設や勤務条件は良好でしたが、故郷を離れての慣れない集団労働のため、若くして亡くなった工女もいたようです。富岡開発時に中野七蔵らによって開山された「海源寺」には、操業初期に亡くなった工女2人と工男1人の墓があり、同じく宮崎から移転した「龍光寺」には明治7年から同34年までの間に亡くなった工女等の墓があります。

 

 

 模範工場としての一定の役割を終えた富岡製糸場は、明治26年に民間に払い下げられ、その後も経営者は変遷(三井家、原合名会社、片倉製糸紡績株式会社)しますが、昭和62年に操業を停止するまでの115年間休むことなく稼働し、繰糸場や繭倉庫などの主要な建物は創業当時のまま、ほぼ完全に残されました。これは、容積に余裕があって建て替えることなく最新式の器械に更新出来たこと、日本の職人の技術が高く堅牢だったこと、操業停止から富岡市に移管するまでの18年間片倉工業株式会社(1943年片倉製糸紡績株式会社より社名変更)が「売らない、貸さない、壊さない」の3原則を掲げて大切に守ったことなどがその理由です。そして現在、富岡製糸場は、国の史跡、国の重要文化財、世界遺産、国宝となりました。

 

 (参考図書等:富岡市HP、「絹の国拓く」(上毛新聞社)、「漫画絵巻 富岡の歴史」(富岡市)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、観光パンフレット、現地の説明板等)