本部長の群馬紀行
第42回 星の里の自然と周辺の史跡

 皆様、こんにちは。
 節分が過ぎ、春が少しずつ近づいていますが、昨年2月の大雪の例もあるので油断は禁物です。

 2月7日(土)に実施される高等工科学校生徒の二次試験を受験される方のご健闘を祈ります。

 

 さて、群馬紀行第42回は、前橋市内から約35km、1時間の星の里「高山村」の自然と周辺の史跡をご紹介します。

 

 吾妻郡高山村は、沼田市、渋川市、中之条町、みなかみ町に接し、子持山、小野子(おのこ)山、中ノ岳、十二ヶ岳などの1,000m級の山に囲まれた高原盆地で、夏は湿度が低くて涼しく、避暑地として著名な軽井沢を凌ぐほどだそうです。写真は、中山峠の東約1kmの「県立ぐんま天文台」から高山村方向を写したものですが、前方の建築物は日時計や星時計の役割を果たす古代遺跡を再現したモニュメントで、その右方向に見える盆地が高山村中心部です。

 

 

 高山村は、明治22年に旧中山村と旧尻高(しったか)村が合併して誕生しました。同村には、縄文時代の「中山敷石住居跡」、藤原秀郷が戦勝祈願のために植えたと伝わる樹齢千年の「中山三島神社杉並木」、明治初期から伝わる全国でも珍しい一人遣いの浄瑠璃「尻高人形」、県内最古の「名久多(なくた)教会」など、各時代の史跡や文化財が数多くあります。写真は、旧尻高村にある樹齢八百年以上の「泉龍寺の高野槇(こうやまき)」で、1193年に源頼朝が浅間山麓で巻狩りをした際にこの寺で休憩し、裏庭に植えたと伝えられています。

 

 

 

 泉龍寺の近くに悲恋の物語を伝える場所があります。かつて平将門征伐のため東国に下った小野俊明は、恋い慕う「あわび姫」の色香に迷い出陣の機会を逸したことを悔いて出家し、泉照寺(後の泉龍寺)の住職になりました。その後、あわび姫は一子を伴い住職を訪ねますが面会を拒否され「半形となるもあわびのかた想ひ 未来は深く添うが森せぬ」の一首を遺し名久多川に身投げします。哀れんだ村人は親子を葬り塚を建て、その塚に恋の願いを掛けると叶うことから「添うが森」と呼ばれるようになりました。一方、病で亡くなった住職は、遺言で姫の塚近くに葬られ、悪縁の切れない人の夢枕に立って「吾を信ずれば必ず縁を切らせるであろう」と言ったのでこの塚を「添わずが森」と呼ばれるようになりました。写真は「添うが森」です。

 

 

 

 戦国時代には信州から吾妻郡を経て沼田を目指す真田氏の軍用道路(真田道)が東西に通じていました。要害城(山城)と並木城(里城)から成る尻高城は、白井長尾氏の一族が築いて尻高氏を名乗り勢力を誇りましたが、1574年に真田氏に滅ぼされます。写真は、沼田城を攻略(群馬紀行第38回参照)した真田氏に対抗して北条氏が1584年頃に築いた中山城跡ですが、この堅固な城によって岩櫃城と沼田城を結ぶ真田道が分断され、真田氏は迂回を余儀なくされました。

 

 

 

 江戸時代には三国街道が南北に通じ、中山宿が置かれました。三国街道は、太平洋側と日本海側を結ぶ最短路で、中山道の高崎宿から分かれて榛名山麓を北上して吾妻川を渡り、北牧、横堀、中山、塚原、下新田、布施、須川、相俣、永井の各宿を経て三国峠を越え、越後、佐渡に至る街道です。中山宿は盆地にあるため、出入りには中山峠と金毘羅峠を越える必要がありました。写真は、中山峠を登る道に開かれた横堀宿の本陣屋敷(渋川市横堀)で、傾斜地のため宿の家屋は石垣上に築かれていました。

 

 

 

 中山宿は当初、1612年に開かれた本宿だけでしたが、1624年に本宿の西に新田(しんでん)宿が開かれると道筋が二手に分かれ、新道の方が近道であったため新田宿の往来が盛んになり、後に客引き紛争が生じたそうです。写真は、新田宿の本陣が置かれた「平形家住宅門屋」で、江戸時代末期に2階が旅籠に建て替えられ、更に明治6年から昭和41年まで中山郵便局として使用された貴重な建物で、国の登録文化財となっています。

 

 

 

 講談や上毛かるた「沼田城下の塩原太助」で有名な塩原太助は、1743年に下新田宿(みなかみ町新巻)の農家に生まれ、継母の仕打ちの辛さに耐えかねて19歳の時に江戸に出奔し、炭屋で22年間「奉公人の鑑」と称されるほど勤勉に働き、本所(墨田区)に炭屋「塩原」を開業しました。写真は、金毘羅峠の「塩原太助馬つなぎの松」で、三国街道を江戸に向かう太助は、愛馬「あお」をこの松に繋いで別れ、中山峠や榛名山を越えて難儀の末、江戸に辿りつきました。

 

 

 

 後年、財をなした太助は、湯島(台東区)の「無縁坂」の改修や「金毘羅講燈籠」(香川県丸亀市)の建設など多額の私財を公共事業に投じて「本所には過ぎたるもの二つあり 津軽大名 炭屋塩原」と大名と並び称されるほどになりました。また、江戸出奔の折、中山峠越えで渇きを覚えて難儀した経験から峠の茶屋に茶釜と茶代を送って旅人に無料接待させ、榛名山越えが真っ暗で難儀した経験から天神峠(高崎市榛名湖町)に常夜灯を建てて油代を送りました。写真は、昭和18年頃まで建物が残っていた中山峠の「松が茶屋跡」で、茶屋の「お松さん」に接待をさせたことがその名の由来だそうです。

 

 

 長岡藩や新発田藩など越後の各藩と佐渡奉行の往来のほか、越後米、海産物、金などの流通路として賑わった三国街道も明治になると廃止され、新三国街道(国道17号)が峠を避けて利根川沿いに開通し、昭和57年には全長約15kmの上越新幹線・中山トンネルが旧三国街道のほぼ真下に開通しますが、新幹線は高山村の遥か下を通過しています。写真は、再び静かな農村となった村の中心部に位置する道の駅「中山盆地」で、昼間は周辺の山並みや田園風景、夜は併設された日帰り温泉「ふれあいプラザ」の露天風呂から満天の星空を楽しめます。

 

 

 前述の県立ぐんま天文台には、直接目で観察できる望遠鏡としては世界最大級の150cm反射望遠鏡と65cm反射望遠鏡があり、日中は施設見学や天文学の学習ができるほか、土日祝日の夜は一般観望としてこれらの望遠鏡で星を覗かせてくれます。高山村では、綺麗な星空を守るため、水平以上に照らす照明を規制する「光環境条例」を制定しており、天文台へのアクセスも駐車場から遊歩道を10分程度登るようにして光を遮る工夫をしています。写真は65cm反射望遠鏡で、この日は昼間の金星を見せてくれました。

 

 (参考図書等:高山村HP、塩原太助記念館、県立ぐんま天文台、「真田道を歩く」(上毛新聞社)、「三国街道を歩く」(上毛新聞社)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、観光パンフレット、現地の説明板等)