本部長の群馬紀行
第40回 沼田城を巡る史跡(その3)

 大寒を迎え、寒い日が続きます。

 1月31日(土)の自衛官候補生(男子)試験を受験される方のご健闘を祈ります。また、防衛大学校学生の後期試験の受付は1月30日(金)となっておりますので、こちらへの応募もお待ちしています。

 

 さて、群馬紀行第40回は、沼田城を巡る史跡(その3)をご紹介します。

 

 1590年の北条氏滅亡により再び沼田城を取り戻した真田昌幸は、自らは上田城に在って長男・信幸を2万7千石の初代沼田城主とします。信幸は長い戦乱に疲弊の極みにあった領内の復興に努め、年貢の減免、水利の開削、田畑の開拓、町割りの改修等を行い、今日の城下町沼田の基礎を築きました。また、1597年には五層の天守閣を築きますが、江戸城の五層の天守閣が1657年の明暦の大火で焼失した後は、関東で五層の天守閣は沼田城だけでした。写真は、本丸跡の西櫓(やぐら)台石垣と本丸堀です。

 

 

 1598年に秀吉が亡くなると家康と石田三成らの抗争が激化し、出仕を拒否した上杉氏征伐のため家康が関東の諸大名を率いて会津へ向かうと、三成が挙兵して諸大名に決起を呼びかけます。野州・犬伏(いぬぶし、栃木県佐野市)でこれを知った真田親子は、家康に従う信幸と決起に応ずる昌幸・幸村(二男)に別れることに決します。昌幸らは上田に帰る途上沼田城に立ち寄りますが、留守を預かる信幸の正室・小松姫は、敵となった義父・義弟の入城を毅然と拒み、女丈夫と謳われました。小松姫は徳川四天王の一人・本多忠勝の娘で、家康の養女として信幸に嫁いでいました。1620年、小松姫は病気療養のため江戸から草津に向かう途上、武州・鴻巣(こうのす、埼玉県鴻巣市)で亡くなります。写真は、正覚寺(沼田市鍛冶町)にある小松姫(大蓮院殿)の墓です。

 

 

 

 上田城に籠城した昌幸・幸村は、中山道を急ぐ徳川秀忠軍約4万を翻弄して関ヶ原の戦場に遅参させますが、西軍(三成方)が敗れて紀州・高野山に配流となります。その後昌幸は病死、幸村は豊臣方の招聘に応じて脱出し、1614年の大坂の冬の陣で「真田丸」と呼ばれる砦を築いて奮戦しますが、翌年の夏の陣で戦死します。一方、昌幸の旧領・上田を加え9万5千石の大名となった信幸は、真田氏代々の「幸」の字を憚って「信之」と改め、1616年に長男・信吉を沼田藩主として分家し、本家は1622年に信州・松代藩10万石に国替えとなりました。信吉は城堀川の開削(群馬紀行第32回参照)など沼田領内の拡充に努めますが、1634年に急死します。写真は、天桂寺(沼田市材木町)にある信吉の墓で、真田氏の家紋である「六文銭」が刻まれています。

 

 

 

 3代沼田藩主は、信吉のわずか4歳の長男・熊之助が継ぎますが3年後に病死し、信吉の弟・信政が4代沼田藩主となります。写真は、沼田市白沢町高平にある「高平の書院」と樹齢約4百年の「書院の五葉松」で、1649年に信政が新田開発や宿割等を行った際に設置され、その後は領内見回りや鷹狩りの際の休憩所として利用されたもので、松は書院設置の際に庭に植えられました。

 

 

 

 1656年、本家の信之が91歳で隠居して信政が本家・松代藩主を継ぐこととなり、5代沼田藩主は2代信吉の二男・信利が継ぎました。信利は、強引な領内開発を進めて藩の財政に窮すると、1661年に表高3万石を約5倍の14万4千石とする拡大検地を行って領民に過酷な年貢を課して苦しめました。写真は、信利の圧政を物語る東吾妻町五町田の「池の薬師水牢の跡」ですが、10m四方を掘り下げて深さ約60cmほど水を溜め、年貢未納の農家の妻子を刑罰として4、5人ずつ縄で縛って投獄し、寒中の水の中に立たせたと伝えられています。

 

 

 この圧政に対して、禁を犯して将軍家へ越訴(おっそ)を行ったのが旧政所村(みなかみ町政所)の名主・松井市兵衛と上毛かるた「天下の義人 茂左衛門」で知られる旧月夜野村(みなかみ町月夜野)の名主・杉木茂左衛門で、市兵衛の越訴は失敗しますが、その数カ月後に行った茂左衛門の越訴は成功します。禁を犯した市兵衛は1681年12月に打首、茂左衛門は赦免の上使が間に合わずに1682年11月に磔となります。写真は、茂左衛門の刑場跡(みなかみ町月夜野)に建つ「義人茂左衛門之碑」です。

 

 

 1681年11月、91年間続いた真田氏の沼田藩は、これらの圧政に加え、請け負った江戸両国橋の架替用材木の調達遅延などを理由に改易され、信利は山形藩へお預けとなり、翌年には城も完全に破却されました。写真は、沼田市中央公民館に展示されている城鐘で、破却された城の形見として唯一残ったものです。この城鐘は、2代信吉が領内の安泰などを祈念して1634年に鋳造させ沼田城三の丸の楼に掛けて時報に用いたもので、改易の際に平等寺(沼田市原町)の梵鐘に払い下げられ、明治31年には旧沼田町の時鐘として復活しました。

 

 

 真田氏が去った沼田領はしばらく幕府の直轄となり、1703年に本多氏が入封して館御殿造りの城を再興しますが、天守閣が再建されることはありませんでした。本多氏3代の後、黒田氏2代、土岐氏12代の居城となって明治維新を迎え、城は取り壊されます。その後、旧沼田藩士の子息・久米民之助氏が荒れ果てた城跡を購入し、公園として整備して大正15年に沼田町に寄贈し、その後更に整備されて現在の沼田公園となっています。

 

 (参考図書等:「真田道を歩く」(上毛新聞社)、「沼田城略史」(岸大洞著)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、観光パンフレット、現地の説明板等)

 現在、NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」が放映され、初代群馬県令・楫取素彦が活躍した群馬県の登場が楽しみですが、来年放映予定の「真田丸」においても、今回ご紹介したとおり、真田氏が駆け巡った上州の地が多く登場することを期待したいと思います。