本部長の群馬紀行
第39回 沼田城を巡る史跡(その2)

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 さて、群馬紀行第39回は、沼田城を巡る史跡(その2)をご紹介します。

 

 赤城山北西麓に位置する昭和村は、北から東にかけて片品川と利根川を隔てて沼田市に接し、南は渋川市に隣接し、高原野菜の一大産地で、こんにゃく芋の収穫は日本一を誇ります。現在は美味しい野菜を育む豊かな田園風景が広がる昭和村も、かつて、北上する北条氏とそれを迎え撃つ真田氏が沼田城を巡り幾度となく衝突した激戦地で、村は戦火にまみれました。写真は、関越自動車道の昭和ICに隣接し、昭和村の玄関口にある道の駅「あぐりーむ昭和」です。

 

 

 戦国時代、昭和村には南から長井坂(ながいさか)城、森下城、阿岨(あぞ)城がありました。昭和村川額(かわはけ)の長井坂城跡は、関越自動車道の長井坂トンネルの真上に位置し、西側は利根川に続く約100mの断崖絶壁となっています。写真左上方に関越自動車道が見えますが、中央付近の崖上が長井坂城跡です。写真手前は国道17号と利根川の綾戸ダムですが、赤城山西麓で巨大なサージタンクが目立つ東京電力佐久水力発電所(渋川市北橘町真壁)の取水口となっています。

 

 

 長井坂城は、赤城山から続く丘陵の先端に築かれた城で、北条方・白井長尾氏の白井城(群馬紀行第7回参照)の支城でしたが、1560年には長尾景虎が関東進出の際に陣を張り、降伏した沼田顕泰を引見したとも伝わっています。その後再び北条方の城となっていましたが、1580年5月の沼田城攻略と同時に真田昌幸が略取しました。写真左方向が長井坂城跡で、その下を通る関越自動車道高速道路の先の正面方向が沼田市内です。

 

 

 

 1582年3月、主家の武田氏が織田信長に攻められて滅亡すると、昌幸は降伏して関東管領を称する信長家臣の滝川一益に沼田城を明け渡しますが、その信長も同年6月に本能寺で討たれ、すぐに取り戻します。同年10月、いよいよ北条氏の攻勢が始まり、当主・氏政の弟・氏邦が大軍を擁して北上し、長井坂城を奪い返しました。これに対して昌幸は、沼田城に叔父の矢沢頼綱、前衛の砦として築かれた森下城に加藤丹波守、阿岨城に金子泰清を配して守備を固めます。森下城を守る加藤丹波守は奮戦しますが大軍に抗しきれず、城を出て最後の一戦を試みた後、城の東300mにあるこの石(加藤丹波守腹切石)に腰掛けて切腹して果てたそうです。

 

 

 

 長井坂城、森下城を攻略した北条氏は、沼田城下を一望できる段丘上に築かれた阿岨城も攻略しました。城を守る金子泰清は3千騎の夜討ちに遭い、混乱する兵を見限って騎馬もろとも谷を滑り落ち、沼田城へ逃れたそうです。昌幸は窮地に陥りますが、幸運にもこの頃、北条氏に対する北関東の諸将の寝返りが相次いで攻勢の手が緩みます。1583年に信州・上田城を築いて本拠とした昌幸は、その後も北条氏、上杉氏、徳川氏、豊臣氏の大勢力の間を巧みに渡り、また城代・頼綱の奮戦もあって沼田城を守り抜きります。写真は、昭和村橡久保(とちくぼ)の阿岨城跡です。

 

 

 

 一方、金子泰清は昌幸から約束された恩賞(前回参照)を得ることもなく酷使された後に追放され、謀殺した甥の沼田景義の亡霊に悩まされながら寂しく病死したそうです。その金子一族の墓は、旧領の老神(おいがみ)温泉(沼田市利根町老神)の近くにあります。老神温泉の名の由来は、昔、日光の二荒山神(群馬紀行第24回参照)と赤城山神が奥日光の戦場ヶ原で戦い、矢に当たって負傷した赤城山神がこの地で矢を突き立てると湯が湧き出し、その湯で傷を癒して二荒山神を追い返したことから「追い神→老神」となったそうです。

 

 

 沼田城を巡る激戦地の近く、昭和村森下の雲昌寺(うんしょうじ)には、樹齢7百年の大ケヤキがあります。1847年2月29日、南風が非常に強い日に寺の南方で出火して付近の集落が焼き払われ、寺を越えて飛び火し東北方の集落も焼かれましたが寺は奇跡的に残りました。戦国時代の戦火を幾度も経験した大ケヤキが、江戸時代には身を挺して大火から寺を守ったのですが、大樹の南面根元は焼けて今も大きな空洞となっています。

 

 

 1589年、天下統一を進める豊臣秀吉は、上洛の条件として真田領の吾妻・利根郡を要求する北条氏とそれを拒否する真田氏を裁定し、利根川を境に沼田城を含む東を北条領、名胡桃城を含む西を真田領とします。この裁定を不服とした北条方の沼田城代・猪俣邦憲が名胡桃城を攻略して不法占拠したため、秀吉は激怒して大軍で小田原攻めを決行、その結果1590年に北条氏は滅び、沼田城は正式に真田氏のものとなりました。写真は、沼田顕泰以来沼田城主代々の守護神で、昌幸も出陣に際して祈願したと伝わる「戸鹿野(とがの)八幡宮」(沼田市戸鹿野町)です。沼田城を巡る史跡(その3)では、その後の沼田城をご紹介します。

 

 (参考図書等:「真田道を歩く」(上毛新聞社)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、観光パンフレット、現地の説明板等)