本部長の群馬紀行
第38回 沼田城を巡る史跡(その1)

 新年明けましておめでとうございます。
本年も、群馬紀行を宜しくお願いします。

 1月31日(土)に実施する自衛官候補生(男子)の試験受付は1月23日(金)までとなっておりますが、最後まで応募をお待ちしています。

 

 さて、群馬紀行第38回は、前橋市内から約40km、1時間15分の沼田城を巡る史跡(その1)をご紹介します。

 

 沼田城を築いたのは沼田氏で、その祖先は、群馬紀行第32回でご紹介したとおり、鎌倉執権北条氏に1247年に滅ぼされた相模国の名族・三浦氏の落人で沼田氏を称し、九州に下った大友氏の旧領・利根郡を引き継ぎました。初代景泰は沼田市井土上町に荘田(そうだ)城を築いて158年間居城し、1405年に8代景朝が沼田市町田町に小沢城を築いて114年間居城し、その間、着実に力を蓄えていきます。写真は、荘田城址公園です。

 

 

 1519年に11代泰輝は、利根川と薄根(うすね)川の合流点北東の河岸段丘(沼田台地)上の要害の地に幕岩(まくいわ)城(沼田市柳町)を築き、更に1532年に12代顕泰(あきやす)は、その西方約800mの地に倉内城(後の沼田城、沼田市西倉内町)を築きました。しかし平穏の日は長く続かず、平井城(藤岡市)を拠点に上州を支配していた関東管領上杉憲政が、関東支配を企図する北条氏に攻められて越後に逃れると、その要請を受けた長尾景虎(後の上杉謙信)が上州に進出し、顕泰は1560年に上杉氏に帰属します。写真は、住宅地の一角に残る「幕岩城二の丸跡」の石碑です。

 

 

 その後沼田氏は、1566年に13代朝憲が家督を継ぎ、顕泰は天神城(川場村)に隠居しますが、側室の子・平八郎景義を後継者にしようと側室の兄・金子泰清と画策して1569年に朝憲を謀殺します。しかし、朝憲の家臣と妻の実家で上杉方の厩橋(まやばし)城代・北条(きたじょう)高広の軍に敗れると、親子は尾瀬を越えて会津に敗走し沼田氏は断絶、沼田城には上杉氏の城代が入りました。写真はJR上越線「沼田駅」から見た沼田台地の西端ですが、左端の台地上に沼田城跡があります。

 

 

 一方、1561年頃までに信州の大部分を平定した武田信玄も余地峠(南牧村、群馬紀行第36回参照)などを越えて上州に進出し、国峰城(甘楽町、同第31回参照)や箕輪城(高崎市、同第14回参照)などを攻略して西上州を平定します。また、吾妻・利根郡の攻略は真田幸隆に委ねられ、鳥居峠を越えて吾妻郡に進出し、羽根尾城(長野原町)、岩櫃城(東吾妻町、同第19回参照)、嵩山城(中之条町、同第4回参照)などを攻略します。写真はJR吾妻線「羽根尾駅」の裏山にある羽根尾城跡ですが、羽根尾氏の一族・海野(うんの)幸光、輝幸兄弟は、1563年の岩櫃城攻略の際に真田氏に内応するなどして武功を立て、兄・幸光は岩櫃城の城代を任されて吾妻郡を治めました。

 

 

 1573年に武田信玄が没して勝頼が家督を継ぎ、1574年には真田幸隆が没して長男・信綱が家督を継ぎますが、翌年の長篠の戦で戦死したため三男・昌幸が家督を継ぎました。一方、上杉氏の支配下にあった沼田城は、1578年に謙信が急死すると北条氏が奪い取っていましたが、1579年に勝頼は昌幸に沼田城攻略を命じます。昌幸は、利根川を挟んで対岸にあった沼田氏の一族・名胡桃(なぐるみ)氏の館を攻略して名胡桃城(みなかみ町下津、写真)を築き、ここを前哨基地として沼田城攻略を開始します。

 

 

 当時、沼田城には北条方の猪俣邦憲が城代、藤田信吉らが城将として配置されていましたが、昌幸の調略により藤田信吉らが内応し、1580年5月に戦うことなく降伏しました。沼田城を攻略した昌幸は、藤田信吉に本丸城代を、海野輝幸に二の丸城代を命じ、沼田氏の内紛以降も沼田城に留まっていた金子泰清を執事に据えます。泰清は旧追貝(おっかい)村(沼田市利根町追貝)の地侍で、妹が顕泰の側室となったことで出世し、沼田城を巡る攻防の渦中で沼田氏、上杉氏、北条氏、真田氏と次々と主を変えていきます。写真は、戦国大名の攻防の場となった沼田城跡です。

 

 

 1581年2月、会津に逃れた後、北条方の女渕(おなぶち)城(前橋市粕川町)に潜んでいた沼田景義が沼田城奪還のために挙兵し、沼田氏旧臣の中からも味方する者が現れて沼田城に危機が訪れます。そこで昌幸は一計を案じ、景義の叔父にあたる金子泰清に恩賞を約束して利用し、景義を城内に誘き寄せて謀殺させます。写真は沼田城跡にある「平八石」で、昌幸が景義の首を載せた石だと伝わっています。昌幸は沼田氏旧臣の離反を恐れ、景義の遺骸を先祖伝来の小沢城跡に葬り沼田大明神として祀りましたが、首は毎夜、写真奥の方向にある遺骸の墓所に飛んで行ったそうです。

 

 

 更に1581年11月、岩櫃城代や沼田城代を勤めていた海野兄弟を妬む地侍達の「海野は北条と通じる。」などの流言が広まると、吾妻・利根郡に対する支配力を強めるため、昌幸は兄弟を除くことを決断します。兄・幸光は岩櫃城で討たれ、弟・輝幸とその子・幸貞は無実の証を立てようと沼田城を出ますが追撃され、二人は「無益な殺生はこれまで。」と刺し違えて自刃したそうです。写真は、自刃の地(沼田市岡谷町)に建てられた「海野塚」です。なお、幸光の墓は旧領の羽根尾城跡にあります。

 

 (参考図書等:「真田道を歩く」(上毛新聞社)、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、観光パンフレット、現地の説明板等)