本部長の群馬紀行
第37回 信州姫街道(西牧道)

 皆様、こんにちは。
 暮も押し迫り、本年最後の群馬紀行となりました。

 中学生を対象とした高等工科学校生徒の試験受付期限(1月9日)が迫っています。また、1月31日に実施する自衛官候補生(男子)の試験受付は1月23日までとなっていますので、引き続き応募をお待ちしています。

 

 さて、群馬紀行第37回は、信州姫街道(西牧道)として、甘楽郡下仁田町の史跡や景観などをご紹介します。

 

 「信州姫街道」のうち西牧(さいもく)道は、下仁田宿から鏑川(かぶらがわ、西牧川とも呼ぶ。)に沿って西に進み西牧関所(藤井関所)を経て本宿(ほんじゅく)に至ります。本宿の先で、そのまま国道254号を西に進んで内山峠を越えて信州に入る道と、北上して初鳥屋(はつとりや)を経て和美(わみ)峠を越えて信州に入る道とに分かれていました。写真は、和美峠に向かう道沿いの西牧川の支流上にある「夫婦岩」(めおといわ)ですが、岩盤の上に大きな二つの丸い石が絶妙のバランスで載っています。

 

 

 一方、内山峠方向に進むと航空母艦のような平らな形の「荒船山」(あらふねやま、標高1,423m)が頭上に迫りますが、峠(内山トンネル)の数km手前で旧道を北に分け入った県境沿いに「神津(こうづ)牧場」があります。標高1,060mの高原に広がる牧場は、日本初の洋式牧場として明治20年に誕生し、一貫して英国原産のジャージー種を飼養しています。ジャージー種は一般的なホルスタイン種よりも小柄で大人しい乳牛で、その牛乳は脂肪や蛋白質が多く、製造されるバターは黄色みが濃くてゴールデンバターと言われるほど珍重されているそうです。

 

 

 世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成遺産の一つである「荒船風穴」は、神津牧場の東に隣接する標高840m前後の山間にあります。明治38年に建設され、昭和の初め頃まで使用された蚕種の貯蔵施設で、天然の冷気を利用して蚕種を冷蔵し、養蚕を年に複数回行うことを可能にしました。3基の風穴による貯蔵能力は国内最大規模で、その利用は全国各地に広がり、遠く朝鮮半島にも及んだそうです。当時の建物は残っていませんが基礎となる石垣が残り、風穴からは現在でも冷気が吹き出しています。

 

 

 

 1864年3月に尊王攘夷の旗を翻して筑波山に挙兵した水戸浪士(水戸天狗党)は幕府軍に制圧されますが、同年10月、その残党約900人が武田耕雲斎を総大将として京を目指して西上の途につき、日光例弊使道の太田宿から上州に入りました。当初、中山道で信州に向かう計画でしたが、幕府から追撃の命を受けた高崎藩が中山道に陣を敷いたため、進路を脇往還の信州姫街道に変え、藤岡、吉井、福島、富岡、一の宮、南蛇井を経て下仁田宿に迫りました。写真は、信州姫街道の旧道「小坂坂(おさかざか)峠道」ですが、11月15日に水戸浪士は大砲を曳いて峠を越え、下仁田宿に入りました。

 

 

 

 これに対し、高崎藩士約300人は、北の中山道方面から梅沢峠を越えて下仁田宿の先の下小坂付近に本陣を構えました。翌16日の未明から午前中にかけて本陣付近などで激しい戦闘(下仁田戦争)が行われ、兵力や火力に劣る高崎藩は善戦しますが、高崎藩士36人、水戸浪士4人が戦死し、高崎藩は再び梅沢峠を越えて中山道方面に退却しました。写真は、高崎藩の本陣となった名主・里見家の蔵ですが、当時の弾痕の跡がはっきり残っています。

 

 

 

 一方、勝利した水戸浪士は同日、西牧道を進んで本宿に宿営し、翌17日に内山峠を越えて信州に入りましたが、峠越えで絶命した重傷者も多かったようです。その後、信州、美濃を通過して越前に入りますが、幕府軍3万人との戦いに力尽き、降伏、武田耕雲斎を始め多くの浪士が処刑されました。写真は、往時の宿場町の面影が残る旧道沿いの本宿ですが、西牧道は御用米としても江戸へ送られた信州佐久米の移入路で、本宿は米市が立つなど大いに賑わったそうです。

 

 

 

 下仁田戦争激戦地の近くの下仁田町中小坂(なかおさか)の山中には、群馬紀行第18回でご紹介した小栗上野介も参画して採掘が始められた「中小坂鉄山」があり、明治7年には民間資本による日本初の近代的洋式製鉄所「中小坂鉄山製鉄所」が建設されました。鉄鉱石が採れるこの辺りは、豊富な森林資源や良質な石灰石などにも恵まれた製鉄所の適地で、採掘から製鉄まで行う「銑鋼一貫」の製鉄所として一時官営化されるなど順調に操業されましたが、鉱脈の枯渇等の理由により大正7年に閉所されました。現在も製鉄所跡と採掘抗跡などの遺構が残っており、産業遺産として最近注目を集めているようです。

 

 

 

 明治30年、信州姫街道と並走するように高崎と下仁田を結ぶ「上野(こうずけ)鉄道」が開通しました。地方鉄道としては2番目となる民間資本による軽便鉄道で、生糸、繭、砥石、石灰石、鉄鉱石などの街道沿いの産物を輸送してこの地域の経済発展に大きく貢献し、大正10年に「上信電鉄」と社名変更して現在に至っています。写真は、小坂坂峠道沿いの下仁田町と富岡市の境界の鬼ヶ沢に架かる「上野鉄道鬼ヶ沢橋梁」跡で、その直ぐ傍を現在の上信電鉄が通っています。

 

 

 

 下仁田町は、日本列島が形成される過程で生じた大地の変動の証拠を集中して観察することができる地域で、日本で35地域(掲載日現在)が認定されているジオパーク(大地の公園)の一つです。上毛かるた「ねぎとこんにゃく下仁田名産」で有名な特産品の「下仁田ねぎ」の風味もジオパークで生み出され、他の地域では出せないそうです。写真は、下仁田町吉崎の鏑川と南牧川の合流点にある青い石畳の「青岩公園」ですが、この辺りの山は、青岩の基盤の上に地殻変動で別の場所から移動してきた地層が浸食されてできた山で、山頂と麓で地層のつながりがないことから「根なし山」(クリッペ)と呼ばれ、日本の地質100選に選ばれています。

 

 (参考図書等:下仁田町ふるさとセンター・歴史民俗博物館、下仁田町HP、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、観光パンフレット、現地の説明板等)