本部長の群馬紀行
第36回 信州姫街道(南牧道)

 皆様、こんにちは。
 二つの低気圧が急速に発達し、気温も下がり、各地で暴風雪となるおそれがあるようです。

 現在、中学生を対象とした高等工科学校生徒の試験受付を行っていますので、たくさんの応募をお待ちしています。また、自衛官候補生(男子)については年間を通じて募集を行っていますが、来年1月31日(土)に試験を行いますので、こちらへの応募もお待ちしています。

 

 さて、群馬紀行第36回は、信州姫街道(南牧道)として、甘楽郡南牧村の史跡や景観などをご紹介します。

 

 「信州姫街道」は「信州街道」と同じく中山道の脇往還で、信州街道が中山道の北を通るのに対して中山道の南を通っています。富岡街道、下仁田街道などとも呼ばれて概ね国道254号と重なっており、中山道の本庄宿から分かれて藤岡、吉井、福島、富岡、一の宮、南蛇井(なんじゃい)、下仁田の各宿を通り、西牧(さいもく)道と南牧(なんもく)道に分かれて峠を越えて信州に入りました。このうち南牧道は、鏑(かぶら)川の上流の南牧川に沿って谷あいを進み、余地(よじ)峠や田口峠を越えたそうです。写真は下仁田の分岐点ですが、左が南牧道、右が西牧道です。

 

 

 南牧村は滝の里とも言われ、村の中央を流れる南牧川の上流や南牧川に流れ込む支流には数多くの滝があります。また、南牧川の激しい浸食作用が渓谷や奇石などの数々の造形美を生んでいます。写真は、前橋市内から約60km、1時間45分の南牧道沿いにある「蝉(せみ)の渓谷」と呼ばれる景勝で、両岸の岩山が急激に迫り、またいで渡れそうです。なお、近くに松尾芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」の句碑がありますが、渓谷の「蝉」の由来は「狭水」の転訛だそうです。

 

 

 南牧道の北側にある黒滝山(くろたきさん)不動寺は、標高870mの黒滝山の中腹にあり、行基が自ら彫ったと伝わる不動明王を安置し、厄除けの不動の霊場として千余年の歴史がある古寺です。境内には山門、不動堂、本堂、開山堂のほか、戦艦「陸奥」の羅針盤が合鋳された梵鐘、「黒滝の大蒟蒻(こんにゃく)」という石、「龍神の瀧」、「黒滝山の大杉」などの見所がたくさんあります。

 

 

 

 黒滝山は、不動寺を中心に観音岩、九十九(くじゅうく)谷、馬の背、鷹の巣山、幕岩などの山全体を言い、スリルのある登山と抜群の展望が楽しめます。不動寺から10分ほど登った所から始まる「馬の背」と呼ばれる切り立った断崖上の長く細い道を鎖や鉄梯子を頼りに慎重に進むと見晴台があり、遠く群馬県庁も見渡せます。写真中央の赤い屋根が不動寺の宿坊で、その上方に見える大きな岩の下に不動寺があります。背景に見えるラクダのコブのような形をした山が「鹿岳」(かなだけ、標高1,015m)でその右の四つの鋸の歯のような形をした山が「四ツ又山」(標高890m)で、いずれも南牧村と下仁田町にまたがる名峰です。

 

 

 

 「姫街道」は「女街道」とも言われ、厳重な関所がない、川などの難所がない、武士の往来が少ないなどの理由で女性の旅人が多く利用したことから名付けられたそうです。南牧道や西牧道にも関所がありましたが、中山道の碓氷関所に比べると取り締まりは比較にならないほど緩かったようです。写真は、砥沢(とざわ)宿の手前にある南牧関所(砥沢関所)跡です。

 

 

 砥沢は古くから砥石の産地で、宿の南に砥石を切り出した砥山があって、江戸時代には「上野御用砥」(こうずけごようと)と呼ばれ珍重されました。砥沢の砥石は、信州姫街道を下仁田、富岡、藤岡と中継して江戸に送られ、全国市場をも支配したそうですが、良質な鉱脈の枯渇、水害による砥山の荒廃、他の産地の開拓などにより、江戸時代後期には廃れてしまったようです。

 

 

 南牧道の歴史は古く、西牧道が脇往還として利用される以前の信州への往来は専らこの道が使われたそうです。また、甲州へも通じることから武田信玄もここから上州に入り、砦などが築かれていたようです。写真は、南牧村の最奥にある勧能(かんのう)宿ですが、戦国時代から江戸時代にかけて人馬往来により栄えた宿も、今は静かな谷間の集落となっています。

 

 

 砥沢宿から先の南牧道は、車のすれ違いがやっとの細い道が続きますが、勧能宿の先の熊倉から先はさらに細くなって眼前に山が迫り、やがて車両通行止めになります。ここから先は「あぶみずり坂」(馬の鐙もずり落ちるほどの坂)と呼ばれた急坂を登って標高1,269mの余地峠を越えたそうです。写真は、熊倉から歩いて5分ほどの上流にある「人面石」という奇石です。

 

 

 (参考図書等:南牧村HP、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、観光パンフレット、現地の説明板等)