本部長の群馬紀行
第33回 十石峠街道(その1)

 皆様、こんにちは。
 前橋市内も、朝晩はコートが必要なくらい冷え込んでいます。

 

 一般曹候補生、自衛官候補生の採用試験に合格し採用候補者となった皆様、おめでとうございます。今後の入隊をお待ちしています。

 現在、中学生を対象とした高等工科学校生徒の試験受付を行っていますので、たくさんの応募をお待ちしています。また、自衛官候補生(男子)については年間を通じて募集を行っていますが、来年1月下旬に試験を行う予定ですので、こちらへの応募もお待ちしています。

 

 さて、群馬紀行第33回は、十石(じっこく)峠街道(その1)として、多野郡上野村の史跡などをご紹介します。

 

 

 十石峠街道(国道462号、299号)は、中山道新町宿(高崎市新町)から神流川(かんながわ)に沿って藤岡、鬼石、万場、中里、上野、白井(しろい)の各宿を通って上信国境の十石峠(じっこくとうげ、標高1351m)を越えて信州に入り、佐久を経て下諏訪宿で中山道や甲州街道に合流します。十石峠の名の由来は、山が川に迫る神流川沿いの地域は平地が少なくて米作りができないため、信州から1日十石(約1,500kg)の佐久米が「十石馬子唄」を唄う馬子によって上州に運び込まれたことによると言われています。十石峠に建つ展望台からは、上毛三山や前橋市内などを見渡すことができます。

 

 

 

 現在、十石峠から上野村の間の国道299号は工事中で、一部区間が通行止めとなっていますが、迂回路の林道を利用して通行することができます。信州から十石峠を越えて上州に入り、最初の宿が「白井集落」(上野村樽原、写真)です。前橋市内から十石峠街道経由で約70km、約1時間45分ですが、富岡市、下仁田町、南牧村を経由して平成16年に開通した全長3.3kmの「湯の沢トンネル」を利用すれば約60km、約1時間30分と若干短縮できます。

 

 

 この白井集落には、明治の中頃まで、米問屋、宿屋、酒屋、質屋、飲食店など多くの商店があって毎月7日間の市が開かれ、上州、武州、信州から商人が集まりました。信州からは米、酒、味噌、醤油、日用品など、上州からは木炭、和紙、下駄、薬草、繭などの各地の物産が持ち込まれて交易が行われ、大いに繁栄したそうです。写真は、集落中央の旧十石峠街道沿いに建つ「白井の市神様」と呼ばれる祠で、1673年の銘があります。

 

 

 十石峠街道の通行人は、商人、職人、湯治客、巡礼者などでしたが、前述のとおり中山道の脇往還でもあったため、江戸幕府は1631年に白井集落の東端に「白井関所」を設置し、信州への往来を取り締まりました。写真は、関所設置にあたり初代関所守の庭に植えられたイチイの大木で「白井関のイチイ」と呼ばれています。現在の集落は山間にひっそりと佇み、当時の繁栄は想像できませんが、集落を巡る遊歩道や休憩所が整備されています。

 

 

 江戸幕府は、豊富な森林資源と信州への間道としての軍事的役割を重要視して上山郷(上野村)、中山郷(旧中里村、現神流町)、下山郷(旧万場町、現神流町)を天領にして「山中領」(さんちゅうりょう)と呼称し、代官に治めさせました。写真は、上野村川和(かわわ)の「天空回廊・上野スカイブリッジ」から見た上野村(左に見える集落が役場付近)ですが、スカイブリッジは長さ225m、高さ90mの巨大なつり橋で、谷に橋の影が映っています。

 

 

 上山郷には、将軍家に献上する鷹狩りの「巣鷹」(鷹のヒナ)の保護区(御巣鷹山)が27ヶ所あり、上山郷の大総代(庄屋)を務めた黒澤家がその管理を任されていました。上野村樽沢の「旧黒澤家住宅」は、19世紀中頃に建てられた黒澤家の大規模な旧家で、屋根には割れやすい瓦の代わりに石で押えた栗の割板が使用され、2階には養蚕部屋を有し、代官を迎えるための「式台」と呼ばれる玄関や4つの座敷を備えるなど他に類を見ない構造であることから、国の重要文化財に指定されています。

 

 

 スカイブリッジに隣接した「川和自然公園」には、洞内延長2.2kmで関東一の規模を誇る鍾乳洞の「不二洞」(ふじどう)があります。今から約1200年前、岩壁に猿が集まり騒いでいるのを不思議に思った村人が「猿の穴」と呼ばれる小さな穴を見つけたのが始まりで、その後、洞内の探検が行われますが広大で複雑なために成功せず、約400年前に上野村川和の吉祥寺の僧が初めて最奥部に到達し、修行の場として世に広めたそうです。洞内45か所に仏に因んだ名称が付けられ、これらを巡る見学の所要時間は約1時間40分です。

 

 

 明治17年11月1日、政府のデフレ政策などで困窮した秩父や西南上州の農民約1万人が椋神社(むくじんじゃ、埼玉県秩父市)に集結して「困民党」を組織し、軍や警察と戦いました。困民党の本体解体後、残余の一隊百数十人は5日に矢久(やきゅう)峠を越えて山中領に入り、領内からの同行者を含む数百人が6日に白井集落で宿営し、翌日十石峠を越えて信州に逃れますが、9日に野辺山高原で再び戦い壊滅しました。事件は長い間「秩父暴動」と呼ばれてきましたが、近年になって、自由民権運動の一環で農民が立ち上がった正当な行動であったと見直され「秩父事件」と呼ばれるようになっています。写真は、白井集落から十石峠に向かう旧十石峠街道です。

 

 (参考図書等:「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、「上州の旧街道いま・昔」(山内種俊著)、観光パンフレット、現地の説明板等)