本部長の群馬紀行
第31回 小幡陣屋跡(城下町小幡)

 皆様、こんにちは。
 立冬を迎え、暦の上では早くも冬となりました。

 一般曹候補生、自衛官候補生の採用試験に合格し採用候補者となった皆様、おめでとうございます。今後の入隊をお待ちしています。現在、中学生を対象とした高等工科学校生徒の試験受付を行っていますので、たくさんの応募をお待ちしています。

 

 さて、群馬紀行第31回は、前橋市内から約30km、1時間の甘楽町にある小幡陣屋跡(城下町小幡)をご紹介します。

 

 甘楽町小幡は、鎌倉時代から戦国時代にかけて小幡氏の根拠地として栄えた場所で、室町時代に関東管領山内上杉氏が平井城(藤岡市)を居城として支配力が高まると、西上州の拠点として重要視され、小幡周辺に国峰城、白倉城、天引城(群馬紀行第11回でご紹介した朝日岳)などが築かれました。写真は、小幡八幡宮の裏山にある「八幡山夕陽ヶ丘公園」から見た小幡地区(手前)と富岡市(奥)ですが、中央に浅間山、左に妙義山、右に小さく富岡製糸場が確認できます。

 

 

 山内上杉氏の重鎮だった小幡氏は国峰城を居城とし、戦国時代には武田信玄に仕え、信玄から「赤備え」と呼ばれた赤い具足の着用を許されて先陣として武勇を馳せ、武田24将の一人に数えられました。武田氏滅亡後は織田信長家臣の滝川一益に従い、本能寺の変後は北条氏の勢力下に入りますが、1590年の小田原攻めで国峰城が落城すると、旧友の真田氏を頼って信州に去りました。小幡の南西に位置する国峰城は中世の大城郭で、標高434mの城山山頂に本丸が置かれ、中腹の「御殿平」(写真)には小幡氏の居館がありました。

 

 

 小幡氏が去った後は徳川家康の領地となり、奥平氏、松平氏、水野氏、井伊氏を経て1615年に織田信長の二男信雄(のぶかつ)が大和国宇陀郡3万石と小幡2万石を与えられ、翌年、2代信良が福島陣屋(井伊氏が甘楽町福島に築いた藩邸)に入り藩政を開始します。1642年に3代信昌は小幡氏の重臣だった熊井戸氏の館跡に陣屋を移転し、小幡陣屋の町割りが形成されました。写真左は、陣屋への入口となる「大手門跡」(礎石)で、ここから奥(南側)に武家屋敷、手前(北側)に町屋が形成されました。写真右は、大正15年に製糸工場の繭倉庫として建てられた煉瓦造りの「甘楽町歴史民俗資料館」で、富岡製糸場に近い甘楽町は後年、絹産業で栄えました。

 

 

 

 日本百名水に選ばれている「雄川堰」(おがわぜき)は、甘楽町を南北に流れる雄川から取水され、古くから生活用水や灌漑用水として利用されてきた用水路で、小幡陣屋への移転に伴い現在の形に整備されました。本年9月、建設から100年以上経過し、歴史的価値のある世界中の利水施設を登録する「かんがい施設遺産」に雄川堰など国内の9施設が選ばれました。写真は、町屋地区を流れる幅1.2〜1.7mの雄川堰(大堰)です。

 

 

 

 小幡陣屋は、雄川の西側の断崖上に造られ、東西約600m、南北約760m、面積約34haに及び、藩邸を中心として60余りの藩役所、武家屋敷と2つの神社を構え、その各々に雄川堰の用水を分配する広大なものでした。なお、雄川は陣屋から20mも低い所を流れているため、約2.3km上流に取水口が造られました。写真は、雄川堰(大堰)の水を陣屋内に配水するために張り巡らされた幅30〜50cmの雄川堰(小堰)で、当時の高度な技術がうかがえます。

 

 

 小幡陣屋の中心を占める道路という意味の「中小路」(なかこうじ)は、藩主が通った大手門から藩邸までの間の700mの道路で、武家屋敷の白壁、石垣、庭園などが当時の面影を伝えています。小路どころか道路の幅は14mもあり、車のない時代にこのような広い道路を造ったのは大変珍しく、僅か2万石の陣屋ながら織田氏の格式の高さがうかがえます。

 

 

 藩邸の奥に位置する「楽山園」(らくさんえん)は、初代信雄が小幡陣屋への移転に先立ち、京都から名匠を招いて7年の歳月と数万両の巨費を投じて造ったと言われています。池とその周囲を巡る園路を中心に作庭された池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)の庭園で、遠景の山並みを借景として取り込んで豊かな広がりを演出しており、隣接する藩邸跡を含む庭園一帯が国の名勝に指定されています。楽山園という名前の由来は「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」という論語の一文から名付けられたそうです。写真は、庭園の高台に建てられた茶屋(休息所)からのものですが、当時は藩主などごく限られた人だけが楽しんだ景色です。

 

 

 織田氏は8代152年間にわたりこの地を治め、1767年に出羽高畑(山形県高畠町)に移封となり、その後、上里見(高崎市)などを領していた松平氏が入封して明治維新を迎えました。松平氏は若年寄などの要職を務め、その功績により1850年に「城主格」が与えられ、以後、小幡陣屋は「小幡城」と呼ばれました。写真は「織田宗家七代の墓」で、織田氏の菩提寺である「崇福寺」(そうふくじ)には、初代信雄から7代信富までのが墓があります。

 

 (参考図書等:甘楽町HP、甘楽町歴史民俗資料館、「群馬県の歴史散歩」(山川出版社)、観光パンフレット、現地の説明板等)